世界サブカルチャー史 日本 逆説の60-90s 第4回2023-03-30

2023年3月30日 當山日出夫

世界サブカルチャー史 日本 逆説の60-90s 第4回

日本の「サブカルチャー」を四回にわけて、六〇年代から九〇年代まであつかったことになる。四回目、九〇年代を見て思うことはいろいろとある。

以前にも書いたが、九〇年代を考えるということは、断絶をいかに克服できたか/出来なかったかということにポイントがある。昭和という時代の終わりであり、冷戦の終結であり、湾岸戦争であり、バブルの崩壊である。この一連の出来事をどうふりかえって、何を考えることができるのか、あるいは、できなかったのか。私の考えるところとしては、ここで日本はこの時代を考えることに失敗してしまった。その後、一九九五年以降、今にいたるまでの失われたというべき時代は、ここからスタートするのではないだろうか。

思い起こせば、昭和という時代の終わりは劇的でもあった。報道などでは、さかんに昭和の時代を総括する番組や文章が流れていた。この時代を生きてきた人間が今になって回顧して見るならば、この時、徹底して昭和という時代、あるいは、戦後日本という時代を反省することができなかった。表面的に出来事をなぞっただけで終わってしまった。昭和天皇崩御のかげで、本当に考えるべきことを考えずにすごしてしまったという思いがある。

さて、九〇年代、何をしていただろうか。番組で取り上げなかった事柄の一つに、パソコン通信がある。今となっては時代遅れかもしれないが、しかし、今のインターネット社会を予見させる様々な事柄が、すでにパソコン通信の時代にはあったように思い出される。パソコン通信から、インターネットへの時代が、私にとっての九〇年代を考える大きなキーになることは確かである。

しかし、そもそも、サブカルチャーの歴史とは何だろうか。サブカルチャーと言われるものは確かにある。だが、それだけを取り出してあつかうことに、どれほど意味があるのかという気もしないではない。この番組(四回)の中で登場していない人物としては、たとえば、丸山眞男があり、鶴見俊輔があり、吉本隆明がある。これらは、メインの部分として論じることで、サブカルチャーではない、そう考えてのことだろう。しかし、その言論の消費のされかたは、サブカルチャー的であったと言ってもいいのかもしれない。このように思えてしかたがない。

「朝日ジャーナル」を読む一方で、漫画雑誌も読み、また、「諸君」なども読まれてきたというのが、私の、経験的に感じるところでもある。その一部分だけを取り出して論じるのでは、やはり時代の全体像は見えてこないのではないか。あるいは、サブカルチャーという視点を設定することで、もうそれは諦めることで、場合によっては、時代考証的なトリビアな知識の羅列に終わってもしかたないのではないか。このようにも思える。

だが、ともあれ、この四回を見て、思い出すこと、考えることがかなりあった。戦後日本とはどのような時代であったか、改めて考えるいいきっかけになったと思う。

2023年3月28日記