桑原武夫の蔵書のゆくえ2017-04-29

2017-04-29 當山日出夫

最近、WEBで話題になっていること……故・桑原武夫の蔵書が、京都市に寄贈されたものの、それが、廃棄されてしまっていたとのことである。理由としては、図書館において利用実績が無いから、ということらしい。

この件については、NHKも報じている。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170427/k10010963631000.html

この点について、FBやTwitterなどでの反応は、主に次の二点になるだろうか。

第一には、京都市の対応を非難するもの。桑原武夫の蔵書をゆずりうけていながら、それをきちんと管理できないというのは、京都市の責任である。

第二には、それと反対に、いったん京都市に渡してしまったものなら、それをどうしようと市の側の自由である。利用されない本をもっておくだけの余裕は、京都市の図書館にはないので、これはいたしかたない。

まあ、ざっと以上のような二点に分けられるだろうか。

これ以外には、桑原武夫ほどのビッグネームであっても、その蔵書の維持はもう無理なのか、というような慨嘆の声もある。また、図書館にただ本を寄贈するだけではなく、その維持管理のコストのことも考えなければならないという意見もある。あるいは、学術資料として貴重なのは、一部の稀覯本をのぞけば、むしろ蔵書目録の方である、という見解もある。

ただ、この件に関して私の思ったことを記すと……「廃棄」というのは、どういうことなのだろうか、ということ。文字通り、廃棄処分、つまり、ゴミにしてしまったということなのだろうか。あるいは、図書館から除籍して、古書店にでも売ったということなのであろうか。私の持っている本でも、古書で買ったものの中には、もとは図書館の蔵書であったものがある。

私の感想としては、ゴミにしてはいけないと思う。少なくとも、古書店を介して、次の読者にわたっていくようにするのが、ある意味で、桑原武夫の蔵書のあり方としては、望ましいと考える。

どこかで読んだエピソード。確か、桑原武夫の話しだったと思う。ある時、登山について人と話をしていた。そのとき、図に書いて説明する必要があった。すると、手近にあった本……それは、海外から届いたばかりの貴重な本であった……の余白のページをやぶって、そこに図を書いて示した。いわく、本というのは、利用するためのものである。ただ、持っておくためのものではない。

この話し、何で読んだのかは忘れてしまったが、いまだに憶えている。

私の本には、古書店で買ったものが多い。本というものは、古書店を介して、リサイクルするところにも価値がある。古書として流通して、次のしかるべき読者のもとにわたってくれれば、幸いとすべきかもしれない。

桑原武夫の蔵書の一件は、書籍の再利用、古書としての流通という観点から、どのような利活用の方法があったのか、考えて見てもよかったのではないだろうか。

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