このごろのことなど2016-05-19

2016-05-19 當山日出夫

このブログ、しばらく休止していた。思うところあってのことである。ここ数年のあいだ、いわゆる「SNS」は、Twitterをつかっていた。

これは個人的な感想にすぎないのかもしれないが、私が始めたころのTwitterは面白かった。いわば、ひとつのコミュニティを作っていたといってよい。言ってみれば、Twitterというちょっと変わったメディアに集まる人間どうしで、つながっていた、ということになるだろう。新しく加わったメンバーは、基本的にフォローする。そうすると、相手もフォローをかえしてくる。という具合に、メンバーの密度が高かった。

それが、ここ一~二年の間で、変わってきたことを感じる。コミュニティではなく、一方的な情報発信のツールになってきたように、個人的には感じるのである。

その端的な事例が、NHKのTwitter運用方針の変更だろう。かつて、NHKのTwitterアカウントは、大量の人をフォローしていた。それが、最近、方針を変えた。NHKとしては、基本的に他アカウントはフォローしないと、名言したのである。そして、それは、実行されているようでもある。

これは、人々とコミュニティを作ることを拒否している、とも言えよう。

私についていえば、Twitterがつまらなくなったいうのではない。が、何か、物足りないものを感じるようになったことはたしかである。そして、もう一度、ブログを書いてみようかという気になっている。

以前のように、ほぼ毎日書くことはもうできないだろう。週に一度ぐらいの更新になるかもしれないが、再開してみようかという気になってきている。

このように思うのも、自分で歳をとってきたせいか、とも感じる。

以前であれば、ひたすら専門書を読むのに時間をつかうようにしていた。しかし、このごろでは、むしろ教養的な本・・・まあ、昔の大学であれば、教養課程で読んだような本であるとか、基本的な人文学の本・・・文学、歴史、哲学というあたり、このあたりの本を今になって、もう一度じっくりと読んでみたいと思うようになってきた。

数年のブランクをおいての再開である。どうなるかわからないが、ともかく、こころみることにしよう。

Twitter雑感2016-05-20

2016-05-20 當山日出夫

ここしばらく、数年の間、Twitterをかなり使っていたと昨日書いた。今でも、使っている。朝起きてパソコンを起動すれば、メールのチェックと前後して、Twitterを見るのが習慣になっている。昼間でも、頻繁に見たり書いたりしている。

Twitterでも、私は、名前を出している。當山日出夫(htoym)の設定にしてある。(だから、私のことをTwitterで探そうと思えば簡単である。)

Twitterで守っていること、というほど大げさなことではないが、方針のようなものを書いておこう。それは、自分の名前を出して書いてもかまわない範囲のことしか書かない、といういわば自己規制のようなものである。

Twitterは、ある意味で匿名の世界でもある。ほとんどのユーザが、自分の名前を出さないで書いている。しかし、中には、自分の名前を明らかにして書いている何人かの人がいる。そして、たぶん、そのような人の多くは、私はフォローしているし、また、逆に、私のことをフォローする人は、名前を明らかにしている人が多い。大きな傾向からすれば、いわゆる「研究者」に属するような人は、自分の名前をわかるようにして使っていると思われる。

匿名で、言いたいことを言うだけの世界として使うこともできる。しかし、ある程度、自分の氏素性を明らかにした上で、その名前を出して書いてもかまわないと判断されることを書く、これも一つの使い方である。

だからといってたいしたことを書いているわけではない。所詮、140字のメッセージである。書いてることは、ほんの日常的なささいなこと。飼っている猫の様子とか、聞いている音楽のこととか、読んでいる本のこととか(ほとんど、タイトルとごく短い感想に限られるが)、それから、NHKの朝ドラ(今の放送であれば、『とと姉ちゃん』である)の感想などである。

これも、ある意味で、結構、気晴らしにはなっていると自分でも思う。疲れて帰ってきてぐったりしているようなとき、「パトラッシュ」と書いてみたり。(さすがに、これは、最近ではやっていないが。)

一方で、これは書かないと決めていることもある。政治的なことは基本的に発言しない。私なりに、今の政治状況について何も意見が無いわけではない。しかし、これについては、原則的に、黙っていることにしている。

それは、Twitterの140字の限定では、政治的なことについて、その意見を持つにいたった背景までふくめて、説明することが難しいと感じるからである。結論だけ言うのは簡単である。しかし、政治的な言明というのは、結論よりも、なぜ、そのように考えるのか、背景について述べることではないだろうか、と思うのである。

結論だけを言う、レッテルをはることは、簡単である。今の政権に対してであれ、野党(民進党・共産党など)に対してであれ。しかし、何故、私はそのように考えるのかについて、理由を説明するには、不向きだと感じる。いや、自分の立場に同じ意見をながめて、共感するだけに終わってしまいかねない。(そのこともあって、私の場合、あえて、できるだけ多様な立場の意見の表明を目にするようにしている。意図的にそうしてきたというわけではない。使いはじめてから、あまりえり好みせずにフォローしていったら、結果的にそうなっているということなのだが。)

それから、FACEBOOKも設定はしてある。無論、これは、當山日出夫の名前で登録してある。(でも、あまり使っていない)。

ここで結論めいたことを書いてしまえば、近年の、そして、これからの、バーチャルな空間において、「情報発信」と「コミュニティの形成」、このバランスをどのように考えるか、このあたりが、TwitterやFACEBOOK、それから、ブログなどの、これからを考えるカギになるだろう。

最近の読書2016-05-21

2016-05-21 當山日出夫

ここしばらくの読書について書いてみる。

浅羽通明、この人の本はかなり読んでいるつもりである。(これについては、また別の機会にあらためて書きたいと思っている。)

その浅羽通明の最近の本に、

浅羽通明.『「反戦・脱原発リベラル」はなぜ敗北するのか』(ちくま新書).筑摩書房.2016

http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480068835/

がある。買ってさっそく読んだ。(この本の感想についてもまた別の機会にしたい。)

その関連で、浅羽通明の本を読み直してみたくなった。本棚から探し出してきたのが、

浅羽通明.『ナショナリズム-名著でたどる日本思想入門-』 (ちくま文庫).筑摩書房.2013 (もとは、ちくま新書.2004、これも持っているが新しい文庫版の方で読んだ。)

浅羽通明.『アナーキズム-名著でたどる日本思想入門-』(ちくま新書).筑摩書房.2004

この二冊。新書本(ちくま新書)で出たときに、ざっと読んだのだが、改めて読んでみたくなった。再読してみると面白い。特に『ナショナリズム』。自分が今の国民国家「日本」に属していることについて、いろいろ考えることがあった。

『ナショナリズム』『アナーキズム』ともに、ブックガイドでもある。各章に関連する本の案内がついている。そのなかで、『ナショナリズム』に出てきた本の一つに、松本健一の、

松本健一.『日本の近代1 開国・維新 1853~1871 』(中公文庫).中央公論新社.2012

http://www.chuko.co.jp/bunko/2012/06/205661.html

があった。興味があったので読んでみた。これはいい本だと思った。

で、このシリーズ(中公文庫の「日本の近代」)、通読してみることにした。だが、このシリーズ、どちらかといえば政治史に中心をおいて書いてあるシリーズなので、他の巻は、あまり興味がわかなかった点もある。ただ、日本の近代史を考えるうえでは、このシリーズは欠かせないものであるとは思う。

そして、松本健一である。すでに故人。かなりたくさんの近代史関係の著作があるにもかかわらず、なぜか今まで読まずにすぎてきた人である。これをきっかけにと思って、いくつか読んでみることにした。

以下のような本である。以下、タイトルだけ示しておく。

『日本の失敗―「第二の開国」と「大東亜戦争」-』
『明治天皇という人』
『畏るべき昭和天皇』
『竹内好 日本のアジア主義」精読』
『竹内好論』
『評伝 斎藤隆夫』
『砂の文明 石の文明 泥の文明』
『丸山眞男 8・15革命伝説』

などである。北一輝関係の本も買ってはあるが、これはまだ読んでいない。

松本健一という人、一般的な見方をすれば、比較的保守的な立場にたった歴史家ということになる。しかし、経歴を見ると、いわゆるアカデミズムの人ではないようだ。

日本の近代国家、国民国家としての日本が、いま、岐路にたたされているといってもいいかもしれない。これまで自明のものとしてあった「日本」について、認識を新たにするときがきていると思う。この意味で、松本健一の本は、どのようにして近代の国民国家「日本」が成立してきたのか、その歴史(失敗をふくめて)を考えさせてくれる。

それから、最近になって読んだのは……『風と共に去りぬ』(新潮文庫版、岩波文庫版)などがある。いま読んでいる途中の本は『カラマゾフの兄弟』(中公文庫版)である。『歴史を哲学する』(野家啓一)も面白く読んだ。これらの本については、追って書いていきたいと思っている。

『現代思想の遭難者たち』2016-05-22

2016-05-22 當山日出夫

いろんなマンガが文庫になっているが、この本もついに文庫になったか、しかも、講談社学術文庫。

いしいひさいち.『現代思想の遭難者たち』(講談社学術文庫).講談社.2016

http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062923644&_ga=1.201477649.1867401113.1463871198

この本、かなり売れているらしい。もとは、講談社の『現代思想の冒険者たち』の月報に掲載のマンガを編集したものである。

読んでみて……面白い……しかし、よくわからない……でも、やっぱり面白いと、いったところであろうか。

いわゆる「現代思想」については、汗牛充棟の書物がある。そして、難解であるというイメージがつきまとう。実は、私としても、苦手な方である。といって、興味がないわけではない。なんとか、わかりたいとは思っている。そんなときに、この本を、パラパラとひろい読みしてみると、う~ん、なるほどなあ、と思ったり、思わず笑ってしまったり、である。

ところで、構造主義もあつかわれている。レヴィ・ストロースは登場する。だが、ソシュールは出てきていない。言語研究のはしくれで仕事をしている人間としては、このあたりちょっと物足りない気もしないではない。

だが、そんなことは気にすることはないのであろう。読んで、おもしろければそれでいいのである。その解釈・解説がどうのこうのというのは、野暮というものであろう。

ところで、現代思想といえば、こちらも言及しておかねばならないだろう。

船木亨.『現代思想史入門』(ちくま新書).筑摩書房.2016

http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480068828/

こちらは、地図、というか、見取り図のようなものを、つくってくれる本である。

このような本『源田思想の冒険者たち』『現代思想史入門』、楽しんで読めばいいと思っている。いまさら、現代思想研究に何か発言しようとは思わない。でも、ちょっと気になっている。そんなとき、あの人はこんなことを言っているのか、そのイメージができればいいのだと思う。

『歴史学ってなんだ?』2016-05-23

2016-05-23 當山日出夫

小田中直樹.『歴史学ってなんだ?』(PHP新書).PHP研究所.2004

https://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-63269-8

いわば、歴史哲学の入門といってよいであろうか。

この本を知ったのは、

野家啓一.『歴史を哲学する-七日間の集中講義-』(岩波現代文庫).岩波書店.2016

http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/60/0/6003420.html

で、参考文献にあがっていたからである。

大学で歴史学を学んでいる学生を相手にして、歴史学の意味とは、歴史的事実とは、などについて語ってある。いわゆる言語学的転回を経たのちの歴史学は、構成されたものとしての歴史を記述することになる。言い換えれば、神の視点からみた客観的な事実としての歴史は存在しないと考える、まあ、このようになるだろう。これについては、『歴史を哲学する』(野家啓一)で詳しく書いてある。

それよりも、この『歴史学ってなんだ?』の面白さは、歴史哲学の本でありながらも、一方で歴史研究の面白さを語ってくれているところにある、といってよいだろう。

『ローマ人の物語』(塩野七生)をとりあげて、歴史学と歴小説の違いについて分析を加えていくあたりは、なるほどと思わせるところがある。いろいろ比較してみると、歴史学と歴史小説の間にはそう大きな違いはなさそうである……としたうえで、歴史学は「根拠を問いつづける」ところにその存在意義があるとする。つまり、史料批判をふまえているか、そして、そのプロセスが論文とし記述してあるか、ということになると私は理解する。

それよりも、この本についていえば、歴史学は何の役にたつのか、問いかけていることである。

最近、いわゆる国立大学を中心として、文系学部の再編・縮小をめぐるうごきがある。これについては、すでにいくつかの本がでている。が、この本は、今から10年以上前の本であるので、大学の危機、人文学の危機は、一部で言われていたにせよ、制度的な大学の再編にまでおよんではいない時期のものである。その時期に書かれたものとして読んでみても、なぜ歴史学は役にたつのか、という問いかけと、それをめぐる思考は、説得力がある。

ただ面白ければいい、あるいは、ひらきなおっって、役にたたないことに意義がある、とは著者は言っていない。何か、社会の役にたつ道筋を見いだそうとしている。

たとえば網野善彦の仕事。「日本人」とは何であるか、日本列島に住んできた人々の歴史はどうであったか、を問いかけるものである。この意味では、現在の「日本」において、そのアイデンティティを問いかける、実に現実的な問題意識をはらむものである、と指摘する。

『歴史学ってなんだ?』は、ブックガイドとしてもすぐれている。巻末の参考文献にあげてある本を、ちょっとひいてみる。最初から5冊しめすと、

浅羽通明.『大学で何を学ぶか』
東浩紀.『動物化するポストモダン』
網野善彦.『無縁・苦界・楽』
網野善彦.『日本社会の歴史』
池上俊一.『動物裁判』

などである。大学の学生にとって、歴史学をめぐってどんな本を読めばいいのか、迷っているような時に、かっこうのガイドになる。

私もこの本を読んで、

良知力.『青きドナウの乱痴気』
松田英二ほか.『新書アフリカ史』

など読みたくなった。

歴史哲学、物語としての歴史……このあたりのことについては、改めて考えて書いてみることにする。

第114回の訓点語学会2016-05-24

2016-05-24 當山日出夫

5月22日は、京都大学文学部で、第114回の訓点語学会。このごろ、日本語学会の方はさぼりぎみであるが(会費は、はらってはいるが)、訓点語学会だけは、出るようにしている。

会員数は減少傾向にあるらしい。それでも、400名ちかくの会員がいる。学会としては、小規模な方だろうが、研究発表会に出席する立場としては、これぐらいの規模の学会がちょうどいい。

規模が大きくなりすぎると、研究発表会の会場が分かれてしまうことがある。それに懇親会に出ても、人が多すぎて、困惑する。

で、今回の訓点語学会であるが……私個人の興味としては、なかなか興味深かった。特に文字(漢字・仮名)についての発表があった。

最初の発表、略字「仏」の使用拡大と位相(菊地恵太)。
文字(漢字)についていえば、文字の「位相」というのをどう考えるかという論点がある。この点については、すでに、笹原宏之の研究がある。今回の発表についてみるならば、質疑の時にも指摘されていた観点として、漢字が使用されるとき、仏教語として使われているのか、あるいは、そうではない、漢籍の中で使われているのか、これを考えてみないといけないだろう。そのうえで、漢字の字体の異同を考えることになる。

それから、字体と字種との区別から見た篆隷万象名義の重出字(李媛)。
同じ漢字とは何か、という観点。字書のデータベースを作って、同じ文字コード(ユニコード)になる字、という方向で「同じ字」(重複字)を定義していた。これに対して、私が質問したのは、「たとえば、IDSで同じ記述ができる文字を同じと認定することはできないか。さらには、同じ文字コードになる、同じIDSになるといっても、それだけで、同じ漢字が認定できないならば、何か超越的な観点を導入して、この文字とこの文字は同じである/ちがう、という判断をくだすことになるのではないか」と、言ってみた。

最後の仮名の字体について。階層構造としての仮名字体(石塚晴通)。
これは、発表というよりも、問題提起として理解しておいた方がいいだろう。漢字については、書体・字体・字形・字種、といった議論、あるいは、定義が可能である。では、仮名(平仮名・片仮名)については、どうであろうか。漢字と同じように、書体・字体というような階層構造の定義ができるであろうか。

この論点については、これから、私自身、いろいろと考えていかなければならない課題であると思っている。考えたこと、ある程度まとまりそうなら、順次、このブログでも書いていってみたいと思っている。

わかりやすいプレゼンテーション2016-05-26

2016-05-26 當山日出夫

大学の情報処理の授業で、プレゼンテーションの練習をしている。実際には、パワーポイントのスライドの作り方である。だが、それだけではつまらないので、実際に学生にやらせる。教室でスライドを見せて、教室のみんなの前にたってプレゼンテーションをやってもらう。実習である。

この授業、プレゼンテーションの授業であるが、「巧みなプレゼンテーション」「上手なプレゼンテーション」には、あまり重きをおかないでいる。そうではなく、「わかりやすいプレゼンテーション」「ユニバーサルデザインのプレゼンテーション」という方向をめざしたいと思っている。これらは、似ているが、ちょっと方向性が違う。

「上手なプレゼンテーション」というと、巧みな話術とか、スライドのアニメーションとかに、目がいってしまう。そうではない、多少はつたなくてもいいから、相手に自分の言わんとしていることが十分につたわる、ということを重視したい。

そこで、考える点、留意する点は、次の二つである。

第一に、「話すこと」と「見ること」が一致しているように。スライドで、見せることがら(その多くは文字で書いてある)、それは、基本的に読み上げて示すようにする。音声化してつたえる。よくあるように、「見て御覧のように~~」としてはいけない。また、逆に、スライドに書いていないことを、延々としゃべるようなこともしてはいけない。

原則、一つのスライドで、一つのこと(事実・意見)をしめす。それを文字でも書いておく。そして、それを、音声でもつたえる。そして、これ以上のことをしゃべってはいけない。

人は、五感をつかって、プレゼンテーション・発表をきいている。これは、パワーポイントをつかった場合に限らない。ただ、紙のレジュメを読み上げる方式で発表するときでも、同じことである。「目」からの情報と、「耳」からの情報に、齟齬がないようにしておく。

当たり前のことのように思えるが、これが以外と難しい。そして、これを実践すると、非常に「わかりやすい」プレゼンテーションになる。

もちろん、その前提として、プレゼンテーション全体の構成がきちんと考えられていないといけない、ということはある。しかし、上記のような、「見ること」「聞くこと」を一致させて説明しようと心がけて資料(スライドなど)を準備すると、自ずと、構成のしっかりしたものになる。

第二に、「ユニバーサルデザイン」に配慮しなさい、ということである。特に、「カラーユニバーサルデザイン」について。このことについては、以前、このブログでも触れたことがあるかと思う。

男性の2~5%は、なんらかの色覚異常の症状がある。これらの人にとっても、見やすい、見てわかりやすい、デザイン・配色を考えなさいと、言ってある。

紹介してあるHPは、

色盲の人にもわかるバリアフリープレゼンテーション法
https://www.nig.ac.jp/color/

カラーユニバーサルデザイン機構(CUDO)
http://www.cudo.jp/

である。これらのHPの記載を参考にしなさいと言っておく。

なお、ユニバーサルデザインコンソーシアム(UDC)
http://www.universal-design.co.jp/

についても、紹介はしておく。

以上の、二点をふまえておけば、「わかりやすいプレゼンテーション」ということになるだろうと思っている。

もちろん、世の中には、パワーポイントなど使わないという人もいるし、使わないのが当たり前という学会・研究会もあったりする。しかし、それでも、目で見る資料(レジュメ)と、話している内容とが一致するようにということは、当てはまると思う。

だが、これは、スライド(資料)を読み上げればよい、ということではない。あくまでも、自分のことばで表現するように、これを忘れてはならない。自分のことばで語ってこそ、相手の心に、自分の思いがつたわるのである。

バックル『文明史』2016-05-27

2016-05-27 當山日出夫

E・H・カー(清水幾太郎訳).『歴史とは何か』(岩波新書).岩波書店.1962
https://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/41/8/4130010.html

この本、1962年に初版の本であるが、2014年に83刷で改版している。私が読んでいるのは、84刷。厳密に言うならば、改版第2刷、とすべきであろう。

ところで、ここで書いておきたいのは、岩波新書の書誌のことではない。また、歴史・歴史哲学についてでもない。

カーの『歴史とは何か』(岩波新書)、読み返すのは数十年ぶりになるだろうか。一昨年あたりから、岩波新書のベストセラー、ロングセラーについて、活字を新しくして、きれいな印刷の本が出ている。これもその一冊。きれいになった本で、読み直してみたいと思って読んでいる。

(この本の内容……歴史とは何か……については、また別に書くことにして)読んでいた途中でおどろいたのは、バックル『文明史』がひかれていたことである。(p.82)

私がバックル『文明史』の名前を知っているのは、福澤諭吉『文明論之概略』のタネ本としてである。このことは、福澤研究でとっくに明らかになっていることなので、いまさら書くほどのことではない。

だが、私の世代の感覚からするならば、福澤諭吉『文明論之概略』は、はるか明治の昔の著作。歴史的存在といってよい。(とはいえ、現在の視点から『文明論之概略』を読んでも面白い。それは、たとえば、丸山真男『「文明論之概略」を読む』(岩波新書)三巻を、読んでもわかることである。)

はるか昔のできごとと言ってしまうと悪いかもしれないが、そのように感じていた本がでてきている。それも、過去の事例としてではなく、ほぼ同時代の事例として。あるいは、西洋史にうとい私にとっては、バックルとは、ただ、福澤研究のなかで名前が出てくるだけの存在であった、知らなかった、ということなのかもしれないのだが。

考えてみれば、E・H・カーという人は、1892―1982、であると調べればわかる。(このことは、ジャパンナレッジの日本大百科全書による。)

順番にみると、

バックル  1821-1862
福澤諭吉  1834-1901
E・H・カー 1892―1982
清水幾太郎 1907―1988

となる。

そして、カー『歴史とは何か』を読んでみると、マルクス(1818-1883)や、ウェーバー(1864-1920)が、歴史的な人物というよりも、同時代か、ちょっと前の歴史家という感じで、言及されている。見てみると、バックルとマルクスは、ほぼ同時代の人である。

現在とちがって、歴史のあゆみももうちょっとゆっくりしたものであったろう。この意味では、バックルへの言及も、その当時よりすこし前の歴史家として引用してあるという感じだろうか。『歴史とは何か』を読めばわかるように、20世紀になって書かれたこの本は、19世紀をほぼ同時代か、それより、少し前の時代のこととしてあつかっている。

私にとって、歴史的知識であったバックルが、カーと清水幾太郎を介して、福澤諭吉の時代を経て、今につながったことになる。これは、これで、新鮮なおどろきである。

無論、こんなことは、むかし『歴史とは何か』(旧版の岩波新書)を読んだ若いときには、思ってもみなかった。本を読むことのたのしみとは、このような発見にあるといえるかもしれない。

池田健太郎訳『罪と罰』2016-05-28

2016-05-28 當山日出夫

文学とは文体である。ある意味、このように言うこともできよう。であるならば、海外文学の翻訳を読むのに、誰の翻訳で読むのがいいのか、ということになる。

ただ、翻訳には、誤訳がつきものである。それを指摘すれば、いろいろいえるのかもしれない。しかし、文学の翻訳についていえば、まず、何よりも文体の魅力である。それが無いと、まず読む気にならない。

無論、原文で読めればそれにこしたことはないのかもしれない。しかし、私の語学力では、もはや英語でさえも、原書を読むのにはおぼつかない。ましてやロシア語である。これは、もう翻訳にたよるしかない。

『罪と罰』である。

最近では、光文社古典新訳文庫の亀山郁夫訳が著名だろう。

光文社古典新訳文庫版『罪と罰』
http://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334751685

この他、現在、普通に手にはいる本としては、

新潮文庫版(工藤精一郎訳)『罪と罰』
http://www.shinchosha.co.jp/book/201021/

岩波文庫版(江川卓訳)『罪と罰』
https://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/32/6/326135+.html

などがある。

だが、私は、断然、池田健太郎訳なのである。中公文庫版で、昔、読んだ。まだ、若かったころ。学生のころだったろうか。それまで、新潮文庫版、岩波文庫版も手にしてはいたように思うが、いまひとつ、しっくりこなかった。ところが、池田健太郎訳(中公文庫)である。これを読んで、いきなり、陰鬱なペテルブルグの世界に引き込まれてしまった。行間から、ペテルブルグの街の空気がただよってくるような感じだった。読んで、ああやっと『罪と罰』を読んだな、という気がした、そのように感じたことを今でも覚えている。

その中公文庫版も今は読めない。絶版。(家のなかを探せば、どこかで見つかるかもしれないのだが、もうあきらめるしかないのかな、と思っている。)

ところが、今は、WEBの時代。オンラインで、古書の検索・購入ができる。探してみると、中央公論社「世界の文学」のシリーズが見つかった。池田健太郎訳『罪と罰』である。(文庫版の、もとになったものである。)

値段は、「1円」(それに送料がかかる)。多少の送料がかかるといっても、電車に乗って古書店をめぐることを考えれば、オンラインで買ってしまった方が、はるかに手っ取り早い。

先日、注文しておいたのがとどいた。見ると、月報はないようだが、それ以外は、非常にきれいな本である。久しぶりに、池田健太郎訳の『罪と罰』が読める。これは、うれしい。

ところで、今、読んでいるのは、『カラマゾフの兄弟』(池田健太郎訳)。中公文庫版。これは、持っている古い本の中からみつかった。全5冊。見ると、奥付のところに、1984(昭和59年)の日付が、ペンで書き込んである。

『カラマゾフの兄弟』(あるいは、一般的には、長音「-」をいれて『カラマーゾフの兄弟』か)も、池田健太郎訳がいいと思う。ここしばらくは、ドストエフスキイ(この表記法も、池田健太郎の流儀)を読んで、読書の時間をつかいたいと思っている。

昔、若かったころに帰った気分で、本を読みたい。

なお、池田健太郎という人、WEB(ジャパンナレッジ)で見てみると、若くして亡くなってしまっているようだ。もうちょっと長生きしていれば、日本におけるロシア文学の受容に、大きな影響を与えたひとかもしれない。

米窪明美『明治天皇の一日』2016-05-29

2016-05-29 當山日出夫

米窪明美の本について、いささか。

米窪明美.『明治天皇の一日-皇室システムの伝統と現在-』(新潮新書).新潮社.2006
http://www.shinchosha.co.jp/book/610170/


米窪明美.『明治宮殿のさんざめき』(文春文庫).文藝春秋.2013(原著.
2011.文藝春秋)
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167838782

著者の経歴を見ると興味深い。まず、「学習院大学文学部国文科卒」。これは普通だろう。その次がすごい。「学習院女子中等科の非常勤講師として作法を教えている」。へえ、さすが学習院。「作法」なんてな授業があるんだと感心してしまう。それから、NHKの『坂の上の雲』の宮廷関係の歴史考証、とある。これは、さらにすごい。

NHKの『坂の上の雲』は、私は見ている。実をいえば、再放送をふくめて、おまけに録画して、何度も見ている。(残念ながら、テレビのHDの録画容量の関係で今では消してしまったのだが。)

『坂の上の雲』の宮中シーン……テレビを見ているときは、あんなものかなあと思ってみていた。強いて言えば、明治天皇がきわめて女性的なイメージで描いてあったのが印象的である。明治天皇といえば、その今に残る写真からして、武断的な印象がつよいのだが、それは、近代日本が必要とした天皇のイメージであるということになる。

さらに言えば、明治国家によって作られた明治天皇のイメージ……「武」の側面を強く前面におしだした……そして、昭和天皇のイメージ……白馬にまたがった大元帥としの姿……このようなイメージは、天皇・皇室の意思とは別に、近代日本国家によって「つくられた」ものでもある。

といって、筆者(米窪明美)は、政治史については、まったく語っていない。近代天皇制の政治的な方面については、触れてはいない。ただ、書いてあるのは、明治天皇の一日がどのようにすぎているか(『明治天皇の一日』)、あるいは、明治宮殿が一年にどんな行事をむかえていたか(『明治宮殿のさんざめき』)である。

だから、面白い。どんなところに寝ていて、いつ起きて、どんな食事をして、いつ仕事をして、どんな遊びがあって……日常のできごとを描いてある。しかし、想像ではない。あくまでも、歴史考証として、文献史料にのっとっての記述である。

たとえば、朝、天皇が目覚めると、「おひーる」「申しょー、おひるでおじゃーと、申させ給う」……と、伝言ゲームのように、次から次へと伝えていく。そして、御内儀(おないぎ)と表との区別。などなど、次々へと興味つきない話しの連続である。

そして、わかることは、明治の天皇制の、新しさと古さである。

言うまでもなく明治になるまで、天皇は京都にいた。それが、明治になって東京にうつって、旧江戸城を、皇居として住まいするようになる。それは、明治の近代国家日本のスタートと歩調をあわせてのものである。いや、そうではなく、明治国家が必要とした天皇のイメージに沿って、天皇のシステムも構築されていったと言った方がよいかもしれない。

しかし、その一方で、旧態依然として、京都の時代からの宮廷の作法・儀式を残している面もある。

これは、今上天皇の姿を見ても容易に想像がつく。テレビなどで目にする御公務などは、西洋式である。もちろん、天皇は、洋服を身にまとっている。皇后陛下、その他皇族方も同様である。

だが、宮中の儀式として、古来からの「伝統」を残しているところもある。私の世代なら、今上天皇の即位の礼の時を思い出す。あるいは、秋篠宮の結婚式のときの様子など。紀子様が、いわゆる十二単の衣装であったことを記憶している。

西洋式でありながら、同時に、平安時代を彷彿させるような「伝統的」な姿、これは、どのようにして形成されてきたものなのであろうか。

米窪明美の本(明治天皇について)は、政治関係のことは一切言及していない。しかし、だからこそと言ってよいであろうか、明治国家になってからどのような天皇が日本にとって必要であったのか、が浮き上がってくる。

近代国家日本、明治天皇、天皇制……このような論点については、様々な意見・立場あることは承知しているつもりである。この意味からは、近代天皇がどのように形成されてきたものなのか、天皇はいったい「日常で」何をしていたのか、これについて知っておくことは、議論をすすめるうえで、必要なことでもあろう。

著者(米窪明美)は、昭和天皇(その昭和20年)についても書いている。それについては、また改めて書いてみることにしよう。ともあれ、明治天皇についての本は、(少なくとも歴史に興味関心のあるひとにとっては)面白いものであると思う次第である。