『国語学史』時枝誠記2018-03-30

2018-03-30 當山日出夫(とうやまひでお)

時枝誠記.『国語学史』(岩波文庫).岩波書店.2017 (岩波書店.1940)
https://www.iwanami.co.jp/book/b313869.html

国語学史

『やちまた』(足立巻一)を読んで、買って積んであったこの本を読んでおきたくなった。

やまもも書斎記 2018年3月19日
『やちまた』足立巻一
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/19/8806507

時代を考えてみると、『やちまた』で著者(足立巻一)が、神宮皇學館の学生生活をおくっているころ、それは、時枝誠記が、言語過程説にいたる一連の仕事にかかわっていたときになる。ちなみに、『国語学原論』は、1941年(昭和16)である。ほぼ、『やちまた』の学生時代と重なる。

かつて、私が学生だったころ、国語学という研究において、国語学史という分野は、文法とか音韻などとならんで、国語学という学問を形成する一つのおおきな分野であった。それが、現在、日本語学ということになって、では、日本語学史というのが重要な領域を占めているかというと、どうもそうともいえないようである。

とはいっても、ここは時代の流れがある。この『国語学史』(時枝誠記)では、ほとんど言及されることのない資料である、中世のキリシタン資料についての研究は、近年では、かなりさかんになってきているという印象がある。たぶん、これは、国語学史・日本語学史というのを考える基盤となるものが大きく変わってきたということがあるのだろう。

時枝誠記の時代……その主な著作は戦前の刊行になり、近年の国語学批判でまっさきに批判される立場にあったことになる。「外地」において「日本語」が「国語」として存在した時代である。それが、現在ではどうだろうか。「日本語」は、ほぼ日本という国の中だけの言語になった。が、一方で、それにとどまらないで、いわゆる外国人に対する日本語教育(日本の国内外において)が、重要な言語政策課題、研究課題となってきている。世界の中における日本語というものを考える時代になってきているといえるだろう。

言語過程説にいたる時枝誠記の立場からするならば、言語(日本語)を、客観的に外在する対象として分析したことになる……それは、主にラテン語文法にもとづいてということになるのだろうが……キリシタン資料の日本語研究は、参照するに価しないものであったと考えられる。あくまでも、日本語を使う人間が、そのことばをどのように自覚していくかというところに、『国語学史』の本筋がある。

『国語学史』(時枝誠記)であるが……これは、やはり、その言語過程説を理解するうえで、重要な意味をしめることになる。ざっくりというならば、「てにをは」を「辞」としてとらえる、日本語の文法の自覚の歴史と言っていいだろう。

また、この『国語学史』を読んでみて、「外地」において「日本語」を「国語」とした時代を背景に、「国語学」という学問が自明のものではなくなってしまっているということへの、自覚がはっきりと見てとれる。「国語学」が「日本語」の研究であることを、改めて考え直していると言ってよいであろうか。時枝誠記は、「日本語」ということにきわめて自覚的であったと読み取れる。

戦前の本であり、ちょっと専門的な内容の本ではあるが、岩波文庫の一冊である。ことさら専門家だけのものということもないであろう。私も、もう国語学、日本語学というところからは隠居しようと思っている……いくつか学会には出ることにしているが……そのような境遇に身をおくことして、純然たる読書の楽しみとして読む、ちょっと専門的な本、とでもいえばいいだろうか。新規な学説をおいもとめるのではなく、今では古いかもしれないが、かつての先達たちが考えた跡を味わいながらたどって本を読んでいきたいと思うようになった。

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