100分de名著「ヤスパース“哲学入門” (2)他者との交わり」2026-02-14

2026年2月15日 當山日出夫

100分de名著 ヤスパース“哲学入門” (2)他者との交わり

この番組を見ていて、気にしてみていることがある。それは、自分の意見を、それと分かる形で述べること、についてである。

この『哲学入門』を見ていて、戸谷洋二の話しを聞いていると、きちんと区別して話しをすすめている。

・その本の著者(ヤスパース)が書いていることは何であるのか。
・別の本では、どのように書いているのか。
・それは、分かりやすく言いかえるとどのようなことになるのか。
・その書かれていることについて、一般には、どのように考えられているのか。
・自分(戸谷洋二)は、どう思うのか、考えるのか。

以上のようなことを、きちんと区別して話しをするということは、簡単そうなのだが、実際はかなり難しい。「100分de名著」シリーズを見ていて、とりあげている本の内容をそっちのけにして、自分の持論(多くの場合、世の中ではかたよりがあると思える)を、延々と話し出す人がいたりする。また、本の著者の言いたいことと、自分のいいたいこと、これを区別せずにごっちゃにして話す人もいる。こういうのを見ていると、その意見への賛否より前に、はっきりいって辟易する。

「愛の闘争」であるが、ひらたくいいかえれば対話の重視ということになるのだろう。現在、社会のいろんなところで、対話の必用性が言われているのだが、それを言うだけで、なかなか実践しない人が多い。これは、政治的には、左右のどちらの立場についても、いえることである。

私が思うに、対話というのは、自分とは異なる考え方の人と話しをかわして、自分自身も変わり、また、相手も変わっていく……これが基本だろう。それを、ただひたすら自分の正しさを主張して、相手を論破することが目的となっている場合が多い。対話といっても、いにしえのソクラテスのようにはいかないこと、自分自身が完全にものを知っているのではないこと、これを思う必要がある。

自分は何故そう考えるのか、自分とは異なる考えの人は何故そうかんがえるのか、自省と想像力が求められる。それは、理性と直感の両方が必要である。

2026年2月12日記

よみがえる新日本紀行「松島」2026-02-14

2026年2月15日 當山日出夫

再放送である。2024年。オリジナルは、昭和56年(1981年)。

松島には、行ったことがあるかなと思うのだが、はっきりとした記憶がない。私の場合、いわゆる名所旧跡というようなところは、あまり行きたいとは思わない方である。とはいえ、文学史的に重要な意味のある場所は、見ておきたいという気もしているのだが。

松島というと、名所旧跡として、文学的なイメージが塗り重ねられた場所の最たるものという感じがしている。

しかし、そこには、人びとの生活がある。漁師であり、海苔の養殖である。また、水田でお米も作っている。

海に棒が並んでたっている景色があると、海苔の養殖だなと分かるのだが、それをどんなふうにして作っていくのか、竹を船に積むところから、胞子をうえつける作業まで、というのは、始めて見たかと思う。

川も湧き水もないような島で、水田を作らなくてもいいのではないか、と思わないでもない。今の時代だと、おそらく採算にあわない。しかし、水田があり、そこでお米を作るということには、日本での農業として、特別な文化的な意味がある、と感じる。

現在、日本の普通の小規模農家だと、稲作の苗を自前で育てることはほとんどないだろう。たいていは、農協などから買ってきて、植える。それを、苗代から作っているというのは、かなり思うところがあってのことにちがいない。

昔は、菜の花でいっぱいになったが、自然保護(?)のためにコジュケイを放ったので、食べられてしまって、菜の花の栽培ができなくなってしまった、という。そんなこともあるのかと思った。コジュケイは、私の今の住まいの近くにも棲息している。鳴き声を聞くことがある。

瑞巌寺の僧堂のようすが映っていた。托鉢は、今でもおこなわれていることだろうと思う。

昔は3000人いた人口が、今では300人だという。松島の島に住む人びとにとっては、巡航船が生活のたよりである。こういう生活のインフラを残す必要がある。

2026年2月11日記

映像の世紀バタフライエフェクト「人間国宝 女形に生きた男たち」2026-02-14

2026年2月14日 當山日出夫

映像の世紀バタフライエフェクト 人間国宝 女形に生きた男たち

『国宝』にあやかっての企画にちがいないのだが、面白かった。

登場していたのは、五代目中村歌右衛門、六代目中村歌右衛門、四代目中村雀右衛門、五代目坂東玉三郎。中でも、六代目歌右衛門と、玉三郎がメインだった。

梨園に生まれたが故の、いろんな思いとか、苦しみとか、葛藤とか、自負とか、いろんなことがあるのだろうとは思うが、そういうことは、ないことにして、ただ、その芸のみを見るのが、いいのだろう。(あえて下世話ないいかたをすれば、梨園のスキャンダルなど、ニュースにするだけの価値もない。それを無理矢理にニュースにしているのが、今の日本の芸能関係のニュースである。)

女形ということについては、歌舞伎に特有のこととあったのだが、これはたしかにそうである。しかし、日本の芸能の世界をみわたせば、異性を演じるということは、そう珍しいことではない。逆の事例が、宝塚ということになるし、歴史的にさかのぼっても、白拍子などは、女性が男性のかっこうをしていることになるはずである。

このあたりのことは、現代、近代の社会の、いわゆるジェンダー規範を、あまり杓子定規にあてはめて考えない方がいいだろうと思っている。男性らしさ、女性らしさ、ということもあるし、その一方で、その両方にまたがったり、中間領域のグレーゾーンとか、いろいろと歴史的にはあったと考えておくべきかと思っている。人間の性は、生物としては強固に決まっているが、文化的には多様である。

今の時代に、女形ということについて、フェミニズム論者が、批判しているとも、賞賛しているとも、表だっては聞こえてこない。一部では、議論があるにちがいないことだとは思うが。表だって議論の対象にしようものなら、非常にややこしい論になるにちがいないし、それより前に、お前たちは芸が分からないと一蹴されて終わりだろう。

役者が男性であっても、女性であっても、私は別にかまわないと思うが、とにかく難しいのが、舞台で「女性」を演じることである。女優が演じればそれで「女性」を演じたことにならないのが、舞台芸術、演劇、というものの難しさである。

女形という枠で見るよりも、演劇における「女性」の表現としてとらえる方向が、いいのではないかと、私などは思うことになる。この中には、人形浄瑠璃文楽や能楽などをふくめて、総合的に考えるべきかとも思う。

どうでもいいことかとも思うが、このごろ、「女形」を「おんながた」と言うようになった。私の学生のころまでは、「おやま」と読むのが普通だった。この読み方の変遷は、日本語の歴史の観点からは、興味深いことの一つである。

2026年2月8日記