『夜明け前』(第一部)(下)島崎藤村2018-03-01

2018-03-01 當山日出夫(とうやまひでお)


島崎藤村.『夜明け前』第一部(下)(新潮文庫).新潮社.1954(2012.改版)
http://www.shinchosha.co.jp/book/105509/

続きである。
やまもも書斎記 2018年2月23日
『夜明け前』(第一部)(上)島崎藤村
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/02/23/8792791

第一部の下巻は、参勤交代の廃止、長州征伐、大政奉還、といったあたりまで。まさに明治維新の激動期である。その激動期の動きを、この小説は、基本的に、信州馬籠の宿場町の日常のなかに描いている。あまり、主人公(青山半蔵)の視点から離れて、歴史の叙述にのめり込むことがない。

とはいえ、この第一部(下巻)で、大きく扱われているのは、水戸の天狗党の騒乱。維新史の一コマとの知識はもっていたが、そう知っているという事件でもなかった。この事件のことについて、かなりのページがつかってある。何故だろうかとと思って読んでいったのだが……つまりは、天狗党は筑波で挙兵の後、信州をたどって、越前までおちのびている。馬籠を通過しているのである。

天狗党については、『夜明け前』以外にも、いくつかの小説などで描かれている。それも読んでおきたいと思う。吉村昭、山田風太郎などが書いていたかと憶えている。(結局、天狗党の挙兵は失敗ということになるのだが、その維新の歴史のなかで敗れた人びとをどう描くか、今日の観点からは興味がある。)

ところで、やはりこの作品、基本的に、信州馬籠の庄屋であり本陣である青山半蔵の生活の視点から描かれている。長州でもなく、薩摩でもなく、京都でもなく、江戸でもなく。(作中、半蔵は、江戸に出かけて行くことはあるのだが。)あくまでも、信州馬籠の日常……その庄屋であり本陣である……の視点を、そう大きく離れることはない。

そして、その信州馬籠にいた、国学の徒……平田篤胤の没後の門人……として、大政奉還、王政復古ということは、理想とするところの古代にかえることを意味する。この視点から見るならば、明治維新というのは、本居宣長から平田篤胤にいたる思想、学問の流れの延長にあることになる。

下巻まで読んで印象に残ることとしては……江戸幕府の倒壊ということが、実感として感じる時代があった、その記憶を継承した作品であるということである。前にも書いたが、島崎藤村は明治5年に生まれている。(作品では、まだ、その誕生の前のことが語られる。)その藤村にとって、幕末のできごとは、自分の親の世代にとって同時代のできごとであった。

幕末に庄屋、本陣という職務にあった人びとの目から見て、江戸幕府の行き詰まりは、日常生活の感覚の上で実感できるものであった。中山道は、江戸と京都をむすぶ要路である。その街道の物流、人びとの動き、これから、時代の流れが、もはや止めようのない必然的な大きな流れとして、意識される。

徳川封建制の破綻を、地方の、庶民的な、日常的な感覚で捉えているといってもいいだろう(長州や薩摩でもなく、武士でもなく、という意味において。)

徳川政権の崩壊は必然であった。このように言ってもいいかもしれない。尊皇攘夷思想からの反幕府の動きが、倒幕という方向におおきく流されていく。その動き、徳川の支配の終わり、それを、本陣、庄屋という役職から感じる実感として描いてある。

また、青山半蔵は、国学を学んでいる。当時として、知識人といってよい。そのような国学の視点から見ての、幕末の動乱である。そこには、歴史の必然とでもいうべきものを見る感覚がある。個人の力ではどうしようもない、社会の大きな変動ということになろうか。江戸幕府は、倒れるべくして倒れたといってもいいかもしれない。

では、その後に生まれた明治時代はいかなる時代であるのか。それは、第二部以降のことになるのだろう。(昔、読んだが、もう忘れてしまっている。)この作品が明治という時代をどう描くか、続きを読むことにしたい。

追記 2018-03-05
この続きは、
やまもも書斎記 2018年3月5日
『夜明け前』(第二部)(上)島崎藤村
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/05/8798048

『遮断地区』ミネット・ウォルターズ2018-03-02

2018-03-02 當山日出夫(とうやまひでお)

遮断地区

ミネット・ウォルターズ.成川裕子(訳).『遮断地区』(創元推理文庫).東京創元社.2013
http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488187101

東京創元社のHPには以下のようにある。

*第1位『ミステリが読みたい!2014年版』海外編
*第2位『このミステリーがすごい! 2014年版』海外編
*第3位『週刊文春 2013年ミステリーベスト10』海外編
*第2位『IN★POCKET』2013文庫翻訳ミステリーベスト10/翻訳家&評論家部門
*第4位『IN★POCKET』2013文庫翻訳ミステリーベスト10/総合部門
*第4位『IN★POCKET』2013文庫翻訳ミステリーベスト10/読者部門

かなり世間的な評価は高い作品である。出た時に買っておいて、積んであった本である。春休みということで、時間がとれるようになったので、分量のあるミステリを読んでおこうと思って読んだ。

めまぐるしく視点が転換する。登場人物も多い。そのせいもあってか、ストーリーがきちんと追い切れなかった。メインのストーリーとしては、英国において、下層の人びとの暮らす団地で起こったデモ(あるいは暴動といった方がいいか)、その暴動にまきこまれた女性医師、その暴動にかかわることになった幾人かの人びと、それから、ある少女の行方不明事件、などである。これらのいくつかの視点を切り替えながら、団地で起こった暴動の顛末を描写してある。

この作品を読んだ正直な感想を述べれば……昨今いわれるようになった性的少数者と、その対極にある性的変質者、この境目のグレーゾーンはいったいどんなものなのだろうか、ということである。小児性愛は、犯罪であることになる。だが、この小説に描かれる登場人物には、そのような犯罪者的な感じはほとんどない。

暴動のきっかけは、団地に小児性愛者が住んでいるという情報からはじまる。一般的には、一般市民の反感をかうことになる変質者である。だが、読んでいくと、特に変態、犯罪者という印象ではない。むしろ、特殊な性的嗜好をもった特異な一部の人間という感じである。

この作品の描いているのは、社会における少数者……本作では、性的嗜好における少数者ということなろうが……に対して、一般市民の反感がたかまったとき、制御しきれない暴動になり得る、そこにある正義とは何か、ヒューマニズムとは何か、という問いかけであるように思える。

ミステリ、犯罪小説という形でえがいた、現代社会の世相の一端ということになるだろうか。また、これは、ミステリ、犯罪小説という形式をとらなければ描けないテーマであるともいえる。まさに現代社会のかかえるある種の問題をミステリという形式で描き出した作品であることにはちがいない。

『声』アーナルデュル・インドリダソン2018-03-03

2018-03-03 當山日出夫(とうやまひでお)

声

アーナルデュル・インドリダソン.柳沢由実子(訳).『声』(創元推理文庫).東京創元社.2018 (東京創元社.2015)
http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488266059

第二作目『緑衣の女』については、
やまもも書斎記 2018年2月24日
『緑衣の女』アーナルデュル・インドリダソン
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/02/24/8793366

アーナルデュル・インドリダソンの三作目である。この作品も、世の評価は高いようだ。

この本を読んで思ったことをまとめると次の二点になるだろうか。

第一は、これは家族の物語である。それも、いくつかの家族の物語が重層的に語られる。被害者となって発見された男性、その少年のときの生いたちにおいて、家族、特に父親はどんな存在であったのだろうか。もし、その父がそのようでなければ、被害者は、違った人生を歩んでいたのかもしれない。

それと平行して語られる、いくつかの家族。エーレンデュルと、その娘、エヴァ=リンドのこと。また、エーレンデュル自身の幼いときの思い出。また、エリンボルクが担当することになる、ある家族の事件。

この作品は、いくつかの家族の物語を重層的に語ることによって、21世紀の社会において、家族とは何であるのかを問いかけているように思える。この意味において、この作品は、ミステリという枠のなかにありながら、同時に、普遍的な問いかけの文学になっている。

第二は、この作品、シリーズとして書かれているので、エーレンデュルの視点で書いてある。だが、この作品で描きたかったことを書こうとするならば、警察の視点ではなく、犯人の視点から描いた方がよかったのかもしれない。

犯人も、また、ある種の家族の不幸を背負って生きてきた。それを背景に、なぜ、犯行にいたることになったのか、その心理の経緯を描いた方が、ずっと面白い作品になったにちがいない。

以上の二点が、この作品を読んで感じたところである。

アーナルデュル・インドリダソン、北欧、アイスランドの作家ということだが、近年、非常に人気があるようだ。その理由は、アイスランドという限定的な場所を舞台にしながら、作品のテーマとしているのが、今の時代を生きる人間のありさまを描いているところにあるのだろう。その描く人間模様は、世界的な普遍性を獲得するにいたっている。

さて、次は、『湖の男』である。これは、まだ文庫にはなっていないのだが、読んでおくことにしたい。花粉症のシーズンになっているので、外を出歩くことは避けて、家の中に避難している・・・。アーナルデュル・インドリダソンは、広義のミステリという形をとっているが、そのなかで、この時代と世界の人びとを描いている作家だと思う。

『わろてんか』あれこれ「夢を継ぐ者」2018-03-04

2018-03-04 當山日出夫(とうやまひでお)

『わろてんか』第22週「夢を継ぐ者」
https://www.nhk.or.jp/warotenka/story/22.html

前回は、
やまもも書斎記 2018年2月25日
『わろてんか』あれこれ「ちっちゃな恋の物語」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/02/25/8794071

てんと藤吉もかつては駆け落ちして一緒になったのであるが、だからといって、つばきと隼也のことを許すというわけにはいかなかった。このあたりの展開は、ベタななりゆきになっていると感じるのだが、これはこれで面白いと思う。今後、この二人が紆余曲折を経て幸せになっていくことになるのだろう。

一方、リリコと四郎は一緒になって上海に行くという。昭和10年頃の上海なら、日本人の租界もあったはずである。当時、諸外国が進出していた国際都市……あるいは、魔都とでもいうべきか……としての上海なら、十分に活躍できる舞台になるのだろう。と、思うのだが、これから、日中戦争は泥沼化していくことになる。上海に行ったからといって、決して安穏に今後がすごせることはない。

このドラマ、基本的には背景となる世相、時代を描かない方針のようだが、これから戦争の時代になるとそうはいかないだろう。

ちなみに、私は、BSで早い放送で見ているのだが、今、BSでは『花子とアン』を再放送している。このドラマは、その時代背景……戦争というものを……を、克明に描く方針である。同時に再放送している『花子とアン』を意識しているということはないのであろうが、見ている側としては、どうしても比べて見てしまう。

たぶん、これから戦争の暗い時代になっても人を笑顔にさせるものとしての笑いという方向でいくのだろう。笑いの持つ、その時代、社会への風刺というような側面は、このドラマは取り上げない方針のようである。これはこれとしてドラマの作り方である。(ただ、いささか物足りない感じはするのであるが。)

それにしても、ヒロインの葵わかなはよく頑張っていると思う。実際の年齢より倍以上年代のことを演じている。そう無理をするでもなく、それなりの雰囲気をどうにか出している。一人の女優で女性の一代記を描くというのは、もう無理なのではないかと思っていたのだが、『わろてんか』では、そこのところを、どうにかヒロインの頑張りで達成していると感じさせる。

このドラマもあと一月ぐらいになった。戦争の時代を経て、戦後のはじめごろまで描くことになるのだろう。これからどうなるか、楽しみに見ることにしようと思う。

追記 2018-03-11
この続きは、
やまもも書斎記 2018年3月11日
『わろてんか』あれこれ「わろてんか隊がゆく」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/11/8801356

『夜明け前』(第二部)(上)島崎藤村2018-03-05

2018-03-05 當山日出夫(とうやまひでお)

夜明け前(第二部)上

島崎藤村.『夜明け前』第二部(上)(新潮文庫).新潮社.1955(2012.改版)
http://www.shinchosha.co.jp/book/105510/

続きである。
やまもも書斎記 2018年3月1日
『夜明け前』(第一部)(下)島崎藤村
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/01/8796037

第二部を読み始めて、ちょっととまどいを感じる。これまでこの小説は、基本的に信州馬籠の本陣にいる青山半蔵の視点を大きくはずれることがなかった。しかし、第二部になって、いきなり幕末の外交からはじまる。いやそれにさかのぼって江戸時代の外交(オランダとの)の話しになる。

これはどういうことなのだろう。

思うに……昭和の始めに書かれたこの小説『夜明け前』、その作者である島崎藤村は明治5年の生まれ。その父をモデルに描いている。このような時代設定のもとでは、幕末にアメリカが日本にやってきた、その前にオランダとつきあいがあった、ということは、自らの記憶と体験の連続のうちにあることなのであろう。

それは、例えば、今日、21世紀になって、戦後70年を考えるとき、戦前の歴史から考え直すことが求められるようなことかもしれない。昭和20年で区切りをつけて、というわけにはいかない。

そのような仕事の例としては、

やまもも書斎記 2016年9月12日
加藤陽子『戦争まで-歴史を決めた交渉と日本の失敗-』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/09/12/8182853

やまもも書斎記 2016年9月16日
半藤一利『B面昭和史 1926-1945』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/09/16/8191044

のような本がある。戦前の日本の歴史、世相をかえりみるところから、現代の日本のあり方を考えている仕事である。

このような意味において、維新から60年ほどの時間を経た時点で、明治維新のことを考えるのに、それ以前の江戸時代のことから話しを説き起こすのは自然なことだったのだろう。

このように思わないと、第二部になって、いきなり江戸時代からの対外政策、幕末における開国の事情、このようなことについて、いきなり「歴史」の話しになってしまうことが理解できない。この時代(昭和のはじめ)の人びとにとって、江戸時代のことも、まだ人びとの体験の延長にある「歴史」であったことになる。

そして、この第二部の上で描かれるのは、明治になって、版籍奉還から廃藩置県ぐらいのできごと。

戊辰戦争の東征軍は、馬籠を通過している。そこで戦いがあったということではないが、戊辰戦争を肌で感じるところがあった。

江戸時代、尾州家の支配下あった馬籠の宿場も、維新の影響を被ることになる。具体的には、まず、時代の変化にしたがって物流が変わる。宿場ならではのこととして、日常生活のなかで実感するようになる。本陣という制度もなくなってしまう。関所もなくなる。木曽路の宿場として、明治なってからの変革の様子が描写されていく。

廃藩置県となり、馬籠のあたりは、名古屋県を経て、筑摩県になる。

これらの出来事が、青山半蔵の視点で語られる。前にも書いたとおり、明治維新という出来事を、長州でも薩摩でも京都でも江戸でもない信州馬籠を舞台にして描いた作品である。また、その社会的地位も、武士でも公家でもない、宿場の本陣という立場、そして、平田国学の徒であるという設定から見ている。作者は、この作品の中で、「草叢」の語をもちいている。「草莽」と言い換えてもいいのかもしれない。

すくなくとも、この巻(第二部の上)までを読むかぎりでは、王政復古ということは、青山半蔵の理想とする古代に立ち返ることにつながっている。

いわゆる五箇条の御誓文についても言及がある。馬籠にいる青山半蔵のもとにも、このことがつたわっている。(このあたり、江戸時代から近代にかけてのメディア史として興味深いところでもある。)

この巻(第二部の上)の終わりで、子どもが生まれている。作者・藤村のモデルである。いよいよ、明治の文明開化、近代化というところに、話しはすすんでいくことになる。馬籠の人びとにとって明治の近代化とはどんなものであったのか、続きを読むことにしよう。

追記 2018-03-09
この続きは、
やまもも書斎記 2018年3月9日
『夜明け前』(第二部)(下)島崎藤村
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/09/8800299

『西郷どん』あれこれ「江戸のヒー様」2018-03-06

2018-03-06 當山日出夫(とうやまひでお)

『西郷どん』2018年3月4日、第9回「江戸のヒー様」
https://www.nhk.or.jp/segodon/story/09/

前回は、
やまもも書斎記 2018年2月27日
『西郷どん』あれこれ「不吉な嫁」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/02/27/8795151

西郷は、斉彬のお庭方になった。これから、斉彬の命をうけて江戸で働く西郷ということになるのであろう。直々に斉彬の薫陶をうけることになる。

この回では、これまでの伏線のいくつかが回収されていた。剣を持てなくなった西郷を励ました斉彬、家が貧しくて身売りすることになった少女(ふき)。

また、これからの江戸編(といっていいのだろうか)で大きな役割を果たすであろう登場人物がでてきていた。水戸の斉昭。井伊直弼。一橋慶喜。

その一橋慶喜……無論、最後の将軍となる人物であるが……と、西郷が顔をあわせることになるのが、品川の妓楼。そこには、薩摩から身売りして各地をながれて江戸まで来た女性(ふき)がいた。このあたりは、フィクションにちがいないのだが、面白い展開として描いてあったと思う。

興味深く思ったのは、品川の妓楼のセット。かなり凝ったつくりになっていた。池までつくってあった。これは、かなりコストをかけたとおぼしい。しかし、それにくらべると、江戸城のセットが、なんともショボい。NHKは、江戸城のセットをつくよりも、品川の妓楼のセットをつくる方に金をかけたと見える。

こまかなことになるが……江戸の西郷の部屋の壁にはってあった世界地図。大西洋がまんなかにあるものだった。北極と南極はないようだった。この当時の世界地図としては、このようなものだろう。が、この世界地図が西郷の部屋にあるということは、これから開国から維新にむかう時代のなかで活躍することになる西郷にふさわしいというべきか。

また、開国ということについていえば、鎖国か開国かという論点で論じるのもいいのだが、結局、開国ということになって、その結果として不平等条約を結ぶことになる、このところの問題点は描かれないようだ。後の歴史としては、開国したことも大きな歴史の転換点であったろうが、それと同時に、不平等条約ということも、きわめて大きな社会的、歴史的な課題になる。

このあたりのことについては、既に述べた。

やまもも書斎記 2018年2月3日
『明治天皇』(三)ドナルド・キーン
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/02/03/8781281

明治になってからの西郷を描くならば、不平等条約ということは重要なポイントになってくるはずである。

この回で印象的であったのは、回想シーン。少年の吉之助と斉彬。もう武士の時代は終わる。斉彬はそのように予見していたかのごとくである。たしかに、歴史の流れとしては、武士の時代を終わらせた立役者は、西郷隆盛ということになる。

その西郷に、お庭方を命じて、刀を与えたシーンもまた印象的であった。西郷の主君・斉彬への忠誠心が、いかんなく描かれていたと思う。西郷という人物は、斉彬への忠誠心から、その後、倒幕へと舵をきり、明治新政府を樹立することになる。封建的な主君の関係……忠誠心……と、近代国家のナショナリズムが、矛盾することなく一人の人格のなかにおさまっていた人物ということになる。

ところで、この回も、ことばをめぐっては、いろいろ面白い要素があった。それについては、改めて考えてみたい。

追記 2018-03-13
この続きは、
やまもも書斎記 2018年3月13日
『西郷どん』あれこれ「篤姫はどこへ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/13/8802495

梅のつぼみ2018-03-07

2018-03-07 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので花の写真。今日は梅のつぼみ。

前回は、
やまもも書斎記 2018年2月28日
沈丁花のつぼみ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/02/28/8795532

もうこれぐらいになったら、つぼみと言ってもいいだろう。まだ、花は咲かないのであるが、そろそろ、咲きそうな気配になってきた。ここ数日暖かったせいかもしれない。もうすこししたら花が咲くかなと思っている。

我が家の梅の花の咲くのは例年遅い。テレビのニュースなどで、梅の便りが聞かれる頃になっても、まだ冬芽のままである。三月も中旬以降にならないと咲かない。

花が咲いたらまたその時に咲いた状態を写してみることにして、そのつぼみがそろそろ咲きそうになっているときを写真に撮ることにした。

梅の花の他には、我が家の庭に植わっている木では、木瓜、椿、山茱萸、沈丁花などがある。これらの花ももうじき咲きそうなのだが、これもまだ咲かない。もうちょっと暖かくなってからのことになるだろう。来週は、花の咲いた写真を掲載できるかもしれない。

藪椿はすでに花を咲かせているのだが、木の高いところで咲いているので、写真に撮れない。望遠300ミリ(DX、FX換算450ミリ)でも無理である。

使っているのは、85ミリのマイクロ。RAWのデータを現像処理して、ブログ掲載用のJPEG画像にしてある。

梅のつぼみ

梅のつぼみ

梅のつぼみ

梅のつぼみ

Nikon D7500
AF-S DX Micro NIKKOR 85mm f/3.5G ED VR

『西郷どん』における方言(三)2018-03-08

2018-03-08 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2018年2月8日
『西郷どん』における方言(二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/02/08/8784439

西郷は、江戸に出る。そこでのことばのことについてちょっと思ったことなど書いておきたい。

第一に、薩摩藩邸の中では、鹿児島ことばであった。江戸であるからといって、江戸ことばになっていない。まあ、これは、そこにいる人間が薩摩出身ということで、こうなっているのだろう。

これも、薩摩藩邸といえども、江戸にあるので、江戸ことばであってもおかしくはない。治外法権のようなものである。だが、江戸で生まれた斉彬は、江戸ことばである。まわりの藩邸の武士などが、鹿児島ことばなのに、斉彬だけが江戸ことばなのか、おかしいという気がしなくもないが、これは、ドラマの設定としてこうなっているのであろう。

第二に、薩摩の貧農の娘(ふき)。身売りされて、流れ流れて江戸までやってきた。品川の妓楼で、西郷と再会する。このふきのことば。江戸ことばにすこし郭ことばがまじっているという感じだった。が、西郷と話すときには、鹿児島ことばになっていた。

第三に、篤姫。いずれ、将軍家に嫁ぐ、大奥に入ることになる。だが、薩摩藩邸のなかでつかっているのは、鹿児島ことばであった。この篤姫が、大奥に入ってから、どうことばが変わるか、これは気になるところである。

第四に、西郷。江戸に来ても、当然といえばそれまでだが、鹿児島ことばである。薩摩藩邸のなかでは、鹿児島ことばだから不自由はないようである。それが、品川の妓楼に行くことになる。そこで、先に江戸に来ていた、仲間と話すシーン。先に江戸に来ていた仲間は、江戸ことばも話せる。それに、西郷は違和感をいだくことになる。

だが、主君・斉彬は江戸ことばである。その斉彬のことばについては、特に違和感なく、接している。また、この主従の関係において、ことばが通じないということにはなっていない。江戸にいる開明的な主君・斉彬、それに忠誠をつくす、薩摩の下級藩士である西郷。この主従関係は、ことばの違いをこえて、強い結びつきがあるように描いてある。

この西郷が、水戸の屋敷に使いに行くシーン。道が分からなくて、人に道を聞くところでは、ことばに困っていたようである。しかし、水戸藩邸の中で、斉昭、慶喜と会うシーンでは、コミュニケーションできていた。また、品川の妓楼で遊ぶこともあるという設定で登場した慶喜が江戸ことばであるのは当然なのかもしれないが、斉昭はどうなのだろう。水戸のことばであってもいいような気がするのだが、そうはなっていなかった。

以上のようなことが、これまで見たところの範囲で、『西郷どん』における方言として気になっているところである。無論、これは、ドラマなのであるから、そのように演出して、登場人物は話している。そのうえで、なに不都合なくコミュケーションできたり、逆に、ことばが通じなくて困ったりということになっている。

実際に江戸時代のおわり、江戸にあつまった地方の武士たちが、どのようなことばでコミュニケーションしていたか、という歴史的考証とは別の次元のことになる。あくまでも、ドラマのなかにおける、バーチャルな世界のことばとして理解しておくべきことである。

追記 2018-03-29
この続きは、
やまもも書斎記 2018年3月29日
『西郷どん』における方言(四)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/29/8813994

『夜明け前』(第二部)(下)島崎藤村2018-03-09

2018-03-09 當山日出夫(とうやまひでお)

夜明け前(第二部)下

島崎藤村.『夜明け前』第二部(下)(新潮文庫).新潮社.1955 (2012.改版)
http://www.shinchosha.co.jp/book/105511/

続きである。
やまもも書斎記 2018年3月5日
『夜明け前』(第二部)(上)島崎藤村
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/05/8798048

私がこの小説を最初に読んだのは、いつのころだったろうか。高校生のころか、大学生になっていたか。ともかく読んだのは憶えている。それから、数十年がたって再読してみて感じることは……明治維新というできごとを、同時代の感覚でとらえる感性が、この小説の書かれた時(昭和のはじめ)には、まだ残っていたのだな、ということである。

物語は、第二部の下巻に来て、急速に展開する。明治維新をむかえて、半蔵の身の上にも様々なできごとがおこる。半蔵は東京にも行っている。そこで、天皇の行幸の列にとびこむということをする。逮捕され、裁判所からの沙汰を待つ。そして、帰郷。半蔵は、神職となって飛騨の神社に赴く。数年の後、再び馬籠にもどるが、すでに戸長の職にはない。明治維新の結果、本陣も問屋も庄屋もなくなってしまっている。廃仏毀釈がおこる。村には学校ができる。半蔵は、早々と隠居する。その流れのなかにあって、明治維新はこんなはずではなかったという屈折した思いから、半蔵は精神を病むことになる。座敷牢に入れられ、そして最後には、その死を描いて、この長編の物語は閉じる。

第二部(下巻)まで読んで思うことは、「明治維新」……この語が使われるようになったのは、明治になってからしばらくのこと、それまで「御一新」とよばれていた旨の記述が中にある……これにいだいた、平田篤胤門下としての理想が、ことごとく挫折していく、鬱屈した感情である。

この小説『夜明け前』の書かれた昭和のはじめ、「昭和維新」ということが言われていたことは、歴史の知識としては知っている。このことについて、この小説を読むと、ただ、「維新」ということばを流用してきただけのことではなく、「維新」の出来事が、人びとの記憶の延長のなかでとらえられていた時代、まだ人びとの共通の体験としてあったことが、理解される。ここには、「維新」のときにおこったできごとが、まだ生々しい記憶として残っている。言い換えれば、「維新」は歴史上のできごととして、単純に理想化できるものではない。

例えば、明治という時代を語るとき、不平等条約の改正が大きな課題であった。これは、今の我々は忘れてしまっている。ただ歴史の知識としてある。だが、明治の同時代にあっては、日本の背負っている最大の課題の一つであったことになる。このような明治という時代を同時代のものとして考える感覚が、この小説の中の随所に見られる。

また、明治維新を描きながら、それを賛美するだけにおわっていない。確かに明治維新で新しくなり、改革されていくことを描く一方で、理想とした国のあり方はこんなではなかったはずである、という半蔵の思いが描かれる。そして、さらに、山とともにあった信州馬籠の人びとの生活を語るとき、江戸時代からの流れを見ている。江戸時代(享保のころ)は山の森林はどのように管理されていたか、そこから説きおこして新時代にあるべき、人びとの暮らしのあるべき姿を思っている。明治維新を断絶ととらえずに、江戸時代からの流れのなかで見る視点である。

これは、一つには、平田篤胤門下として国学の徒であるという視点もある。だが、それだけではなく、森林の経営と、そこに生きる人びとの生活が、明治維新ごときでどうにかなるものではなく、もっと長期的な視点から見るべきものであるという、その土地に根ざした人間の視点でもある。

このように大きな歴史的スケールのもとに、この小説は語られる。

そして、忘れてはならないのが、文章の素晴らしさである。『夜明け前』の冒頭の一文は、よく知られている。この小説を読むと、特に、木曽地方の山々の風景の描写が美しい。これは、詩人でもあった島崎藤村ならではの、筆の運びであると感じて読んだ。

また、ところどころに書かれる料理も珍しい。人が来たときのもてなし、何か行事があったときの宴会の献立、これらが、簡潔な描写ながら、記されている。このような箇所を読むと、信州の山奥の宿場に住む人びとの生活が、しみじみと感じられる。

ともあれ、明治という時代を語るとき、明治維新150年ということで、歴史として語る視点に、我々はいる。だが、それも、今から数十年前、昭和のはじめごろの人びとにとっては、同時代の体験のうちにあるものであった、このことを再認識させてくれる作品である。『夜明け前』は、日本における自然主義文学の最高傑作の一つとして読まれてもいいが、その一方で、明治維新を記憶のうちにもっていた人びとのことに思いをおよぼしてみることの必要を感じる作品でもある。

『それまでの明日』原尞2018-03-10

2018-03-10 當山日出夫(とうやまひでお)

それまでの明日

原尞.『それまでの明日』.早川書房.2018
http://www.hayakawa-online.co.jp/shopdetail/000000013841/

期待して読んだのだが……評価としては微妙。読んで思うところは、次の二点になる。

第一に、ハードボイルドとしては、傑作といってよい。探偵・沢崎のもとにおとずれる、ある紳士。その依頼によって、沢崎は行動することになる。そして、まきこまれる、事件。さらに謎を追って、沢崎は行動する。

その沢崎の行動が、主人公(探偵・沢崎)の視点から詳細に語られる。

時代設定としては、21世紀になってからのことになる。だが、この沢崎だけは、前世紀から時間がとまったままのようである。携帯電話も持っていない、ということになっている。(このあたり、『愚か者死すべし』では、携帯電話が重要な役割を担っている描写があったので、どうかなと思う気がしないでもない。)

ともあれ、沢崎を主人公とした、かっこいい男の物語としては、十分に成功している。

第二に、その一方で、ミステリとしての「謎解き」の要素が希薄である。「犯人」は最後まで、ベールの向こうにいるように書かれている。これを「本格」を期待して読むと、ちょっと残念な気がする。

『そして夜は甦る』『私が殺した少女』などでは、「謎解き」の要素を濃く持っていた。それが、ハードボイルドの文体のなかで、緻密に語られていた。だが、この『それまでの明日』は、そのような「本格」ではない。

以上の二点であろうか。総合的には、多少の不満は残るものの、沢崎の再登場作品ということで、私としては、評価しておきたい。

この作品、これまでの原尞の作品を読んでいる人間には、十分に楽しめるような登場人物の配置になっている。ちょっと気になったのは、愛車・ブルーバードが登場しなくなってしまったこと(その理由については、作中で説明がある)。そして、相変わらずの煙草。この小説ほど、現代において、煙草を吸うシーンの多い小説はないのではなかろうか。

また、この小説ではじめて原尞を読んだとい人には、さかのぼって、初期の『そして夜は甦る』からのいくつかを読んでもらいたいと思う。我が国におけるハードボイルドの傑作であり、また「本格」として読んでも、十分に評価できる作品である。

この作品、現代を舞台にしているが、「今」ではない。出てくるのは、携帯電話。スマホではない。そのあたりちょっと気になって読んでいったのだが、その理由は、最後になってわかる。

ことしのミステリのベストに入っていい作品だと思う。