「ワイマール ヒトラーを生んだ自由の国」 ― 2024-07-05
2024年7月5日 當山日出夫
映像の世紀バタフライエフェクト ワイマール ヒトラーを生んだ自由の国
これまで「映像の世紀」では、ヒトラーのことは何度もとりあげてきているが、ワイマール共和国について、特別にあつかったのは始めてになるはずである。見て思うことは、いろいろあるが、結局、ワイマール共和国が失敗だったのか、ヒトラーが狡猾だったのか、というあたりの議論になるだろうか。民主主義だから大丈夫、あるいは、緊急事態条項があると危険である、というのは短絡的な見方である。
おそらく問題は、急激な社会や経済の変化において、国民国家としてのドイツのアイデンティティーが喪失の危機にあったことであると思える。国民国家というのは、もうちょっと時間をかけて、人びとの歴史と文化についての意識を尊重しながら、構築されていくべきものである。少なくとも、この番組を見て思うことはこのようなことである。
ただ、「アイデンティティー」と番組のなかで使っていたが、この用語は、戦後になってから、ちょうど私が学生のころから、ひろく使われるようになった。日本ではそうである。ワイマール共和国の時代の人びとに、この概念があったかどうか、ここはちょっと気になったことなのだが、どうなのだろうか。
レニ・リーフェンシュタールは、『民族の祭典』で憶えている。ダンサー出身で、女優になり、映画をつくり、ナチスに接近する。そのダンサーとしての影像、山岳映画のシーン、それから、最晩年の姿……まだ生きていたのかと驚いたが……、どれも貴重なものである。リーフェンシュタールは、ナチスに賛同したのではないと語っていたが、見方によれば、ナチスに利用されたということもできよう。その評価は難しいと思う。だが、番組のなかで使われていた映像は、見事なものであったことは確かである。
LGBTQの人びとのあり方は、やはりそのおかれた地域、時代、文化、宗教、などなど……様々な価値観のなかで考えるべきことのように思う。基本的な方向として、その人権と自由は尊重されるべきなのだが、性が社会の価値観のなかでどうであるかは、これからの社会において、かなり難しい問題として残されている。(性的指向が自分では選べないものなのか、あるいは、自分の自由意志で選択できるものなのか。そもそも人間の自由意志とは何であるのか。このような問題は、そう簡単に解決できるとは思えないのである。)
ゲッベルスについても、いろいろ語るべきことはあるのだろうが、ラジオを聞く人びとによって構成される共同体……「想像の共同体」ということになるのだろうが……を強く意識したことは、確かだっただろう。それは、この時代において、どの国にでもあてはまることである。1対Nの情報伝達であったものが、N対Nになっていく、現代のSNSの時代において、どうなっていくのか、これはまさに今の時代、その変化のさだなかにいることになる。(コミュニケーションが、N対Nになっていくということは、今から数十年前、パソコン通信の黎明期に語られた言説である。)
この番組を見て思うことを一言でいえば、結局、人間とはどういうものなのか、なかんずく近代市民社会における大衆とはどういうものなのか、ということへの深い洞察が基本になければならないということになる。ありきたりの感想になるのだが、こう思うのである。
2024年7月3日記
映像の世紀バタフライエフェクト ワイマール ヒトラーを生んだ自由の国
これまで「映像の世紀」では、ヒトラーのことは何度もとりあげてきているが、ワイマール共和国について、特別にあつかったのは始めてになるはずである。見て思うことは、いろいろあるが、結局、ワイマール共和国が失敗だったのか、ヒトラーが狡猾だったのか、というあたりの議論になるだろうか。民主主義だから大丈夫、あるいは、緊急事態条項があると危険である、というのは短絡的な見方である。
おそらく問題は、急激な社会や経済の変化において、国民国家としてのドイツのアイデンティティーが喪失の危機にあったことであると思える。国民国家というのは、もうちょっと時間をかけて、人びとの歴史と文化についての意識を尊重しながら、構築されていくべきものである。少なくとも、この番組を見て思うことはこのようなことである。
ただ、「アイデンティティー」と番組のなかで使っていたが、この用語は、戦後になってから、ちょうど私が学生のころから、ひろく使われるようになった。日本ではそうである。ワイマール共和国の時代の人びとに、この概念があったかどうか、ここはちょっと気になったことなのだが、どうなのだろうか。
レニ・リーフェンシュタールは、『民族の祭典』で憶えている。ダンサー出身で、女優になり、映画をつくり、ナチスに接近する。そのダンサーとしての影像、山岳映画のシーン、それから、最晩年の姿……まだ生きていたのかと驚いたが……、どれも貴重なものである。リーフェンシュタールは、ナチスに賛同したのではないと語っていたが、見方によれば、ナチスに利用されたということもできよう。その評価は難しいと思う。だが、番組のなかで使われていた映像は、見事なものであったことは確かである。
LGBTQの人びとのあり方は、やはりそのおかれた地域、時代、文化、宗教、などなど……様々な価値観のなかで考えるべきことのように思う。基本的な方向として、その人権と自由は尊重されるべきなのだが、性が社会の価値観のなかでどうであるかは、これからの社会において、かなり難しい問題として残されている。(性的指向が自分では選べないものなのか、あるいは、自分の自由意志で選択できるものなのか。そもそも人間の自由意志とは何であるのか。このような問題は、そう簡単に解決できるとは思えないのである。)
ゲッベルスについても、いろいろ語るべきことはあるのだろうが、ラジオを聞く人びとによって構成される共同体……「想像の共同体」ということになるのだろうが……を強く意識したことは、確かだっただろう。それは、この時代において、どの国にでもあてはまることである。1対Nの情報伝達であったものが、N対Nになっていく、現代のSNSの時代において、どうなっていくのか、これはまさに今の時代、その変化のさだなかにいることになる。(コミュニケーションが、N対Nになっていくということは、今から数十年前、パソコン通信の黎明期に語られた言説である。)
この番組を見て思うことを一言でいえば、結局、人間とはどういうものなのか、なかんずく近代市民社会における大衆とはどういうものなのか、ということへの深い洞察が基本になければならないということになる。ありきたりの感想になるのだが、こう思うのである。
2024年7月3日記
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