映像の世紀バタフライエフェクト「AI 未来を夢みたふたりの天才」 ― 2025-05-23
2025年5月23日 當山日出夫
映像の世紀バタフライエフェクト AI 未来を夢みたふたりの天才
コンピュータとAIの開発史を、手堅くまとめたという印象である。
チェスで世界チャンピオンに勝ったIBMのDeepBlueは、その演算能力の速さで勝った。(このニュースに接したとき、私が思ったことは、勝ったのはコンピュータではなくて、プログラマではないのか、と感じたことを憶えている。計算機の処理スピードは、技術が進歩すれば速くなるのは当たり前である。この時代、すでに、世の中でパソコンがかなり普及していて、私も使っていた。)
AlphaGOが勝ったときは、おそらく質的に根本的な変化があったにちがいない。ただの計算速度の速さではない何かがあったのだろう。しかし、それが何であったのかを、説明できないのが、あるいは、現代のAI研究の姿なのかとも思う。これが、本当に人間の考えていることと同じようなことであったのか、それとも別の何かであったのか。いったいどうなのだろうか。
この番組では生成AIのことについては触れていなかった。私が勉強してきた言語の研究の分野では、まさに生成AIを抜きにして言語というものを考えられなくなってきている。それを否定的に見るにせよ、肯定的に見るにせよ。(もう、こういうことにつきあうのが嫌になったということもあって、それにもう年だし、言語の研究からは手をひくことにしたのだが。)
少なくとも、生成AIが作りだした(?)ことばを読んだり聞いたりして、それを、普通に言語として、人間の側がうけとめてしまうことになるのならば、それは、もう言語であるとしかいいようがない。
もっと具体的にいえば、これからの言語研究、特に、辞書の編纂などにおいて、生成AIによることばを、ことばの用例として使っていいのだろうか、という、これは研究者にとってすぐに直面することになる切実な課題がある。現在、WEB上にあることばのなかには、かなりAIによるものがあるだろう。また、世の中に流布している書籍や文書などでも、AIによるものがあるはずである。これらを、(旧来の意味での)人間のことばの用例と同じにあつかうことが妥当なのだろうか。このことのこたえは、今のところない。
少なくとも現在のところ、生成AIのことばは、人間のことばとは、質的にことなっているというのが、認知言語学などの立場からの、批判的見解だろうと思う。だが、これも、これからどうなるか分からない。
AIを制するものが世界を制する……たしかにこのとおりだろう。だが、ひょっとするとAIに人間が制せられる時代になってしまうかもしれない、という危惧はある。
チューリングやノイマンのことについて、映画を使っていたが、それなら、『2001年宇宙の旅』を使ってもよかったかもしれない。
さらに重要なことは、AI開発をささえているのは、単なる技術の進歩だけではなく、基本的な人間観、世界観の問題でもあるのだが、これは、この番組の趣旨からは無理なことかもしれない。映像記録で語ることのむずかしいところである。
2025年5月20日記
映像の世紀バタフライエフェクト AI 未来を夢みたふたりの天才
コンピュータとAIの開発史を、手堅くまとめたという印象である。
チェスで世界チャンピオンに勝ったIBMのDeepBlueは、その演算能力の速さで勝った。(このニュースに接したとき、私が思ったことは、勝ったのはコンピュータではなくて、プログラマではないのか、と感じたことを憶えている。計算機の処理スピードは、技術が進歩すれば速くなるのは当たり前である。この時代、すでに、世の中でパソコンがかなり普及していて、私も使っていた。)
AlphaGOが勝ったときは、おそらく質的に根本的な変化があったにちがいない。ただの計算速度の速さではない何かがあったのだろう。しかし、それが何であったのかを、説明できないのが、あるいは、現代のAI研究の姿なのかとも思う。これが、本当に人間の考えていることと同じようなことであったのか、それとも別の何かであったのか。いったいどうなのだろうか。
この番組では生成AIのことについては触れていなかった。私が勉強してきた言語の研究の分野では、まさに生成AIを抜きにして言語というものを考えられなくなってきている。それを否定的に見るにせよ、肯定的に見るにせよ。(もう、こういうことにつきあうのが嫌になったということもあって、それにもう年だし、言語の研究からは手をひくことにしたのだが。)
少なくとも、生成AIが作りだした(?)ことばを読んだり聞いたりして、それを、普通に言語として、人間の側がうけとめてしまうことになるのならば、それは、もう言語であるとしかいいようがない。
もっと具体的にいえば、これからの言語研究、特に、辞書の編纂などにおいて、生成AIによることばを、ことばの用例として使っていいのだろうか、という、これは研究者にとってすぐに直面することになる切実な課題がある。現在、WEB上にあることばのなかには、かなりAIによるものがあるだろう。また、世の中に流布している書籍や文書などでも、AIによるものがあるはずである。これらを、(旧来の意味での)人間のことばの用例と同じにあつかうことが妥当なのだろうか。このことのこたえは、今のところない。
少なくとも現在のところ、生成AIのことばは、人間のことばとは、質的にことなっているというのが、認知言語学などの立場からの、批判的見解だろうと思う。だが、これも、これからどうなるか分からない。
AIを制するものが世界を制する……たしかにこのとおりだろう。だが、ひょっとするとAIに人間が制せられる時代になってしまうかもしれない、という危惧はある。
チューリングやノイマンのことについて、映画を使っていたが、それなら、『2001年宇宙の旅』を使ってもよかったかもしれない。
さらに重要なことは、AI開発をささえているのは、単なる技術の進歩だけではなく、基本的な人間観、世界観の問題でもあるのだが、これは、この番組の趣旨からは無理なことかもしれない。映像記録で語ることのむずかしいところである。
2025年5月20日記
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