『豊臣兄弟!』「過去からの刺客」2026-05-18

2026年5月18日 當山日出夫

『豊臣兄弟!』「過去からの刺客」

この回は、慶のこと。

その背景に、信長の安土築城のことなどが、ちょっと出てきていた。

こういう「太閤記」があってもいいと思うが、いや、そうではなく、現代で「太閤記」を描くとなると、こんなふうになるしかないのか、とも思ったりする。これが、悪いというわけではないのだが、百姓出身の秀吉が天下人にまで上り詰めていくサクセスストーリーの爽快感ということは、無くなっている。だが、これも、今の時代だと、おのれの才覚一つで成り上がっていくというサクセスストーリーということ自体が、もう時代遅れなのかとも思ったりもする。

見ていて感じることは、登場人物の心情が誰も非常に屈折していることである。そのなかで、まあまあ素直かなと感じるのは、小一郎であるが、しかし、これも見ようによっては、ドラマが始まったころから、あまり人間的な成長が感じられないということもある。

慶は、いったい何を思っているのか。残してきた子どものことが気がかり、ということではあるが、それをストレートに表現できない、武士の女としてのしがらみといことにはなるだろう。子ども(与一郎)もあまり素直な子どもではない。じいさんも、ばあさんも、偏屈である。

たしかに、なかなか素直に自分の気持ちが分からない、自分でも自分の気持ちが分からない、ということは、今の時代のドラマとしてはあっていいかと思うが、そのからまりあいかたが、見ていてどうにもややこしい。

もっとシンプルに、憎い仇を討つ、可愛い子供のことを思う、ということでは、もはやドラマにはならない時代ということなのだろうか。普通の視聴者は、そんなに屈折した人間の心情表現を求めてはいないと思うが。

血がつながっていなくても一緒に暮らしていれば家族である。これは、そういうこともある。だが、こういうことをここで言いたいならば、そもそものドラマの設定として、藤吉郎と小一郎が、父親が別であってもよかったし、その方が、家族とはどういうものかを描くことにつながっていたかと思える。(時代考証としては、父親が同じでも、別でも問題はないはずである。)

さらに考えることとしては、この時代の百姓(これにはいろんな職業や生業をふくむが)と武士における家族構造とはどんなものであったか、血縁関係のある親子だけだったのか、このあたりは、歴史学研究として、いろいろと考える余地があるだろう。

出てくるのが、武士でなければ百姓(ほぼ農民とイコール)だけというのは、どうなのだろうか。商人が出てきたり、漁民が出てきたり(琵琶湖の漁業であったり、水運であったり)、山の中の人びとが出てきたり、こういう社会を構成する多様な人びとのことを、描くべきではないだろうか。こういうことの歴史学からの研究はあるはずだと思っている。

2026年5月17日記

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