知恵泉「不屈の美術商 林忠正 “国賊”と呼ばれて」2025-05-23

2025年5月23日 當山日出夫

知恵泉 不屈の美術商 林忠正 “国賊”と呼ばれて

録画してあったのをようやく見た。

見ながら思ったことは、林忠正について、『英雄たちの選択』で、磯田道史と鹿島茂が話したら、どんな内容になっただろうか……ということがある。(あるいは、もう放送してしまったことなのかとも思うけれど。どうなのだろうか。)

学生のとき、東洋の美術史、陶磁器のことが専門の先生に習ったことがある。その先生の言っていたこととして、日本から多くの浮世絵が海外に流出していったのは、陶磁器を輸出するとき、割れないようにすきまにつめてあった紙くずに絵が描いてあって、それが、実は浮世絵だったから。それに西洋の人びとが着目した。

浮世絵は、江戸時代から明治のはじめのころまで、日本ではゴミだったのである。現代では、いくつかの美術館などが多く所蔵しているが、江戸時代からつづくコレクションによるもの、というのはなかったかと思うが、この点について、浮世絵の専門家はどう思うのだろうか。(慶應にも、高橋誠一郎コレクションははいっているはずなのだが、やはり近代になってからのコレクターということになるだろう。太田記念美術館のコレクションも、近代になってからのものである。)

大局的な観点から考えるならば、西欧におけるオリエンタリズムのなかの一つとして考えることになるだろう。端的にいえば、この時代の西欧人にとって、中国や日本は、未開の地域だったのであり、たまたまそこに珍奇な美術品があり、価値を見出した、ということになるだろう。日本文化という独自の存在が、対等なものとして認められるようになるのは、かなり後のことになるはずである。

江戸時代から明治の初めのころ、浮世絵は、日本国内では、どこにどのように存在していたものなのか。貴重な美術品として、厳重に蔵のなかにしまってあった、というわけではなかっただろう。

それは、いくらぐらいの値段で取引され、日本国内で流通していたのだろうか。その取引にかかわっていたのは、どのような業種だったのだろうか。おそらくは、絵双紙をあつかう本屋か、骨董屋だったかとも思うが、どうなのだろうか。

『べらぼう』では、蔦重は歌麿や写楽を見出したということになるのだが、しかし、その同時代の人びとにとって、歌麿は見捨てられ、写楽は相手にされなかった……かなり極端にいえば、このようになるかもしれない。フランスでも、印象派の画家たちは、同時代では相手にされなかった。美術の世界の評価の変遷ということは、もうすこし考えてもいいのではないだろうか。

2025年5月22日記

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