『ひよっこ』「お父ちゃんが帰ってくる!」 ― 2026-08-09
2026年8月9日 當山日出夫
『ひよっこ』「お父ちゃんが帰ってくる!」
このドラマを見るのは、三回目である。最初の放送のときには、全部、見たと憶えている。その後、夕方に再放送(二回連続で)があったときは、だいたい見ていた。これは、ちょうどCOVID-19パンデミックのときで、『ひよっこ』が終わると、ニュースになって、渋谷のハチ公前の映像から始まっていた。だんだん、ハチ公前にいる人の数が減っていった。
『ひよっこ』は、歴代の朝ドラの中でも傑作といっていいと、私は思っている。登場人物に共感するところが多い。
時代設定は、1964年(昭和39年)の東京オリンピックの年からはじまっている。このころ、私は、小学生だった。ドラマの中の、みね子の妹のちよ子や弟の進と、同じぐらいの世代ということになる。見ていて、ああ、この時代はこんなふうだったなあ、と強く感じるところがたくさんある。そして、この時代の生活の感覚、日常の気持ち、東京と農村の違い、など、かなりリアルに描いている。時代考証などに、手抜きを感じない。
たとえば、東京の建設現場で事故があったとテレビのニュースで見て、心配になって電話を借りにいく。この時代には、まだ電話はそんなに普及していなかった。必要なときは、近所の電話のある家まで借りに行った。地方から東京に電話をかけるなら、まず電話局にかけて、交換台が、長距離電話をつないでくれるのを、受話器をおいて、しばらく待たなければならなかった。
こういうことは、この時代をリアルに知っている人間なら、ごく当たり前のことなのだが、知らないと分からないことになる。以前の『あんぱん』を見ていて、東京の公衆電話から、高知まで、簡単に電話がかけられる。しかも、戦前のことである。こういうのを見ると、ただただ唖然とするしかない、というのが正直な感想である。ただ、電話がどうやってつながったか、普及率、ということだけではなく、この時代の、地方の農村と東京との、心理的な距離感の問題でもある。時代考証がどうとかという以前に、その時代の中で人びとがどんな生活の感覚を持って生きていたかということの問題なのである。
みね子の父親の実は、東京の建設現場に出稼ぎ労働で行っている。そうしないと、みね子の家はなりたたない。同時に、東京オリンピックで大きく変わった東京の街で、実際にはたらいていたのは、地方からの出稼ぎ労働者たちであった。
その生活の感覚には、大きな落差があった。出稼ぎ労働者は、東京の人びとからは、決して好まれる存在ではなかった。むしろ、疎まれていた、と言っていいだろう。(ドラマでは、そこまで描いていないが、地方から出てきた男たちの楽しみといったら、たいていは知られるとおりである。)
だが、『ひよっこ』では、地方出身者への差別的で見下した部分が基本的にない。歴史的な事実からすると、ちょっと違うといいたくなるところである。しかし、このような虚構の設定は、これでドラマの重要な要素になっている。
実がとおりかかった赤坂の洋食屋さんのすずふり亭で、鈴子は、実をお店の中にまねきいれて、丁寧に対応している。決して、見下してはいない。実に、東京を嫌いにならないでくださいね、と言っている。(こういう科白の背景には、実際にあった東京の人と地方との、反目のようなものを前提にしていることが分かるのだが、それを抑制的に間接的に描いたことになる。)
そして、すずふり亭の店の人たちが、みんな、鈴子の意をくんでいる。
悪い人が出てこないドラマということで、放送のときに批判もあったドラマなのだが、今になって再び見ると、人には親切にする、それを素直に受ける、ただこれだけのことなのだが、とても貴重なことのように感じる。それだけ、今の時代の世相として、街の中でこまっていそうな人を見ても声をかけることをためらうような雰囲気になってきている。声をかけただけで、不審者あつかいされかねない世の中になってしまっている。
『ひよっこ』を見て感じることの一つに、役者さんが、実際に手を動かしているということがある。奥茨城の谷田部の家で、母親の美代子は、実際に台所で包丁で野菜を切っている。すずふり亭では、厨房で、シェフたちが実際に調理をしている動作が、きちんと描かれている。鈴子と実が話しをしている背後で、ウエイトレスの高子が、テーブルのナイフやフォークをセットしている。
『風、薫る』を見ていると、こういう部分がない。演技としては決して下手ではないのだが、手が動いていない。りんはネギを切ることができないし、直美はおにぎりを作ることができない。こんなところを見てあら探ししなくてもと言われるかもしれないが、しかし、本当に手を動かして何かをしている、その動きと科白があっている、こういうことも、映像となったときには、大きく説得力がちがってくる。
『ひまわり』を見ていても、実際にキャベツを切っている。
ドラマの作り方の違いといえばそれまでかとも思うのだが、見て比べると、時代が変わってしまった、隔世の感がある。(『風、薫る』では、病院での看護の場面などは、きちんと作っていることは分かる。だったら、おにぎりぐらいきちんと作れるようにして欲しいと思うのだが。)
すずふり亭で、ヒデが、シェフの料理を作る動作を、ちらっと見ている。料理の技を「盗む」ということである。さりげないことだが、本気で料理人になろうとしている若者の気持ちをうまく表現していることになるし、これが、このドラマの最後の結末に、繋がっていくことになる。
お父さんの実が家に帰ったシーンもいい。妻の美代子は、ちょっとだけお洒落をしている。実も、美代子も、おじいちゃんの茂も、ことばかずが少ない。ただ、ただいま、と言って、おかえり、と言うだけである。茂は、座って仕事をしながら顔を向けるだけである。この時代の、人びとの感性である。つつしみ、含羞、はにかみ、というべきだろうか。(これが、今の時代のドラマだったら、大げさに感情の表出となるところだが、そうはなっていない。)
その他、この時代のいろんなこと……ボンネットバスであったり、「高校三年生」とか、「ガオー」(鉄人28号)とか、「ドドンパ」とか、亀倉雄策の東京オリンピックのポスターとか、ちょっとしたことで、時代を感じるように作ってある。こういう小道具類があって、昔、昭和の時代には、こんな生活があったなあと、思うことになる。
くりかえしになるが、この時代の地方(奥茨城村)と東京(赤坂)を描いていて、決して地方を見下すことがない。これは、虚構であるが、しかし、ドラマの作り方として納得のできる虚構になっている。
2026年8月7日記
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