『虎に翼』「女房に惚れてお家繁盛?」2024-09-01

2024年8月31日 當山日出夫

『虎に翼』「女房に惚れてお家繁盛?」

この週もいろいろと疑問に感じることだらけである。まあ、別にドラマなのだから、設定に疑問があってもかまわないが、見終わった後に、ああ人間とはこういうものなのだなあ、と感じるところがあればいい。しかし、このドラマには、それを感じるところが全くない。ただひたすらつまらない。女性の人権とか、性的マイノリティのこととか、さらには、原爆裁判のこととか、きわめて重要なことを描いているのに、こんなつまらないドラマを作ってどうするつもりなのだろうと思う。

気になったことを思いつくままに書いてみる。

弟の直明の教え子の中学生が裁判所に見学にやってきた。裁判所は、中学生が社会見学に気軽に行けるようなところだったのか、という気もするが、それはいいとする。

気になったのは、登場していた中学生たちについて、戦争のことを知らない、まわりの大人も戦争について話さない、ものごころついたころには日本国憲法があった、と説明していたことである。

時代は、昭和三一年だったと思うが、戦後、一〇年ほどのころである。この当時の中学生なら、戦中の生まれであり、ものごころついたころは、まさに戦後の焼け野原が残っていた時期になる。確かに、大人たちが戦争について語りたがらなかったというが、一部には、その記憶を封印したい人たちもいたとは思う(例えば星航一が自分の過去を語らなかったように)。しかし、世の中の趨勢として、戦争の記憶が生活の随所になまなましく残っていた時代のはずである。時代の風潮としては、あの戦争は間違いだった、国民はだまされていた、という東京裁判史観(といっていいだろうか)の時代であったと、私は思っている。

戦争の時代の記憶があった時代に育った若者たちが、その後の六〇年安保闘争をになったことになる。これは、まさに、戦争というものがリアルであった時代の感覚である。

この時代の中学生を、戦争を知らない、と設定するのは、どう考えても無理がある。つまり、戦後の時代のあり方についての、決定的な認識不足であるとしかいいようがない。

ちなみに、「戦争を知らない子供たち」という歌をジローズが歌ったのは、かなり後の一九七二年(昭和四七年)のことになる。

その中学生が、女は働かなくていいのにどうして働こうとするのか、と言っていたのは、どうだろうか。働かなくていい女としては、いわゆる専業主婦のことを指して言ったものだろう。だが、専業主婦が、三食昼寝付きなどと言われるようになったのは、もっと後の時代のことである。高度経済成長を経て、都市部のサラリーマン家庭が、標準的な家庭のあり方として、意識されるようになってからのことである。その時代であっても、農業とか都市部の個人商店とか、男女が共同で働く場面は多くあった。まして、ドラマの昭和三一年のころは、それより以前である。

また、主婦の家事労働が楽になったというのは、電気洗濯機や電気冷蔵庫などの普及の後のことである。ドラマのなかでは、登戸の猪爪の家に電気洗濯機があったが、これは、きわめて希な初期の事例ということになる。そして、電気洗濯機が買えるほど、寅子の収入が潤沢であったということにもなる。この経済的優位については、ドラマでは触れることがない。だが、社会のなかでどのような階層で生活していたのかということは、登場人物の社会的な意識に大きな影響を与えることなので、ないがしろにしていいことではない。

小橋が少年に語ったことは、内容としては首肯できることなのだが、なぜ小橋がそのような発言をその場でするようになったのか、ドラマのなかでの必然性がまったく描かれていない。たまたま、寅子と同じ裁判所にいて、視聴者にも馴染みのある男性だから、ということで使われたとしか思えない。小橋という人物の造形が手抜きなのである。

このドラマでは、都市部のホワイトカラーの仕事しか、仕事として認めていないのではないかとも思われる。新潟の三條の裁判所の事務をしていた小野は、働く女性としては描かれていなかった。ライトハウスの仕事も、働く女性として描かれていたとは感じられない。バスの車掌はその当時は女性の仕事だったはずで、女性が社会に出て働く重要な意味があったはずだが、そうとは認識されていなかった。東京地裁の判事補(これはれっきとしたエリート専門職である)の秋山になって始めて寅子以外の働く女性が登場したことになる。これはこれで、職業差別の意識があるとしかいいようがない。正しさを主張することの裏側にひそむ差別意識というものを、はからずもあぶり出すことになっている。

ホワイトカラー、専門職における女性の進出は、たしかに苦労はあったことはたしかである。が、その苦労とは、まず、機会を得ること、そして、男性と同等の仕事が出来ることを証明してみせることだったはずである。しかし、このドラマでは、その肝心の仕事の場面がほとんど出てこない。

穂高先生が久しぶりに出てきていた。たぶん、作者、演出の意図としては、かつて寅子は、こんなひどいめにあったということを印象づけたいねらいがあったのかとも思うが、はたしてどうだろうか。

私の記憶している範囲で整理してみる。

寅子は、弁護士の仕事をしているときに、優三との間に子どもができた。

その妊娠が分かったとき、穂高先生は、その身をいたわるように言った。妊娠している女性に対して、身の保護と無事な出産を願うのは、今も昔も、そして、おそらく世界のどこでも、共通していることだと、私は思う。私の記憶では、もう法曹の道はあきらめて、母親として子育てしなさい、とは言っていなかった。

勤めていた法律事務所の雲野弁護士も、出産後の復職を認めていた。

さらに、寅子の猪爪の家……そこに寅子と優三は住んでいた……には、母のはるも、花江もいて、育児の手助けをしてくれる要員に困ることはなかった。父親の直言も、決して、結婚して子どもができたら働いてはいけないなどと言う人間ではなかった。

記憶で書いているのだが、大筋このようだったはずである。

なのに、一方的に穂高先生に逆らったのは、寅子である。

まあ、ドラマの作り方としては、かつての恩師を敵にしてボス戦を戦って倒して、次のステージにということになるのだろうが、そう設定するには、あまりにも穂高先生を善良で良識的に描きすぎたということになる。はっきりいってドラマの人物設定のミスである。エンターテイメントの常道の設定のはずだったのが、下手だったということである。

その寅子が、裁判官になって後輩の裁判官の秋山にいろいろと言っていたのだが、かつての寅子のことを思ってみると、どれも説得力に乏しい。

当時の裁判官が女性で妊娠した場合、産前産後の休暇は認められていた、とナレーションの説明はあった。寅子は、女性の裁判官のために桂場に働きかけることになるが、その結果がどうであったか、まったく出てきていなかった。具体的に、制度がどのように改善されたのだろうか。この時代、寅子と秋山の時代には、まだ間に合わなかったが、その後の制度の改善があったならば、それはきちんと言っておくべきことである。でなければ、寅子の努力の意味がわからない。

秋山は、姑と同居していたはずである。少なくとも日常的に顔を合わせる関係にはあった。でなければ、早く男の子の孫を産めという、姑の台詞には意味がない。常識的に考えれば、出産して仕事に復帰するとして、まず頼るのは姑ということになるはずである。大嫌いといっていた姑には、子どもの面倒を頼みたくないというのならば、それはそれで筋が通ったことかもしれない。だが、それよりも、働く女性としての自分の仕事のためには、大嫌いな姑に頼らざるをえないということの葛藤の方が、より現実的であったようにも思われる。だが、このあたりが曖昧なままであった。

仕事をしている女性が妊娠して、しばらく仕事を休んで、また仕事にもどる。育児の手助けをしてくれる人はいる。これは、別にかつての寅子の場合と、まったくかわらない。たしかに、仕事の上でのキャリア形成にはいくぶんの差が出ることにはなる。しかし、これも、寅子のときも同様であったはずである。

寅子のときと、秋山のときと、そんなに大きく状況が変わったということではないとしか思えない。ここで、寅子は、道をきりひらいたあとは舗装する、と言っていたが、はたして何をしたことになるのだろうか。それは何よりも裁判官としての優秀さであるべきだが、これまでのところその優秀な仕事ぶりは描かれてきていない。

秋山は、男性より三倍、五倍、頑張ったと言っていた。だが、それは科白で言われただけだった。ドラマとして描くべきはその頑張りの姿である。それが何もなかった。せめて、使い込まれボロボロになった「六法」でも小道具として映っていればよかったかもしれないのだが、そのような配慮のある演出はなかった。

寅子は、秋山のために何かするというのであれば、まず、それができる地位にいることが必要である。居場所を作る、と言っていたが、この時の寅子は東京地裁の判事である。なにか具体的なことができる権限があったのだろうか。それがないのにことばだけでそう言ったとするならば、無責任ということになる。

同期の法曹関係などの署名嘆願ということはあった。だが、それも、具体的に制度が変わってこそ意味がある。ここは、寅子がおこなった請願が、その後にどう活かされたかを、語っておくべきところだったと思うのだが、それはなかった。

ここで思い出すのが、以前、竹もとで後輩の司法修習生(だったと思うが)の女性たちと会ったときのことである。このとき、寅子は、後輩たちのために何ができるか、ということを考えていた形跡はなかった。むしろ、後輩の女性たちから、寅子みたいにはなりたくないと、嫌われる存在としての寅子を印象づけた場面だった。

この間に、寅子がどう成長したのか、女性の法曹への道の重要性を考えるようになったのは何故なのか、そのプロセスが、このドラマでは具体的にまったく見えていない。

星の家の様子は不可解である。その当時、戦争でつれあいを亡くした男女どうしの再婚ということは、あり得たことだろう。その家族の関係を、どう描くのかというところも、ドラマとしては見どころの一つになるはずだと思うのだが、はっきりいって、まったく感心しない。

前にも書いたことだが、この時代であれば、戦前までの家にかわって、夫婦と子どもを単位とした家庭が、社会の基本になるべきだという考え方が、ひろまりつつあったころである。家庭裁判所の裁判官だった寅子なら、このことは、より強く意識することだったと思っていいだろう。だが、この当時の家族観として、説得力あるものになっているとは言いがたい。そもそも、愛情で結ばれた夫婦ということを、寅子と航一は否定している。永遠の愛を誓わない。

以前、姑と同居したいお嫁さんなんているはずがないと花江が言っていたのを、家族裁判で強引にねじ伏せたのは、寅子であった。では、寅子自身は、自分の航一との結婚(内縁の関係)については、どう思っていたのだろうか。また、姑と嫁の同居について、そうあるべきと思っていたなら、裁判所での秋山の言っていたこと(姑が大嫌い)を、どう思って聞いていたのだろうか。このあたり、寅子という人物が場当たり的にキャラクターを使い分けごまかしているようにしか思えない。これは、たまたま百合さんがいい人だったから、子供たちも理解してくれたから、ですむことではないと思う。花江の気持ちは理解する気がないが、秋山の気持ちは聞く、というのも、どこかおかしい。

このドラマは、裁判官、それも家庭裁判所にふかくかかわった裁判官が主人公である。無論、仕事としての家庭裁判所の仕事と、個人としての自分の家庭内のことは別であり、むしろ、そこのギャップを巧みに描いてこそのドラマだと思っている(いや、思っていた)のだけれど、星の一家のことを見ると、どうもそういうことを、このドラマは描くつもりはなさそうである。結局、寅子はみんなに愛される人物で、寅子を中心にして、どんなトラブルも円満におさまる、ということらしい。

娘ののどかが、この人たちは嫌い、ということを言っていたが、私の感覚としては、この台詞がもっともリアルで説得力があった。

のどかが補導されたときの反応が、いまひとつ腑に落ちない。寅子はただ、よかった、と言っていたのだが、これは、家庭裁判所の仕事をしたことのある裁判官の経験の裏打ちのある台詞として、重みに欠ける。あるいは、裁判官といえども、家庭では普通の親であるということかもしれないが、それならそれで、裁判官としての法律にもとづく思考と、家庭内での親としての感情との、時として矛盾し錯綜する気持ちを、これまでにも描いておくべきことだったと思える。

秋山の子どもについて、百合が、ベビーシッターをやってみたい、と言っていたのは、噴飯物である。百合は、子どもができなかったと言ったばかりである。つまり、赤ちゃんの育児の経験がないといっていいだろう。そんな女性が、ベビーシッターをやりたいと言い出すのは、どう考えても無理がある。ここは、せめて、百合に兄弟でもいて、その甥や姪の赤ちゃんのときに面倒を見た、ぐらいの台詞がないと無理である。しかし、その前に、最高裁判所長官の妻だった女性が、ベビーシッターのアルバイトという設定を思いつくこと自体が、信じがたい。このドラマは、あまりにも社会階層ということに無自覚すぎる。

優未がマージャンで勝負をいどんできたとき、のどかに、勝ったら自分の気持ちを話してほしい、という意味のことを言っていた。このあたりが、このドラマの脚本の無理を感じるところでもある。人間は、自分の思っていることを、そんなに簡単にことばにできるものではない。たやすく明瞭にことばにできないことを、あるいは、本来の気持ちとは違うことばを発してしまうこともある人間というものを、どう描くか、というのがドラマというもののはずである。はっきりいって人間観が軽薄なのである。

ドラマのなかではかなり以前のことになるが、民法改正のときのことである。そのとき、神保教授は、このようなことを言っていた。理想を追求することも重要だが、今目の前で苦しんでいる人を救うことも考えなければならない。しかし、このとき、寅子は、この発言を旧弊なものとして無視していた。その寅子が、別の場面になると、自分に困ったことがあれば、それを最優先にしなければならないと、怒り狂う人物になっている。これを自ら自覚しているのかどうか。あるいは、そんなことには無頓着である人物設定なのか。このあたりのことも、寅子というキャラクターに違和感を感じる一因である。

その他、いろいろと書きたいことはあるが、これぐらいにしておく。

2024年8月31日記

『光る君へ』「式部誕生」2024-09-02

2024年9月2日 當山日出夫

『光る君へ』「式部誕生」

この回は面白かった。

実際に十二単(女房装束)を着た女性たちが、どのように立ち居振る舞いが出来るのか、想像をめぐらすことになる。実際には、テレビに映っていたように、きびきびと立ったり座ったりして仕事ができたとは、私は思えないのであるが、しかし、まあ、あんなふうだったのかなあ、といろいろ考えながら見ていた。

まひろが藤式部という名をもらって女房になる。彰子に仕えることになる。これからは、女房の視点からのドラマということになるかと思う。平安朝の仮名文学について、女房文学というような言い方をする(今ではもうしないかな)。女房の仕事がどんなものであったのか、その宮中、後宮での暮らしはどんなふうであったのか、考えてみることになる。これまでだと、『源氏物語』などを読むか、「源氏物語絵巻」などの絵画資料から、想像するだけだった。

女房として局を与えられるのだが、まあ、要するにおっきな部屋を几帳などで仕切って、かろうじて個人スペースを確保したぐらいである。調度は豪華であるが、(こう言っては悪いかもしれないが)災害時の避難所のようなものと言ったらいいだろうか。ここでは、物語の執筆がはかどらないというのは、そうかなと思う。

でも、あんな装束を身につけて歩いていたら、裳とか袴の裾を足でふんづけてころんでしまったりとかあったに違いないと思うのだが、どうだったろうかと考えてみる。

十二単(女房装束)は一人では着られない。少なくとも二人の補助が必要である。たぶん、女房以外に、その身の回りの世話とか雑用をする下女のような女性たちが多くいたはずである。それから、「ひすましわらわ」も。

この時代が、古代から中世となるころ、ということになる。古代の荘園が崩壊して、武士の誕生ということになる。だからこそ、『源氏物語』では、その時代より一昔前の時代設定になっている、と理解できようか。この物語の時代設定のことは、日本文学としては常識的なことがらなのだが、それを政治、経済の動きから描くと、武士の登場する前の時代ということになるのだろう。

武士の時代となり、興福寺も武装して寺社権門として、王権と対立する。このあたりのことは、古代から中世にかけての王権論、権門論、などをふまえた歴史学の議論ということだと、理解している。

ところで、まひろ(藤式部)が着想した、その続きの物語とは、今の『源氏物語』のどの巻になるのだろうか。どうやら、「帚木」ではなく、「若紫」であったらしい。また、最初に書いたのが「桐壺」であったとして、それにまひろはどの程度、加筆推敲したのであろうか。想像をめぐらすと、これはこれで楽しい。「帚木」の巻は、どう考えてみても、ドラマに登場する彰子の読む内容の物語とは思えない。

まひろは男女の仲のことは、想像で書けるということを言っていた。現代の向田邦子は、独身であったが、家族とか夫婦のことは猫を見ていれば分かるという意味のことを言っていた。

最後の紀行に登場していたのは、近年になって発見された「若紫」(青表紙本)であった。ただ、厳密には、これが、『源氏物語』の最古の写本というわけではない。五四帖が残っている諸本のなかでは、最も古いものの一つ、というぐらいのところである。

どうでもいいことだが、定家は、「ていか」と読みたい。このドラマに合わせて「さだいえ」と言っていたが、これには、どうしても違和感を感じてしまう。(実際にどう読まれていたかは分からないのではあるが。)

2024年9月1日記

「金沢 大きな図書館で」2024-09-03

2024年9月3日 當山日出夫

ドキュメント72時間 金沢 大きな図書館で

まず驚いたのは、図書館でこんな番組が作れるということである。なぜなら、私の知識の範囲であるが、図書館においては、その利用者の秘密は絶対厳守が基本中の基本だからである。誰がどんな本を読んだか、借りたか、秘密である。部外者に知らせてはならない。これまで図書館がテレビで映ることがあっても、そこで人間が映ることは無かった。図書館の内部は、写真撮影禁止が普通である。(蔵書の複写(コピー)ということでの撮影なら大丈夫かもしれないが。)

いったいこの番組の制作にあたって、どのようなNHKと図書館との交渉があったのだろうか。図書館は、どういう理由で許可したのだろうか。このあたりのことについて、番組では何も言っていなかったが、どうしても気になるところである。

図書館のなかで、誰がどんな本を読んでいるか、という場面がテレビの映像として放送されたのは、画期的なことだと思っているが、図書館関係者はどう感じているだろうか。

ともあれ、このごろ公共図書館の役割が、近年になって大きく変わってきたことは確かである。新しい図書館のあり方を示す内容になっていたと感じる。

個人的に私がもっとも思い入れのある図書館は、なんといっても、大学生のときに使った、慶應義塾大学の三田の図書館である。重要文化財であるが、私の学生のときには、普通に図書館として使っていた。閲覧室など、昔のままであったはずである。その意味では、古い設備で使いにくくはあったが、しかし、独特の雰囲気は、あの図書館ならではのものであった。これも、今となっては若いときの思い出である。

2024年8月31日記

「マルレ〜“特攻艇”隊員たちの戦争〜」2024-09-03

2024年9月3日 當山日出夫

BS1スペシャル 「マルレ〜“特攻艇”隊員たちの戦争〜」

再放送である。二〇二一年八月。この最初の放送のときは見ていなかった。

はっきりいって、戦術として無謀である、としかいいようがない。このことが、亡くなった隊員たちの無念として痛感するところである。

特攻としては、海軍の航空機によるものが知られている。一般的な知識としては、大西瀧治郎がいいだしたことであり、統率の外道、という認識はあった。だが、マルレについては、ただその時代の「空気」のなかで生まれて、そして、さしたる戦果をあげることなく、多くの犠牲者を出すのみで終わった。

誰が発案したのか、それを使った具体的作戦は、どのように決められたのか、せめてこの関係の資料が残っていればと思うのだが、詳しいことはわからないらしい。

海上で戦うことが出来なくなった隊員たちは、地上戦を戦うことになる。そこで待ち受けていたのは、敵の銃弾もあるが、飢餓であった。『野火』に描かれた状況まで追い詰められたことになる。太平洋戦争において、日本軍の死者のほとんどは、戦病死、飢餓によるものであったと言われている。

冷酷な見方かもしれないが、マルレは特攻兵器としては、無理があったというべきだろう。爆雷ひとつで、どれほどの損害を与えられるのか。残酷な言い方になるのだが、製造コストが安くてすむという他には、何のメリットがあったのだろうか。(無論、隊員の生命は無視してのことになるのだが。)

番組の冒頭で映っていた隊員の戦死の記録の部分。「特進」とあった。せめてものすくいというべきであろうか。

2024年9月2日記

「“新約聖書 福音書” (4)弱き者たちとともに」2024-09-04

2024年9月4日 當山日出夫

100分de名著 “新約聖書 福音書” (4)弱き者たちとともに

この番組のように聖書を読むこともできる……これが、現代という時代なのだなと感じるところがある。以前、Eテレの「こころの時代」で『歎異鈔』について、安満利麿が語っていたのを見ていた。そのときのことは、このブログにも書いた。その時にも感じたことなのだが、親鸞のことばを読み解きながら、浄土真宗の信仰の共同体ということには、基本的に触れていなかった。この「100分de名著」で福音書を読むときでも、若松英輔は、そこにイエスのことばを読みとろうとしているのだが、キリスト教の信仰の共同体、ということには一切触れていなかった。完全に、現代を生きる個人としての私が、親鸞を、あるいは、イエスをどう読むのか、という視点にたっている。

今の時代、宗教についてはいろいろといわれるのだが、その一つのあり方として、信仰の共同体の否定、信仰とは個人のこころのなかで生まれるものである、ということがある。具体的には、教団とか宗教儀礼の否定ということになる。

このことの是非をめぐってはいろいろと議論のあるところだと思う。だが、親鸞を読むにせよ、福音書を読むにせよ、共通して個人の問題として信仰を考えている。阿弥陀仏も神も、その存在を否定することは無論ないのであるが、その意味は、あくまでも私という個人とのかかわりにおいてである、ということになる。

信仰の共同体とか、歴史とか、このようなものを極力排除している。現代におけるこのような信仰のあり方を示している、という意味で、興味深いことだなと思っている。

だからといって、世界中における宗教が個人単位のものになっていく、また、そうすれば宗教対立などは解消するか、ということではない。だが、現代における人間というものを考える視点が、非常に個人にもとづくものになってきている、ということはいっていいかもしれない。

2024年9月2日記

「祈りの塔 1300年の時をつなぐ〜国宝薬師寺東塔 全解体修理」2024-09-04

2024年9月4日 當山日出夫

新プロジェクトX 祈りの塔 1300年の時をつなぐ〜国宝薬師寺東塔 全解体修理

薬師寺の東塔の解体修理のことは、奈良のローカルニュースで、たびたび触れることがあったので、馴染みのあることの一つである。

ただ、番組の作り方としては、ちょっと焦点が散漫になったかなという印象がある。この番組の作り方として、ヒューマンドラマにしたいのであろうが、無理にそのような要素を持ち込まなくても、宮大工という職人の仕事を描けば、それでよかったのではないだろうか。ただ、宮大工というと、どうしても西岡常一の存在が大きいので、どこまで言及するか難しいかもしれない。あるいは、もう若い人は、西岡常一のことは知らないだろうから、あっさりと触れるだけでいいのか、または、もっと深く描くべきだったのか、どうも中途半端な印象が残ってしまう。

文化財の視点からは、解体修理してみて、どのような木材と技法で作られたのか、分かった部分も多かっただろうと思うのだが、これについては、まったく触れることがなかった。年輪年代学の研究として、使われた木材の年代測定など、調査しているはずだと思うのだが、どうなのだろうか。

番組では一言も出てこなかったが、やはり、高田好胤という人は、傑出した人であったと思う。

2024年9月1日記

100分de名著『源氏物語』2024-09-05

2024年9月5日 當山日出夫

100分de名著 『源氏物語』

今年の春ごろに放送だったのを録画して、おいてあった。『光る君へ』では、『源氏物語』を書き始めたところだし、「100分de名著」では、ウェーリー版の『源氏物語』になるし、というようなことで、録画を見ておくことにした。

二〇一二年の放送である。今から一二年前ということになる。おそらく、現代の視点で『源氏物語』を一般に語るとすれば、おおむね妥当な内容だったかなと思う。桐壺の更衣のこと、光源氏の出生のときのことからはじまって、葵上や六条の御息所、明石の君、そして、紫上という女性たちのこと、女三宮のこと、さらに宇治十帖になって、薫や匂宮のこと、大君や浮舟のこと……などなど、ざっと『源氏物語』の全体をたどってあった。

『源氏物語』の成立については、夫の宣孝の死後、物語を書き始めてそれが話題になり、やがて道長の目にとまって彰子のもとに女房として出仕することになった、ということであった。これは、『光る君へ』の設定とは違っている。このあたりのこおとは、よく分からないことなので、想像するしかないことだと思うが。

林望が出てきていた。慶應の国文で、私より数年の先輩になる。(個人的には、もし林望が書誌学者として仕事をしていれば、日本の古典文学研究が少しは変わったものになったかもしれないと思うところがある。)番組のなかで、落葉宮のことについて言っていたが、たしかにそうである。ああでもない、こうでもない、やっぱりああしようか、それともこうするべきなのだろうか……延々と、こころのなかの描写がある。『源氏物語』は、登場人物のこころのなかを細かに描いているが、特に「若菜」が終わってからの巻になると、ある意味ではこれが非常にくどくなる。このあたりは、作者(紫式部)が、登場人物のこころのなかのことを描くことの面白さに気づいた、と理解するべきなのかもしれない。そして、この意味では、物語の最後のヒロインである浮舟の生き方、決意、というところにつながっていくのだろう。

人間のこころのなかを描くことに成功した文学であるからこそ、『源氏物語』は今にいたるまで古典として読み継がれてきている、と考えるべきだろう。これを「もののあはれ」と表現したのは、宣長ということになる。

2024年9月3日記

「ゲッベルス 狂気と熱狂の扇動者」2024-09-05

2024年9月5日 當山日出夫

映像の世紀バタフライエフェクト ゲッベルス 狂気と熱狂の扇動者

現代社会では(少なくとも日本では)「プロパガンダ」ということばは悪いイメージのことばになっている。おそらく、この悪いイメージからなるべく離れて距離を置いて、歴史や社会、その中に生きる人間というものを考えてみる必要がある。そして、そのうえで、プロパガンダの手法についての冷静な分析が重要だろう。人間とメディアの関係を、歴史としてふりかえる必要がある。

番組の冒頭で言っていたこと、プロパガンダはそれをプロパガンダと気づかせないようにしなければならない……これは至言であると思う。この意味では、これは左翼の(あるいは右翼でもいいが)のプロパガンダだと、言い合っているうちは、まだしも平穏無事ということになるかもしれない。

ヒトラーの手法については、メディア史の方面から膨大な研究があるはずで、その一部は、今では手軽に読めるものとして本になっているかと思う。

ゲッベルスの事跡を研究すること、プロパガンダの歴史を明らかにすることは、視点をかえると、それにだまされた無辜のドイツ市民という構図になる。やはり、ここでは、だまされたとしても、だまされた側に責任はないのか、という論点を設定して考えてみることは意味があると、私は考える。ただプロパガンダがたくみであった、市民はバカであった、という図式で歴史を描くことは、無理がある。

ドイツの場合は、ナチの思想が明確であり(その是非は別にして)、それを普及するためのプロパガンダについても、ゲッベルスは自覚的であったというべきだろう。それを、同じように日本にもあてはめて考えることができるかどうかは、また異なるかと思う。

同じことは、昭和戦前の日本についてもいえることである……と一般に言われる。軍部が悪い、政治家が悪い、ジャーナリズムも悪い、日本国民はだまされていたのである、という歴史観……これが今にいたるまで昭和史を語る常道になっているが……これは、司馬遼太郎の語ったことにも通じることである……統帥権という魔物ということになる……から、距離を置いて考えることも必要であると私は思うのである。ドイツのように明確な思想と、プロパガンダについての自覚が、政府や軍部にあったかどうかは、議論の余地があるだろう。そうはいっても、確かに昭和戦前の時期は、かなり言論が制限された時代であった。日本の言論、表現、思想の歴史については、日本なりの事情があったことになる。

ゲッベルスがやったように日本国民はだまされていた、ということではなく、日本における言論の歴史は、別に考えなければならないことだと思う。それを「空気」といっていいかどうかは分からないが、一つの見方であるとは思う。少なくとも、日本の場合、プロパガンダが悪いといって説明できることではなかっただろうと思っている。

2024年9月4日記

「我は女の味方ならず 〜情熱の歌人・与謝野晶子の“男女平等”〜」2024-09-06

2024年9月6日 當山日出夫

英雄たちの選択 我は女の味方ならず 〜情熱の歌人・与謝野晶子の“男女平等”〜

朝ドラの『虎に翼』を見ていて、最初のころから思っていることなのだが、どうしてこのドラマは、思想の歴史を描かないのだろうか、ということがある。確かに、女性の権利、男女平等ということは、理想としては誰もが認めることになってきているけれども、そうなってきたのには、以前からの歴史的経緯があってのことであるはずである。それを無視して、現在の社会で理想とすることを語っても、あまり説得力がない、と思わざるをえない。

この回では、与謝野晶子と平塚らいてうの大正時代の論争、母性保護論争に焦点をあてたものだった。この論争、ざっくりいえば与謝野晶子は女性の経済的自立と権利を主張し、平塚らいてうは、社会的な女性の解放をいいつつ同時に女性は母となる権利をもちそれは社会的に保護されるべきものであると言った……番組を見たところでまとめると、こんなふうになるだろうか。

これは、今にいたるまで続く問題である。男女の賃金格差とか、社会的なあり方の不平等とか問題である。しかし、その一方で、母親になることのできる女性への支援もまた必要とされている。これは、現代では、特に少子化対策という意味で考えられることが多いのだが。

私の思うところとしてはであるが……このような論争が大正時代にあり、その後、日中戦争、太平洋戦争となり、やむをえずということになるのだが、労働力としての女性ということが必要になる。同時に、子供を産むことが奨励されることにもなった。そして、終戦をへて、新しい憲法のもとで、男女の平等ということが法的に定められることになる。しかし、実際に男女の平等については、戦後の高度経済成長やその後の日本の産業社会構造の変化、社会の意識の変化、様々なことがあって、ようやく今日がある。その間、性の解放という主張もなされた。今では、理念としては男女平等といわれつつも、同時に、少子化対策として女性が子供を産むことが期待される時代になってきている。

この番組のなかで言っていなかったことがある。男女の平等というとき、何かについて平等というとき常にそうなのであるが、機会の平等と結果の平等とをどう考えるかということがある。どういう状態であれば、平等であるといえるのか、その具体的なことがらになると、どういう問題について論ずるかにもよるが、かなり複雑な議論があるにちがいない。人によって平等ということばで具体的にイメージするものが違っていては、議論はすれちがうばかりである。(あまりに形式的な平等主義と極端なアファーマティブアクションは、かえって混乱をまねくだけだろうとは思う。)

それから、磯田道史は、慶應義塾大学においては、速水融の門下生である。つまり、歴史人口学については、専門家である(はずだと思っているのだが)。歴史人口学の観点から見ると、女性の地位向上の歴史はどのように見えるのか、これは非常に興味深いところだと思うのだが、まったく触れるところがなかった。

ともあれ、与謝野晶子が文化学院を作ったことで、番組をしめくくっていたのは、いいまとめかただったと思う。このような問題を解決していくのには、何よりも教育であるということになる。

最初にも書いたが、思想には歴史がある。そして、今も我々は歴史のなかにいる。この感覚が、なによりも大切なのであると、私は思っている。

2024年8月29日記

「光る君へコラボスペシャル2 源氏物語」2024-09-06

2024年9月6日 當山日出夫

歴史探偵 光る君へコラボスペシャル2 源氏物語

この回は、及第点(というのもおこがましいかもしれないが)である。いろいろと興味深いところがあった。

『源氏物語』を書くのにどれほどの紙が必要だったか……まあ、だいたいあんなものなのかな、とは思う。ただ、思うこととしては、下書きから清書、天皇のための献上本の制作となると、もっと多くの紙が必要になったはずである。また、『源氏物語』が、ただ彰子のサロンだけで読まれただけでなく、貴族である人たちの間にひろまっていったとするならば、その写本の紙は、どうやって調達したのかということも気になる。同じ平安時代に成立の『宇津保物語』『栄華物語』なども、『源氏物語』にはおよばないものの、かなりの分量になる。これらの作品の紙はどうしたのだろうか。この時代から少し後のことになるが、『更級日記』の作者(菅原孝標女)は、京の都に上って、夢見ていた『源氏物語』を耽読している。このときには、五四帖そろった本があったとおぼしいのだが、このように流通、流布していた本もまた大量の紙を必要としたはずである。時代は下るが、『今昔物語集』はどんな紙に書かれたのだろうか。さらには、現在普通に使うことになる青表紙本が成立したころ……定家のころ……には、紙の製造と流通はどんなだったのだろうか。

ちなみに、『源氏物語』は、岩波書店の日本古典文学大系(旧版)で五冊。『宇津保物語』は三冊。『栄華物語』は二冊。『今昔物語集集』は五冊、である。

『源氏物語』の成立論については、番組のなかで語っていたあたりのところが、普通に考えることなのだろう。紫上系と玉鬘系を分けるのは妥当なことだと思う。だが、「宇治十帖」別作者説は、通説とはいいがたい。では、紫式部は、どのようにして、『源氏物語』の全体をを構想して執筆していったかとなると、それはかなり謎につつまれた部分が多いと思う。

平仮名の成立については、今の学会の通説の妥当なところかなと思う。概ね平安時代の初期(九世紀ごろ)には、平仮名の書記のシステムができあがっていただろう。それが、公式の文字になる契機として、『古今和歌集』(九〇五)というのが、普通に考えるところである。ただ、この流れのなかで、番組ではたぶん意図的に言及しなかったと思われるのが、草仮名である。草仮名を、万葉仮名(このことばも番組のなかでは使っていなかった)から平仮名が生まれるまでの過渡的なものと見るかどうか、ここのあたりの議論は、微妙な問題があるだろうか。

平仮名文であるから『源氏物語』が書けた、というのは確かにそのとおりであるが、しかし、『源氏物語』の文章は、平安時代のおなじころの仮名文学と並べてみて、やはり群をぬいている。その人間の心理描写の細かさ、情景描写、歌との融合、などどれについても、その達成度は尋常のレベルではない。ここは、創造の神様が紫式部に降りてきた、としかいいようのないところあると感じる。紫式部が極めて論理的な思考のできる人であったことは、『源氏物語』の文章から感じとることができる。『源氏物語』の文章は論理で読める。しかし、『枕草子』の文章は論理で読むという性質のものではない。(これは、学生のころから思っていることであるが。)

平安時代の中期から後期ぐらいの時期には、まだ漢字仮名交じり文は成立していない。時代が下って『今昔物語集』のころになって、漢字と片仮名の散文が書けるようになる。これも、宣命書きという様式にはなる。漢字と平仮名交じりの文章が普通になるのは、さらに時代が下って鎌倉時代以降のことになる。『光る君へ』では、このあたりの時代考証が、たぶん分かってのことと思うが、ごまかしてある。

『源氏物語』がどのような形態、装丁の本として読まれたかは定かではないと思うが、番組に登場していた佐々木孝浩君(慶應の国文で私より数年の後輩になる)が、今の日本では一番の専門家だから、たぶんそうなのだろうと思う。

唐の紙の製造過程は、これは面白かった。なるほどと思って見ていた。

その当時の再現シーンで、女性が立て膝で座っていた。私は、これが正解だと思っている。(『光る君へ』では現在のように正座させている。大河ドラマでは『麒麟がくる』で女性を立て膝で座る演出にしたのだが、評判が悪かったようだ。)

どうでもいいこととしては、川添房江さんの背景に映っていた本棚にあった大漢和は古い方だった。『大漢和辞典』は、新しい方が漢字の検索が便利である。古いのだと、どの巻がどの部首であるかから見ないといけない。私の学生のころは、これを諳んじているぐらいでないと大漢和は使えなかったのであるが。『西本願寺本万葉集』の複製は、私も持っているが、国文学、国語学を勉強する身としては、これは手元に持っておきたい本の一つである。倉本一宏さんは何回もテレビで見ているが、たぶん自宅の書斎なのだろうか、背景の本棚に古事類苑がおいてある。私が古事類苑を買ったのは大学院の学生のときだった。今も書庫にワンセットある。これも、今ではオンラインで読める本になっている。若いときは、年をとったら、古事類苑のページを漫然とめくってみたい、などと思っていた。

2024年8月29日記