こころの時代「闘うガンディー 非暴力思想を支えた「聖典」2 結果を求めず行為せよ」 ― 2025-05-27
2025年5月27日 當山日出夫
こころの時代 闘うガンディー 非暴力思想を支えた「聖典」2 結果を求めず行為せよ
エリク・H・エリクソンの名前を久しぶりに耳にした。社会心理学の歴史などを専門にしているような研究者でもないと、もう語られることはないのかもしれない。
アイデンティティという今ではごく普通に使うようになったことばを、学術的な場面で使い始めた人である。番組に出ている、赤松明彦、小野正嗣、これぐらいの年代の人なら憶えているだろうか。ちょうど私が、大学生のころだった。1970年代のころのことになる。この時代、まさに、今という時代を分析するための最先端の概念であった。
学生のころは、岩波ホールの講演会によく行った。たしか、中村元が講師のときだったと思うが、会場から質問のペーパーを集めて読んでいくなかで、エリクソンのアイデンティティとの関連を話してほしい、というような質問があったのを憶えている。古代インドの、いわゆる原始仏教の話しと、アイデンティティをどうむすびつければいいのか、そのとき中村元がどのようなことを答えたのかは憶えていないが、ともかく、この時代、非常に新しい社会と人間を考えるためのことばであった。たしか、「現代のエスプリ」(昔、こういう雑誌があったのだが)でも、特集を組んだことがあったはずである。
この番組とは関係ないが、現代では、安易にアイデンティティということばを使いすぎると、私は感じている。人間には、生きていく上でアイデンティティがなければならない、というような使い方をされると、これははたしてどうなのだろうかと、いまだに思うことがある。
そのエリクソンが、ガンディーの研究もしていた。
この番組の趣旨からはずれることになるが、サティーヤグラハということばについては、むしろ社会運動をどう組織するか、という観点から面白い。ただの抵抗運動ではなく、それに名前をつける。それも、抽象的な名称にして、理想的な意味をこめることができるようにする。これは、非常に有効な方法である。
新しい造語であるし、抽象的なことばなので、何を具体的にイメージするか……何を目的とするか、たおすべき敵は何なのか……ということについて、多様な考え方をもっている人を、集めることができる。
番組(録画)を見ていて気になったことのひとつが、南アフリカで発行されていた新聞「インディアン・オピニオン」は、いったい何語で書かれているのだろうか。画面で見るかぎり、英語ではなかった。これは、解説してほしかった。南アフリカにいたインドの人たちは、何語でコミュニケーションしていたのだろうか。ガンディーが人びとの前で演説したときは、何語で語ったのだろうか。
やはり人びとの共同体としての意識をかたちづくる重要な要素になるのは、言語である。そして、宗教である。国籍とか、人種とか、ということもあるだろうが、これらは社会構成的な概念であって、その基本にあるのは、言語と宗教、生活習慣、ということであると思っている。
「バカヴァッド・ギーター」のことばとして、
ただ行為だけがあなたの持ち分です
それから生まれる諸結果では決してありません
とあり、そして、非暴力による抵抗を、ガンディーは自分の義務と思う。この流れの説明は、すこし苦しいかなという印象はあるのだが、なんとか納得できないということではない。
ガンディーが義務という概念をどう理解していたのか、その背後にある文化史的、宗教的な意味はどのようなものなのか、ということは気になるところである。ガンディーは弁護士であったのだから、法律で定められた義務は知悉していたはずである。では、法律で決められた義務と、ガンディーが自ら感じとった義務とは、どういう関係にあるのか、そして、非暴力の抵抗と法(法の理念、法の支配)とはどう関係すると考えていたのか、このあたりが知りたいところである。
2025年5月20日記
こころの時代 闘うガンディー 非暴力思想を支えた「聖典」2 結果を求めず行為せよ
エリク・H・エリクソンの名前を久しぶりに耳にした。社会心理学の歴史などを専門にしているような研究者でもないと、もう語られることはないのかもしれない。
アイデンティティという今ではごく普通に使うようになったことばを、学術的な場面で使い始めた人である。番組に出ている、赤松明彦、小野正嗣、これぐらいの年代の人なら憶えているだろうか。ちょうど私が、大学生のころだった。1970年代のころのことになる。この時代、まさに、今という時代を分析するための最先端の概念であった。
学生のころは、岩波ホールの講演会によく行った。たしか、中村元が講師のときだったと思うが、会場から質問のペーパーを集めて読んでいくなかで、エリクソンのアイデンティティとの関連を話してほしい、というような質問があったのを憶えている。古代インドの、いわゆる原始仏教の話しと、アイデンティティをどうむすびつければいいのか、そのとき中村元がどのようなことを答えたのかは憶えていないが、ともかく、この時代、非常に新しい社会と人間を考えるためのことばであった。たしか、「現代のエスプリ」(昔、こういう雑誌があったのだが)でも、特集を組んだことがあったはずである。
この番組とは関係ないが、現代では、安易にアイデンティティということばを使いすぎると、私は感じている。人間には、生きていく上でアイデンティティがなければならない、というような使い方をされると、これははたしてどうなのだろうかと、いまだに思うことがある。
そのエリクソンが、ガンディーの研究もしていた。
この番組の趣旨からはずれることになるが、サティーヤグラハということばについては、むしろ社会運動をどう組織するか、という観点から面白い。ただの抵抗運動ではなく、それに名前をつける。それも、抽象的な名称にして、理想的な意味をこめることができるようにする。これは、非常に有効な方法である。
新しい造語であるし、抽象的なことばなので、何を具体的にイメージするか……何を目的とするか、たおすべき敵は何なのか……ということについて、多様な考え方をもっている人を、集めることができる。
番組(録画)を見ていて気になったことのひとつが、南アフリカで発行されていた新聞「インディアン・オピニオン」は、いったい何語で書かれているのだろうか。画面で見るかぎり、英語ではなかった。これは、解説してほしかった。南アフリカにいたインドの人たちは、何語でコミュニケーションしていたのだろうか。ガンディーが人びとの前で演説したときは、何語で語ったのだろうか。
やはり人びとの共同体としての意識をかたちづくる重要な要素になるのは、言語である。そして、宗教である。国籍とか、人種とか、ということもあるだろうが、これらは社会構成的な概念であって、その基本にあるのは、言語と宗教、生活習慣、ということであると思っている。
「バカヴァッド・ギーター」のことばとして、
ただ行為だけがあなたの持ち分です
それから生まれる諸結果では決してありません
とあり、そして、非暴力による抵抗を、ガンディーは自分の義務と思う。この流れの説明は、すこし苦しいかなという印象はあるのだが、なんとか納得できないということではない。
ガンディーが義務という概念をどう理解していたのか、その背後にある文化史的、宗教的な意味はどのようなものなのか、ということは気になるところである。ガンディーは弁護士であったのだから、法律で定められた義務は知悉していたはずである。では、法律で決められた義務と、ガンディーが自ら感じとった義務とは、どういう関係にあるのか、そして、非暴力の抵抗と法(法の理念、法の支配)とはどう関係すると考えていたのか、このあたりが知りたいところである。
2025年5月20日記
コメント
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://yamamomo.asablo.jp/blog/2025/05/27/9778360/tb
※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。
※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。