JADS(2016年次大会)と古写真 ― 2016-06-21
2016-06-21 當山日出夫
今年もJADS(アート・ドキュメンテーション学会)の年次大会が終わった。
2016年6月11日・12日 奈良国立博物館
JADSブログ
http://d.hatena.ne.jp/JADS/20160318/1458261422
シンポジウムのテーマは、「文化財と写真~現物と複製 その境界を越えて~」
若いころから、写真は好きな方である。いまでも、(無事に作動するかどうかは不安であるが)ニコンのF2・F3・FE2・FA、と持っている。これらの機材で、子供の小さいころの写真などとっていた。(まだ、デジタルカメラなど登場する前のことである。)
ところで、写真がデジタルになって、大きく変わったなと感じることがある。プリントアウトしない……昔でいえば、印画紙に焼き付けない……写真が増えてきたということである。ディスプレイ(パソコンであったり、スマホであったり)で見るだけのものでおわってしまう。写真とは、紙の上にプリントしたモノである、という感覚がもう通用しない時代になってきたのである。
シンポジウムの中で、登壇者のひとり(写真史の専門家)が、「写真とは何ですか」との質問に対して「手にもつことのできるもの」と答えていたのが印象的だった。逆にいえば、今では、手にもつことのできない、いうならばデジタルのデータだけの写真が増えてきた、ということになる。
さて、私の写真であるが……上述のように、マニュアルフォーカスのフィルムカメラはよくつかった。つまり、オートフォーカスになってからの機種は買っていない。しかし、デジタルカメラの時代になってから、デジタル一眼レフなど買ったりはしている。(その当時、いろいろ考えてオリンパスにしたのだが。)
でも、はっきりいって、デジタルになって写真をとることが、面白くなくなってきた、という印象をまぬがれることはできない。どうしてだろう。これはやはり、モノとしての写真ではなくなってしまったせいだろうか。
シンポジウムで出てきたことだが……古写真の文化財指定ということがある。東京国立博物館の持っている、壬申検査(明治5年)のときの文化財調査の記録写真が、今では、重文指定になっている。
これは、e国宝のホームページで見られる。
e国宝
http://www.emuseum.jp/top?d_lang=ja
このなかの、「歴史資料」に「壬申検査関係写真」としてある。
かつての時代の最先端にあった写真というものが、100年以上の時間を経て、それ自体がこんどは文化財になっていく……考えてみれば、数奇なめぐりあわせである。
さて、話かわって、大学の授業の中で、私は、古写真についてふれることがある。基本は次のふたつ。
第一に、古写真というものがあって(主に幕末・明治初期に撮影された写真)それが、「デジタルアーカイブ」として見られるようになっていることの紹介。
第二に、古写真には、どう考えても、すくなくとも個々のコンテンツには、著作権はないはず。その著作権のないコンテンツを、デジタル化して、インターネットで公開するとき、いろんな方針がある。「無料で自由につかえる」「申請が必要である」「有料である」など。このことについては、また、後ほど考えてみることにしたい。
ともあれ、古写真として何が写っているか、これも興味深い。誰が何をとっているか。この点についていえば、シンポジウムのなかでの次のような発言……「明治になって、勝った側が、負けた側を写している」……ナルホドと思った次第である。
この意味で、まず、私の脳裏にうかんだのは、戊申戦争で負けた会津若松城の写真。国立公文書館のホームページで、自由に見られる。
https://www.digital.archives.go.jp/das/image-l/M0000000000001126738
古い写真から、いろいろ考えさせられるものである。
今年もJADS(アート・ドキュメンテーション学会)の年次大会が終わった。
2016年6月11日・12日 奈良国立博物館
JADSブログ
http://d.hatena.ne.jp/JADS/20160318/1458261422
シンポジウムのテーマは、「文化財と写真~現物と複製 その境界を越えて~」
若いころから、写真は好きな方である。いまでも、(無事に作動するかどうかは不安であるが)ニコンのF2・F3・FE2・FA、と持っている。これらの機材で、子供の小さいころの写真などとっていた。(まだ、デジタルカメラなど登場する前のことである。)
ところで、写真がデジタルになって、大きく変わったなと感じることがある。プリントアウトしない……昔でいえば、印画紙に焼き付けない……写真が増えてきたということである。ディスプレイ(パソコンであったり、スマホであったり)で見るだけのものでおわってしまう。写真とは、紙の上にプリントしたモノである、という感覚がもう通用しない時代になってきたのである。
シンポジウムの中で、登壇者のひとり(写真史の専門家)が、「写真とは何ですか」との質問に対して「手にもつことのできるもの」と答えていたのが印象的だった。逆にいえば、今では、手にもつことのできない、いうならばデジタルのデータだけの写真が増えてきた、ということになる。
さて、私の写真であるが……上述のように、マニュアルフォーカスのフィルムカメラはよくつかった。つまり、オートフォーカスになってからの機種は買っていない。しかし、デジタルカメラの時代になってから、デジタル一眼レフなど買ったりはしている。(その当時、いろいろ考えてオリンパスにしたのだが。)
でも、はっきりいって、デジタルになって写真をとることが、面白くなくなってきた、という印象をまぬがれることはできない。どうしてだろう。これはやはり、モノとしての写真ではなくなってしまったせいだろうか。
シンポジウムで出てきたことだが……古写真の文化財指定ということがある。東京国立博物館の持っている、壬申検査(明治5年)のときの文化財調査の記録写真が、今では、重文指定になっている。
これは、e国宝のホームページで見られる。
e国宝
http://www.emuseum.jp/top?d_lang=ja
このなかの、「歴史資料」に「壬申検査関係写真」としてある。
かつての時代の最先端にあった写真というものが、100年以上の時間を経て、それ自体がこんどは文化財になっていく……考えてみれば、数奇なめぐりあわせである。
さて、話かわって、大学の授業の中で、私は、古写真についてふれることがある。基本は次のふたつ。
第一に、古写真というものがあって(主に幕末・明治初期に撮影された写真)それが、「デジタルアーカイブ」として見られるようになっていることの紹介。
第二に、古写真には、どう考えても、すくなくとも個々のコンテンツには、著作権はないはず。その著作権のないコンテンツを、デジタル化して、インターネットで公開するとき、いろんな方針がある。「無料で自由につかえる」「申請が必要である」「有料である」など。このことについては、また、後ほど考えてみることにしたい。
ともあれ、古写真として何が写っているか、これも興味深い。誰が何をとっているか。この点についていえば、シンポジウムのなかでの次のような発言……「明治になって、勝った側が、負けた側を写している」……ナルホドと思った次第である。
この意味で、まず、私の脳裏にうかんだのは、戊申戦争で負けた会津若松城の写真。国立公文書館のホームページで、自由に見られる。
https://www.digital.archives.go.jp/das/image-l/M0000000000001126738
古い写真から、いろいろ考えさせられるものである。
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