『豊饒の海』第二巻『奔馬』三島由紀夫2017-03-24

2017-03-24 當山日出夫

三島由紀夫.『奔馬ー豊饒の海 第二巻ー』(新潮文庫).新潮社.1977(2002.改版) (新潮社.1969)
http://www.shinchosha.co.jp/book/105022/

やまもも書斎記 2017年3月9日
『豊饒の海』三島由紀夫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/09/8397497

やまもも書斎記 2017年3月19日
『豊饒の海』第一巻『春の雪』三島由紀夫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/19/8410111

やはりこの作品については、ラストだろう。三島由紀夫の市ヶ谷での自決という最期を知っていて読むと、この小説のラストは、強く印象に残る。

あるいは、ひょっとすると、三島由紀夫は、この小説を書いたがために、自らの最期を、あのように演出することになったのかもしれない、このように考えて見たくもなる。

私がこの小説『奔馬』を読んだのは、先に書いたとおり、大学生になってからのことであった。古い新潮文庫で読んだ。その時、三島の主な作品(文庫本で読める)は読んでいたとおもうし、無論、その市ヶ谷での事件の顛末については、知識としてはもっていた。だから、この作品の最後のシーン、そのことばが、強く印象に残っているということはあるだろうと思う。

『豊饒の海』四巻のなかでは、最初の『春の雪』とこの『奔馬』が、小説としての完成度が高い。それだけで独立した作品として読むにたえるだけのものをもっていると同時に、『春の雪』と『奔馬』は、その内容においても、登場人物においても、密接に連携したものとなっている。

これが、『暁の寺』『天人五衰』になると、『豊饒の海』四巻のなかの一冊という位置づけで読まないと、どうも面白くはない。まあ、これは、私の個人的な感想であろうとは思うが。また、小説としての完結性という点でも、『春の雪』『奔馬』と比べると劣るようにも思える。

さて、この『奔馬』である。時代は、前作『春の雪』が、大正の初期であったのをふまえて、次の時代、昭和初期の時代……世の中の不況、国際情勢の変化、満州事変、五・一五事件……といった世相を背景にした、いわゆる国粋主義に殉じた若者をえがいている。その行為の是非についていえば、今の価値観からすれば、決して褒められるものではない。しかし、小説として描き出した、その時代に、ある観念のもとに純粋に生きようとした若者の姿を、見事にとらえている。

これはこれとして、三島の最期の事件とは切り離して、独立した小説として十分に読むにたえるものである。しかしながら、三島の事件と切り離して読むことがもははできない、というのは、文学というものが、やはりある時代の流れのなかに存在するものである、ということから免れないことを示しているだろう。私は、三島のこの作品を読むとき、純然たるテクスト論者にはなれない。

ただ、いま、振り返ってみれば……若い時、三島由紀夫の事件というのは、それほど強く意識していなかった。もちろん、知識として知ってはいたが、それによって、衝撃をうけたということはない。これは、おそらく、私の世代で、数年の年の違いで、それぞれに、非常におおきくちがうことだろうと思う。

たぶん、私よりも数年年上の人で、『豊饒の海』をその同時代に読んでいた人であるならば、市ヶ谷の事件で、まず、この『奔馬』を思い浮かべただろう。逆に、私ぐらいの世代になれば、三島の事件をすでに知っていて、この『奔馬』を読んだことになる。この文学的体験の違いというのは、大きいと思う。

時代の流れのなかで、文学のテクストはどう読まれるのか、という問題点をつきつけてくる作品でもある。

追記 2017-03-25
この続きは、
やまもも書斎記 2017年03月25日
『豊饒の海』第二巻『奔馬』三島由紀夫(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/25/8419677