『ばけばけ』「ワカレル、シマス。」2026-02-15

2026年2月15日 當山日出夫

『ばけばけ』「ワカレル、シマス。」

これが人生だから……松江を去るにあたって、ヘブンさんが、中学校の生徒に言ったことばである。英語では、This is life. である。フランス語だと、C'est la vie. ということでいいかなと思う。(フランス語など、大学生のときの教養課程以来であるが。)

こういう言い方で、なじんだ日本語の表現が思いつかない。

この週で描いてあったのは、ヘブンさんの熊本行きをめぐることと、錦織のこと。

ヘブンさんは、熊本の高等中学校(後の五高になる)に移ることにする。その理由について、松江の冬は寒いからということであった。しかし、ヘブンさんが思っていたことは、ラシャメンと世間からさげすまれることになるおトキのことを思ってのことであった。

このヘブンさんの気持ちは、分かるのだが、ちょっと無理なところを感じないではない。

この時代、明治の半ばごろ、ヘブンさんは御雇外国人教師であって、とんでもない高給取りである。それと結婚して一緒に生活しているおトキは、世間の目から見れば、ほとんどラシャメンといっていいだろうと思われる。そして、その家族(司之介、フミ)が、ヘブンさんの世話になっていることは、当然だろう。司之介は、仕事を辞めて隠居している。

以前、遊廓のおなみさんが、ヘブンさんが松江に来るということになったとき、ラシャメンになる、と言っていた。これは、遊廓にいるおなみさんだから言える科白ではあったと思うが、しかし、ドラマのこの時点では、ラシャメンは、特に蔑称というふくみのあることばでは使っていなかった。ただ、西洋人のお妾さん、という程度のことだった。

それが、おトキがヘブンさんと一緒になって、新聞で書かれたことをきっかけに、世間から急にラシャメンと言われるようになる、というのは、これまでのドラマのストーリーからして、ちょっと無理がある。

また、熊本に行って、知らない人ばかりだとしても、ヘブンさんが御雇外国人英語教師で高等中学校の先生で、おトキがその日本人の奥さんということは、熊本の普通の人びとの感覚としても、かなり特異な存在であるはずだし、ほぼラシャメンと思われるとしても、しかたないことかもしれない。

熊本の方が、松江よりも、近代的な都市であるとしても、明治の中頃としては、西洋人自体が、珍しい時代である。(歴史としては、小泉八雲が、東京帝国大学に移るころになって、日本人の英文学の教師として夏目漱石が登場することになる。)松江と熊本とで、そんなに違い(封建的な社会を残している)は、なかっただろう。(漱石の『三四郞』の主人公の三四郞は、熊本の五高から東京帝大に入学しているが、熊本の高校生が近代的感覚を持っているとは描いていない。ドラマの時代のほぼ20年後、日露戦争の後のことである。)

自分と結婚したことで、世間からラシャメンとさげすまれることになる妻のおトキのことを思うヘブンさんということでは、ドラマとしてうまく作ってあるとは感じるのだが、この時代の人びとの感覚としてはどうだったろうかと、思うところになる。

錦織は、松江中学校の次の校長と目されていたのだが、結果としては、庄田が校長になる。そこで、実は、錦織が帝大を卒業していないこと、英語の教員の免許を持っていないこと、が生徒たちの前で明らかになる。

これも、このころの時代のこととしては、別に、錦織ぐらいの知識と才能があれば、中学校の教師や校長であっても、さほど不自然ではないかとも思われる。

明治になって、近代的な学校制度が作られて、まだ一世代もたっていない。近代的な教育制度のもとで学んだ人間が、学校を出て教師として教えるようになるのは、もうちょっと後の時代になってからでないと無理である。ドラマの時代の明治24年に40才から50才ぐらいの社会の中堅層である人間が教育を受けたのは、明治維新の前の江戸時代のことになる。近代的な教育制度が整う前のことである。

この後、ヘブンさんは、熊本の五高で教えるのだが、このころの五高には、秋月悌次郎が漢学の教師でいた。元会津藩士である。『八重の桜』にも登場している。その前半生は、近代的な学校教育とは無縁である。

近代的な学校教育制度が整い、教師の資格が厳格なものになってくるのは、少なくとも明治の終わりになってからであると、考えていいだろう。このあたりは、日本の教育制度の歴史の専門家が、どう考えるかということであるが。

そもそもヘブンさんだって、アメリカでは新聞記者であって、英文学の専門家でもないし、英語の教師の資格があるというわけでもない。英語の教師の資格自体がまだ無かったはずである。(だが、東京帝国大学では、きちんとした英文学の講義をしている。)

以上のようなところが、いくぶんドラマの筋として無理があるかなという印象を持つのだが、しかし、見ていてそう不愉快になるほどに無理をしているという感じはしない。こういうふうに考えるのも、人の世の中のことである、ということで受けとめることができる。

この週で松江編が終わったことになる。松江編をふりかえって思うことは、かなり計画的に設計して作ってあるという印象を持つ。特に、セットのやりくりで不自然なところがない。これが、下手なドラマ作りだと、なんでこのセットで、この科白を言わなければならないのかと、理解に苦しむということがあったりする。同じ喫茶店の同じセットが何度も出てきたりして。

ともあれ、次週から熊本編である。蛇と蛙も、松江から熊本に引っ越すのだろうと思うが、ヘブンさんが船の上で持っていたのは虫かごだった。

2026年2月14日記

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