世界のドキュメンタリー「深海の採掘競争 エネルギー転換のジレンマ」2026-07-10

2026年7月10日 當山日出夫

世界のドキュメンタリー「深海の採掘競争 エネルギー転換のジレンマ」

2025、オランダ。

中国が日本へのレアメタル輸出規制強化ということがあって、(その発端は高市首相の台湾有事発言なのだが、中国にしてみれば、なにかのきっかけが欲しかっただけで、たまたまチャンスと見ただけのことである)、南鳥島の海底のレアメタル採掘をしようとして、いろいろと議論のあったところである。

鉱物資源とは、ダーティなものである。これを、まず認識しておくべきだろう。NHKが自前で作った番組としても、アフリカの銅鉱山しかり、南米の金鉱山しかりである。(日本の鹿児島の菱刈金山のようなところは、世界の中で見れば、きわめて特殊なところと言っていいだろう。)

電気自動車が、クリーンな未来を象徴しているというのは、明らかに欺瞞である。しかし、欺瞞であることが分かっていても、中国の電気自動車の台頭に対して、対抗せざるをえない、というのも、また、今の世界の大きな流れである。

強いていえば、環境への負荷がない、完全にクリーンなエネルギー、それを使った社会や生活ということは、完全な幻想にすぎないのだが、今の時代としては、こういう方向から転換することは難しい。

海底の資源の探査・採掘の技術が、ヨーロッパの企業が持っているとして、最終的に製品になるには、精練ということが必要だが、ここのところでは、中国に依存せざるをえないということも、現実問題としてある。それが最終的な消費者の手にとどくときには、中国製の電気自動車になったり、スマートフォンになったり、という理解でいいだろうか。

深海の生物の生態系はよく分かっていないし、その生物の生息環境の保全のためには、深海からの採掘などは、すべきではない。だからといって、地上の鉱山が環境にやさしい(このことばは、私はあまり好きではない、いかにも欺瞞に満ちている)というわけではない。

環境保護活動家の行動が、すべて正しいとも思えない。すでに豊になっている欧米的なライフスタイルを、根底から否定するということではないと思える。根本的には、ここから考えなければならないはずである。しかし、今の世界で、「新しき村」を提唱しても、さほど意味のあることとも思えない。

これからの世界でレアメタルは必須であるとして……世界の海の底には、レアメタルなどさまざまな資源が眠っていること、その利用には環境の問題があること、また、その利用にはいろんな国のいろんな権利や利害がからんでいること……まずは、こういうことを、総合的に考えることが必用である。この程度のことを思うぐらいである。

2026年7月5日記

心おどる「英語de茶の湯 裏千家 (1)What is Chanoyu?(茶の湯ってなに?)」2026-07-10

2026年7月10日 當山日出夫

心おどる「英語de茶の湯 裏千家 (1)What is Chanoyu?(茶の湯ってなに?)」

裏千家の茶道を英語で説明するという趣向で、茶の湯についての入門番組を作る、アイデアとしては、とても面白い。

天邪鬼な目で見て思うことを、いくつか書いてみる。

茶室に入って床の間の掛け軸を鑑賞する(分かっても分からなくても、褒める)とうことはそうだと思うのだが、このときに、絶対に言ってはいけないことがある。それは、「いったいこの字はなんて読むのですか?」である。こういう無礼な(?)、あるいは、正直な(?)お客がいたとして、そのときに亭主がどうこたえるかということこそ、まさに京都人のいけずの真骨頂である。

でも、まあ、この番組で、こういうことは出てこないだろう。「いけずな京都旅」ならどうかな、というぐらいである。

茶席で指輪をはずすのは常識だと思っている。いや、一般に、陶磁器などを手にするときには、指輪をはずす。他の番組で、美術品などの鑑賞として、出てきた陶磁器を指輪をはめたままの手でもっている女優さんとかいたりするのだが、こういうのを見ると、常識が無いというか、ディレクタがきちんと説明できないのか、または、美術館などだったとしても学芸員がこういうことに口出しすることはないのか……どうも気になっている。

抹茶を作っているということで、宇治の上林(たしか、かんばやしと読む)のお店が映っていた。これはいいとしても、お茶の畑は、どこだったのだろうか。昔、私が子どものころ、京阪の宇治線のまわりにはいっぱい茶畑があったりした。もう、今は無いだろう。宇治茶として、宇治のお店で売られているとしても、その栽培は、もう宇治市のエリアでは無理かなと思う。急激に、茶畑が宅地に変わっていった。

住んでいた住まいの近くにも茶畑があったので、茶摘みをしたことがある。小学生のころのことの話しである。日光をさえぎるためにおおいをかけるが、これも、昔は、よしづだった。

色を確実に見るために、北向きの自然光を取り入れる。これは常識。お茶のことにかぎらず、美術品などで色を重視する仕事の場合、採光は重要である。(ただ、これも、近年では、照明の色温度を調整できるLEDの照明器具が発達してきているので、どうなることかとは思うが。)

2026年7月8日記

NHKスペシャル「私の往生際 養老孟司が見つめた“生と死”」2026-07-10

2026年7月10日 當山日出夫

NHKスペシャル「私の往生際 養老孟司が見つめた“生と死”」

これを見て思うことは、人それぞれだろう。年齢とか、境遇によって、共感するところもあるだろうし、分からないという気にもなるかとも思う。

私が見ていて、いいなあ、と思ったのは、昆虫採集が趣味、といってはいけないかもしれないが、専門の昆虫学者ということではないようだ、これは、とてもうらやましい。

昆虫の世界、自然の領域を相手にしているということは、言いかえれば、人間のことを相手にしなくていいということになる。こういうことは、私のような、人文学の領域に生きてきた人間からすると、非情にうらやましいことである。

年をとってきたので、読む本は、基本的にKindle版としているのだが(字が大きいのがいい)、昔、若いころに読んだ、古典(日本のものにかぎらず)であっても、どうしても、そこに自分のものの考え方や価値観のなりたちということを、考えてしまう。死生観について、どう思うかということがあるが、これは、かつて自分がどのような本を読んできたか、ということと無縁ではない。それを改めて再確認したりすることになるというのは、なんとなく、つらい、というほどではないが、純然と読書を楽しめない部分もあったりする。

死は他者との関係のなかにある。これは、そのとおりなのだが、その関係性を、あれこれとひねくりまわして考えることになるのが、人文学というものである。

ただ、身の回りの自然環境などがあって、自分が生まれる前からあるものであり、それは、自分が死んだ後もおなじようにあるものである……こういう感覚は、大事にしていきたいと思っている。

2026年7月8日記