100分de名著「“谷川俊太郎詩集” (3)ひらがなの響き、ことばの不思議」2025-05-24

2025年5月24日 當山日出夫

100分de名著 “谷川俊太郎詩集” (3)ひらがなの響き、ことばの不思議

詩について語るとき、このようなことを言うのは野暮だと思うが、書いておく。

谷川俊太郎のひらがなの詩という概念が生まれる背景には、近代になってからの活字印刷ということがあり、変体仮名の消滅ということがあり(実際にはまったく消えたわけではないが)、新しい仮名遣い(現代仮名遣い)の制定と普及ということ、これらのことがある。日本語の表記の歴史という観点を導入してみると、これは、日本の詩歌の歴史のなかで、近現代になってから生み出された非常に新しいものということになる。

前にも書いたことだが、『万葉集』の時代、そもそも歌は、声に出して詠まれるものであった。無論、この時代にひらがなは存在しない。

平安時代になって、ひらがなができ(おそらくは、9世紀のころ)、10世紀のはじめごろに成立した『古今和歌集』は、ひらがなを主体として書かれた。この時代の表記の実態についてはむずかしいが、『古今和歌集』が完全に漢字を排除して書かれたかどうかは、どうだろうか。それよりも重要なことは、この時代であれば、多くの変体仮名が使われていたこと、また、料紙に筆写するとき、文字の連綿や筆づかいや墨継ぎなどによって、視覚的に多くの情報をふくむものであった、これは確かなことであろう。もちろん、ひらがなを書く文字の美しさ(強いていえば、書芸術)も重要である。

このような視覚的な情報を整理して、あえていえば余分なものとして取り払ってしまったところに成立するのが、近現代になってからの、ひらがな表記による詩歌、ということになる。

日本の詩歌の歴史を考えるとき、それがどういうメディアであったのか(口承なのか、木簡なのか、紙なのか、筆写なのか、古活字印刷なのか、整版なのか)、さらに、その書物の形態はどんなであったか、そして、どのような文字で書かれたのか(漢字ばかりだったのか、ひらがなであったのか、カタカナであったのか、漢字を交えていたのか)……このようなことを総合的に考えることになる。文学研究というだけではなく、書誌学や、日本語の表記史などを、ふくめて考えなければならないことになる。

このようなことを思ってみると、谷川俊太郎のひらがなの詩というのは、歴史のなかできわめて新しいものである、ということが見えてくる。

2025年5月20日記

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