定本漱石全集2016-11-25

2016-11-25 當山日出夫

新しい「定本 漱石全集」(岩波書店)である。
http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/Soseki/img/all3.pdf

これは、はたして買う価値があるのか……特に、旧版(1993年)を持っている人間にとってはどうなんだろうか。まだ、どうしようか迷っているのが正直なところである。(でも、たぶん、買うことになると思っている。新しい全集で、漱石の作品を新たに順番に読んで生きたい気もする。)

『漱石全集物語』を読んで興味深いと思ったところ。それは、岩波書店が、最初の漱石全集を出したとき、予約・直販の方式をとったことである。書店を介してはいない。

やまもも書斎記 2016年11月24日
矢口進也『漱石全集物語』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/11/24/8259485

これは、出版史の問題になるが、現在のような書物の流通のシステムも歴史的にできあがってきたものである。ずっと昔、近代的な出版事業がはじまってから、このようであったわけではない。

広告を出して、予約・直販方式というのは、いまであれば、ネット販売にあたるといえるだろう。そのことを考えたうえで、では、なぜ、岩波書店は、今回の「定本 漱石全集」をネット販売しないのだろうか。

少なくとも、全巻予約の方式は、今回の全集ではとっていない。もう、そのような本の売り方をする時代ではないのかもしれない。

ネット直販で本(全集)を販売/購入する……この前例は、私にはある。小学館の『カムイ伝全集』(白土三平)である。これは、ネットで申し込んで、小学館から直販で買った。決済は、クレジットカード。

では、なぜ、このような方式(ネット販売、クレジットカード決済)が、岩波書店ではできないのであろうか。今では、古書店(日本の古本屋)でも、クレジットカードで本が買える時代である。

むろん、この方式をとれば、町の小売り書店を圧迫する、という理屈はあるのだろう。だが、小売り書店の存続のために出版があるのではないはずである。まず、出版があって、その上に、小売り書店が存在する。もともとの出版そのものが、なりたたなくなってしまえば、小売り書店も何もあったものではない。

ところで、私は、どのようにして本を買っているか。今では、基本的には、ネット書店に限定している。その理由は、履歴が残るからである。同じ本を二度買ってしまう心配がない。古書でも、ネット書店で買ってしまうことの方が、最近では多くなっている。

だからといって、街の書店に行くのが嫌いなわけではない。いや、いまだに好きな方であるし、できるならば、街の書店で本を買いたいと思う。だが、そのために、わざわざ自動車を運転して郊外の書店まで行くのも、無駄なような気がしている。昔のころのように、町中に住んでいて電車で毎日どこかにでかけるような生活を送っていれば、駅にある本屋さん(たいてい、ある程度の駅の近くには書店があったものである)で、買うのが一番いいだろう。

新書とか文庫……このごろでは、月のはじめごろに、主な新書・文庫の新刊をしらべて、ネット書店で注文しておくようになった。(これも、以前ならば、ある程度の規模の書店に行って、新刊の棚をみつくろっていたものである。)

書店ビジネスも、いま、曲がり角にきているのだろう。そのなかで、出版が今後どうあるべきなのか、また、「全集」のような出版がどうあるべきなのか、大きく変わっていくにちがいない。そして、読者のあり方も変わっていくだろう。

ただ、私としては、自分の読みたい本が手にはいればよい。この、読者が読みたいと思っている本が手にはいる、これが基本になると考える次第である。そのための書店であり、書籍の流通システムでなければならないと思う。

矢口進也『漱石全集物語』2016-11-24

2016-11-24 當山日出夫

矢口進也.『漱石全集物語』(岩波現代文庫).岩波書店.2016 (原著 青英社.1985 年表・参考文献に増補あり。)
https://iwanami.co.jp/.BOOKS/60/2/6022830.html

岩波書店が、あたらしく「定本 漱石全集」を刊行するにあたって、現代文庫で再刊したという本になる。このもとの本は、1985年の刊行であるので、1993年の「漱石全集」(全28巻、別巻1)のことについては、触れられていない。もちろん、今回のあたらしい「定本」版のことについては、言及がない。

私は漱石の全集は、二セット持っている。1974版の全17巻(別巻1)と、上記の1993年の28巻(別巻1)の、二セットである。

高校生のころから、漱石の作品は読んできている。好きな作家であったといっていいだろう。岩波書店から、全集が刊行になるというので、これはねだって買ってもらったものである。ただ、ちょっと安く買うために、当時、京都にあった取次店から直に買ったのを覚えている。

特に、『猫』はよく読んだ。大学受験を目の前にして、鬱屈した時間をすごすなかで、唯一読めた本といってよいかもしれない。(この意味では、漱石の「神経衰弱」がある程度は理解できるつもりでいる。)

ところで、この『漱石全集物語』であるが、いろんな意味で面白い本である。(よくぞ、岩波書店が、この本を出したものだと思う。内容的には、決して岩波書店に対して好意的な観点では書かれていない。その本文校訂をめぐっては、どちらかといえば批判的な立場である。)

この本、すくなくとも、文学、特に、近代文学を学ぼうとしている学生にはすすめておきたい気がする。一般の文学研究の場合、どの本をもちいるのか、まあ、「全集」が出ているなら、それにしたがっておけばよいというのが、常識的なところだろうとは思う。

しかし、その「全集」が漱石の場合、多種多様な校訂で出されている。たとえば、岩波の新しい版のように、自筆原稿の誤字まで残すのが正しい校訂本文といえるのかどうか、このあたりのことは考えてみる必要があるだろう。

この意味では、青空文庫の本文も批判的にあつかわれてよい。漱石の作品の多くは青空文庫にはいっている。基本的に、私は、青空文庫は、その企画そのものについては、高く評価する立場をとる。しかし、個々の作品の本文校訂にまで、細部にわたってみるならば、いろいろと問題があることは、容易に理解される。いや、このような問題点があることをふまえたうえで、それでも利用価値があるというところで、青空文庫の本文はつかわれるべきなのであろう。

近年の「全集」の企画といえば、中央公論新社の「谷崎潤一郎全集」がある。それから、晶文社の「吉本隆明全集」がある。もう、「全集」の時代ではないといえるのかもしれないけれども、漱石、谷崎、吉本あたりについては、みんなで共有する基本的テキストを集成したものとして「全集」があってもよいとは思っている。ただ、その販売方法は、今の時代にあわせたものを考えるべきであろうが。

ともあれ、『漱石全集物語』は、「全集」として本が出ているからといって、その本文を信用していいかどうか、このことを、実例に即して教えてくれる本である。どの「全集」のどの「本文」をつかうべきか、考えて見る必要がある。近代文学ならではの本文校訂の問題をかんがえるのに、非常によい本だと思う。

呉智英『吉本隆明という「共同幻想」』2016-11-23

2016-11-23 當山日出夫

呉智英.『吉本隆明という「共同幻想」』(ちくま文庫).筑摩書房.2016 (原著 筑摩書房.2012 補論の追加あり。)
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480433923/

いうまでもないが、この本のタイトルは『共同幻想論』からとってある。その『共同幻想論』を、きちんと通読したことが実はない、ということについては、すでに書いた。

やまもも書斎記 2016年11月2日
ちくま日本文学全集『柳田國男』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/11/02/8240413

くりかえし書いておけば、そこに引用されている「遠野物語」(柳田国男)の文章を読むのが怖いからである。

そして、この『吉本隆明という「共同幻想」』である。

はっきり書いてしまえば、私は、吉本隆明のファンということではないが、その著作のいくつかを読んできた。いや、読まねばならないものして読んできた、と言った方がいいだろうか。

1955年生まれの私にとって、大学生になったころ、まさに、吉本隆明がさかんに読まれた時期と重なる。とにかく読んでいて当たり前。読んでいなければ恥ずかしい。読んでいるふりぐらいはする……そんな時代だった。

白状してしまえば、「マチウ書試論」を引用して、レポートを書いたこともある。国文学の講義においてであったと覚えているが。

『吉本隆明という「共同幻想」』を読んで、ああなるほど、そういうことだったのか、と妙に納得するところがある。だからといって、吉本隆明についての評価を下げようとも思わない。いや、逆に、そのような「思想家」であるからこそ、批判的な目で、再度、きちんと読んでおく必要があると、自分なりに確認したりもするのである。

もう私のような世代ではなく、これからの若い人たちが、どんなふうにして吉本隆明を読んでいくのであろうか(あるいは、もう読まないであろうか)というあたりが気になる。この意味においては、この本は、ちょうどいい手引きなる本であると思う。少なくとも、吉本隆明に中毒症状をおこさないでするワクチンの役割をはたしてくれるだろう。

それにしてもと思うが、なんで、筑摩書房は、この本を文庫本で今になってだすのか。それから、

吉本隆明〈未収録〉講演集 全12巻.筑摩書房
http://www.chikumashobo.co.jp/special/yoshimoto/

今、晶文社で刊行中の「吉本隆明全集」、最初は、筑摩書房に話が行ったと聞いている。それを断っておきながら、なんで、という気がしなくもない。

吉本隆明については、「全集」として断簡零墨まで収集することはないと思う。それよりも主な著作をあつめて、「著作集」で十分であろう。以前、出ていた、勁草書房版の著作集に追加するようなものでよかったのではないか。ただ、その本文校訂は厳密なものでなければならないが。

若い頃、吉本隆明を読んできたことを、今になって、私は、後悔してはいない。かなり影響をうけてはきたかもしれないが、自分なりに、咀嚼してきたつもりでいる。この時代、21世紀になって、「大衆の原像」(ここを書いたとき、ATOKは「げんぞう」から変換してくれなかった)に振り回されることはない。そうではなく、何故、あの時代、このことばに魅了されたのか、そこを静かに反省する時期にきている。

そうはいっても、たとえば、

竹内洋.『大衆の幻像』.中央公論新社.2014
http://www.chuko.co.jp/tanko/2014/07/004619.html

この本のタイトルを見て、すぐに吉本隆明の本を思い浮かべることができるほどの知識は、やはり必要だろうと思う。この意味では、まだ、吉本隆明の著作の多くは、賞味期限を失ってはいないと思う次第である。

長谷川宏『いまこそ読みたい哲学の名著』2016-11-18

2016-11-18 當山日出夫

長谷川宏.『いまこそ読みたい哲学の名著-自分を変える思索のたのしみ-』(光文社文庫).光文社.2007 (原著 光文社.2004)
http://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334742409

いまさら、と思われるかもしれないが、このような本を手にするのが楽しみになってきた。基本的には、いわゆる西洋哲学の概説書という感じ。

たとえば、「Ⅰ 人間」のところでは、
『幸福論』アラン
『リア王』W・シェイクスピア
『方法序説』デカルト

といったところ。この本にとりあげてあるのは、15の書物なのだが、はっきり言って「読んでいない本」がある。だからといって、まずその本を読んでからとは、もう思わない。この種の概説書の存在意義は、〈地図〉を作ってくれることにあるのだと思う。

「読んでいない本」であっても、それが、哲学史、文化史のなかで、どのような位置づけになるのか、いったいどんなことを語っている本なのか、概略がわかる。そして、興味があれば、その本を読めばよい。いまでは、そのように思うようになってきた。

これが若いころであれば、是が非でもこれだけは必読書として読んでおかねばならない本として、遮二無二に本を乱読したりしたものだが、もうそのような元気はない。そのかわり、適当に気にいった本をみつくろって、熟読・味読したいと思うようになってきた。

そのような人間にとっては、このような本が文庫本で手軽に読める形で出ているのはありがたい。しかも、紹介してある本については、どのような翻訳があるのかの紹介があり、そのおすすめまで記してある。

ただ、出たのが、今から10年以上前になるので、その後、新しい翻訳の出たものもある。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』などは、日経BPで、中山元の新しい訳が出ている。
http://ec.nikkeibp.co.jp/item/books/P47910.html

とはいえ、このような新しい訳の存在も、今では、簡単にネットで探せる。

ところで、私の若い頃、学生の頃でであれば、まず、岩波文庫とか、「世界の名著」(中央公論)あたり……という時代であった。岩波文庫は今でもつづいているし、「世界の名著」など、古本でさがせば格安で手にはいるようになってきている。これもネットで探して買えるようになっている。

読みそびれたままになっている「読んでいない本」を、これから、ぽつりぽつりとながらでも、じっくりと読んで時間を過ごしたいと思うようになってきている。そんな私にとっては、この『いまこそ~~』は、ありがたい仕事である。

佐和隆光『経済学とは何だろうか』2016-11-17

2016-11-17 當山日出夫

佐和隆光.『経済学とは何だろうか』(岩波新書).岩波書店.1982
https://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/42/9/4201820.html

いうまでもないことだが、私は、経済学など専門外である。しかし、岩波新書のこの本ぐらいは読んでいる。で、ここで書いておきたいと思っているのは、「パラダイム」という語についてである。

今、「パラダイム」ということばはよく使われると思う。より広義には、思考の枠組みとでもいうような意味で使われるだろうか。もちろん、このことばは、トーマス・クーンの『科学革命の構造』でもちいられた、科学哲学の専門用語である。

そして、今では、このことば「パラダイム」について論じようとするときには、クーンの本に依拠して述べるというのが、普通になっていると思われる。

トーマス・クーン/中山茂(訳).『科学革命の構造』.みすず書房.1971
http://www.msz.co.jp/book/detail/01667.html

だが、私の経験では、この「パラダイム」ということばを初めて眼にしたのは、クーンの本によってではない。それを引用してつかった、佐和隆光の岩波新書『経済学とは何だろうか』によってである。そして、私の見るところでは、日本の社会のなかで、「パラダイム」ということば多く使われるようになったのは、この岩波新書を契機としてであったように、思うのである。

そこを確認するならば、「クーンの「科学革命」論」として、

「「科学の客観性」への疑問を、もっと鮮明なかたちで提示したのが、科学史家トーマス・クーンである。クーンは、その著『科学革命の構造』(1962年、邦訳みすず書房刊)で、〈範型〉(パラダイム)という概念を提案し、古い〈範型〉が新しい〈範型〉によって、とってかわられる過程を、「科学革命」と呼んだ。」(p.154)( )内はルビ。

そして、パラダイムということば・概念をもちいて、経済学の潮流の変化を説明していく。(経済学の門外漢である私には、そのことについて評価はできないが。)

この本を若い時に読んで、経済学の何であるかは分からなかった(今でも分からないままであるが)、「パラダイム」ということばだけは、はっきりと覚えている。その後、何かのおりに使い初めて、今日にいたっている。

その後、みすず書房の『科学革命の構造』も買って読んだりしたものである。かなり難解な本で、あまりよくわからなかったというのが正直なところであるが。

現在ではどうなんだろうかと思う。「パラダイム」ということばが一般化しているので、特に意識することなく、普通の人は普通にこのことばをつかっていると思う。特に、若い人はそうだろう。もし、ちょっと勉強してみようという気のある若者ならば、直接に『科学革命の構造』を読んでみたりするかもしれない。

だが、学問史……というほどの大げさなものではないとしても、「パラダイム」という概念で、学問・研究の進展の枠組みを考えようとするならば、是非とも『経済学とは何だろうか』をはずすことはできないと思う。少なくとも、私の個人的経験からするならば、日本において「パラダイム」の語がひろまったのは佐和隆光の『経済学とは何だろうか』(岩波新書)によってであると、理解しているからである。

すくなくとも、上記のような観点において、『経済学とは何だろうか』は、読まれていい本だと思っている。

ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』2016-11-11

2016-11-11 當山日出夫

ピエール・バイヤール/大浦康介(訳).『読んでいない本について堂々と語る方法』(ちくま学芸文庫).筑摩書房.2016 (原著、筑摩書房.2008)
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480097576/

最初、単行本で訳書が出たとき買って、ざっと読んで、今回、文庫(ちくま学芸文庫)になったので、また買って再読してみた。

この本の内容について、ふさわしくタイトルをあえて変えるとするならば、

『なぜ読んでいない本について堂々と語れるのか』

とでもした方がいいのかもしれない。

読んでいない本について、堂々と語る仕事としてまず、思い浮かぶのは大学の教師である。私の専門領域としては、国語学ということになるが、では、国語学の専門書、日本文学については、古典大系、古典文学全集の類を網羅的に読んでいるかというと、はっきりいってそんなことはない。

『源氏物語』を、最初から通読したことはないということは、すでに書いた。しかし、大学の講義で、『源氏物語』について言及するのに、なんら不都合はない。もちろん、全巻を順番に読んでおくにこしたことはないだろうが、それが必須の条件というわけではない。

では、なぜ、『源氏物語』について授業で語れるのか……それは、その作品の文学史的な位置づけ、研究史の概略を知っているからであり、全部を順番に読んだことはないにしても、かなりの箇所はきちんと読んでいる。部分的には精読しているといってよい。

つまり、『源氏物語』の読み方を知っている。勉強の方法を知っている、ということなのである。

だが、だからといって、『源氏物語』をまったく読んでいなければ、それについての研究書・論文のいくつかを読んだことがなければ、これは、はっきりいって、教師として失格と言ってよいであろう。

このようなことを、『読んでいない~~』では、次のような箇所が該当するのかと思う。

「教養があるとは、一冊の本の内部にあって、自分がどこにいるかをすばやく知ることができるということでもあるのだ。そのために本を始めから終わりまで読む必要はない。この能力が発達していればいるほど本を通読する必要はないのである。」(p.39)

「このように、教養とは、書物を〈共有図書館〉のなかに位置づける能力であると同時に、個々の書物の内部で自己の位置を知る能力である。」(p.66)

つまり、「教養」があれば、本を全部にわたって通読する必要はない。

では、どうやればその教養は身につくのか……それは、やはり、「読書」と「教育」によってである、ということになる。ある程度は、本を読み、その読み方について教育をうける、これが必要だろう。

本書『読んでいない~~』は、読書論であると同時に、教養論であり、教育論の本であると思う。タイトルはいたって挑発的であるが、しかし、その書かれている内容は、逆に、常識的な読書文化論、教養論であると、私は読んだ。その常識的なレベル、あるいは暗黙知と言ってもよいかもしれない、そのようなことを、あえて、俎上にのせて論じてみたということである、と理解する。

はっきりいって、この本を読まずに読んだふりをするのも、決して悪いことではないと思う。それは、この本の語っている内容が、ある意味で、きわめて常識的な読書についての考察であるといってもよいからである。常識的すぎる、あるいは、暗黙知であるがゆえに、いままであまりおもてだって言及されることのなかったことについて書いてある。この意味では、なぜ自分は読んでいない本について語ることができるのか、じっくりと内省してみれば、おのずと答えの出ることであるともいえる。

とはいえ、暗黙知とされるべきことについて、あえて論じるというのは、刺激的で知的な興味をそそる仕事ではある。この観点において、非常に面白い本だと思う。

ちくま日本文学全集『柳田國男』2016-11-02

2016-11-02 當山日出夫

このところ、古本を買っている。最近、買ったのは、

ちくま日本文学全集『柳田國男』.筑摩書房.1992

解説を書いているのは、南伸坊。文庫版の全集、という体裁のシリーズである。調べてみると、このシリーズは、体裁をかえて、今でも新本で売っているようだ。今売っているのは、2008年の刊行らしい。タイトルも、「ちくま日本文学」と変わっている。

http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480425157/

http://www.chikumashobo.co.jp/special/nihonbungaku/lineup/

この『柳田國男』であるが、収録作品を見ると、まず、
「浜の月夜」
「清光館哀史」
がのっている。それから、「遠野物語」「木綿以前のこと」など、柳田の代表的な作品が、収録、あるいは、抄録されている。おおむね「文学」の観点からみた柳田の文章がおさめられている。

『定本柳田国男集』も持っているのだが、このごろでは、このような手軽な編集の本が好みになってきた。柳田国男を論じるために読むというよりも、自分の楽しみの時間のために読む、そんな読書の時間をつかうには、ちょうどいい。文庫本サイズなので、ちいさいし軽い。とにかく、気楽に読める雰囲気の本づくりになっているのがいい。それから、このシリーズは、文字が大きい。これも、老眼になった身としては、とてもありがたい。

ところで、私は、これまで、「遠野物語」を通読したということがない。時に、ページを開くことはあっても、全部を読んではいない。理由は、こわいからである。「遠野物語」の文章を読むと、ぞっとするような恐怖を感じる。とても、全部をとおして読む気になれない。で、今にいたっている。

それほど、日本民俗学の文章というのは、読む人間にとって、迫力のあるものなのである。

これに近いものとして……『今昔物語集』の巻二十七があるのだが、この巻も、読んではいるのだが、夜ひとりで読んだりするのは、とてもこわい。

そのせいもあって、実は、『共同幻想論』(吉本隆明)を、あまりきちんと読んだことがないのである。『古事記』の引用はいいのだが、『遠野物語』の引用箇所を読むのに恐怖を感じることがあって、途中でやめたり、とばしたりしている。

年をとってきて、文章に対する感性もかわってきたと感じる。そろそろ、純粋な楽しみの読書の時間をつかうように、そのように生きていきたいものだと思っている。この意味で、手軽な文庫本はありがたい。

岡茂雄『本屋風情』2016-10-22

2016-10-22 當山日出夫

柳田国男の『雪国の春』については、触れた。

やまもも書斎記 2016年10月21日
柳田国男「浜の月夜」「清光館哀史」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/10/21/8233186

ここで、「浜の月夜」と「清光館哀史」が一緒になったのは、『雪国の春』の刊行の時と書いておいた。昭和3年刊、岡書院。この岡書院の岡茂雄の書いた本が、『本屋風情』である。

岡茂雄.『本屋風情』(中公文庫).中央公論社.1983 (原著、平凡社.1974)

今では、もう売っていないようである。

これをよむと、「よくぞ生まれた『雪国の春』」という文章がのっている。読むと、興味深い。冒頭を引用する。

「昭和二年十一月下旬のある日、陽も落ちて燈火のの冴える頃であった。柳田(国男)先生が電話で「すぐ朝日(新聞社)へきてくれないか」といわれたので、何事かと思い、車を呼んで駆けつけた。先生は当時朝日新聞社の編集局顧問で論説を担当しておられた。(中略)先生は改まった面持ちで「君は岩波(茂雄)君と親しいようだから、本(出版)を頼んでくれないか、一月にはどうしても出したい本なんだ」といわれた。」(p.88)

活版の時代である。現代のようにデジタルデータで原稿がそろっているという状況ではない。11月に話しをして、1月には本を出したいというのは、無理だろう・・・と、まあ、常識的には考える。

しかし、この本『雪国の春』は、柳田国男としては、岩波書店から出したい意向のようだったらしい。それが無理と判断して、岡書院から出ることになった。そして、その岡書院は、なんとかそれを実現してくれたことになった。

読むと、いそいだ出版だったらしいので、いろいろトラブルがあったようだ。1台(16ページ)、印刷しなおし、というようなこともあったらしい。

そして、最後に次のようにあるのが印象的である。

「十二年の後、S社から何々選書の仲間入りをして再刊されたが、国民服をまとうたような恰好で現われ、掛けた襷字を見なければ『雪国の春』と知ることもできないような姿を、侘しく眺めなければならなかった。」

さもありなん。『雪国の春』におさめられた文章は、国民服にはふさわしくない。昭和(戦前)の世相をあらわす出版史のひとこまかもしれない。

なお、この岡書院という出版社。戦前の言語学・民族学などの分野で名をのこしている。言語学関連では、この『本屋風情』に登場する本としても、
『アイヌ叙事詩/ユーカラの研究』生誕実録
『分類アイヌ語辞典』と金田一博士
ソッスュール『言語学原論』を繞って
『広辞苑』の生まれるまで
などの文章が収録になっている。国語学・日本語学研究史としても、興味深い内容である。

山本貴光『「百学連環」を読む』2016-10-14

2016-10-14 當山日出夫

山本貴光.『「百学連環」を読む』.三省堂.2016
http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/dicts/books/100gaku/

これは、三省堂のHPに連載されたもの。この本のなりたち、また、評価については、すでに各所に出ていると思う。いつものように、個人的感想などいささか。

最低限のことを確認しておくならば、この本「百学連環」は、今から150年ほど前(明治3年)に、西周による講義。それを筆録したもの。それを、133回に分けて、ネット上に公開しながら、順番に読んでいった、その講義録のようなもの。この本の主題とすべきは、明治初期の「学問」の総体である。

さて、私がこの本を読んで感じたのは、次の二点。

第一には、デジタル化された知識を縦横につかっていること。筆者は、この本を書く(WEB上で連載する)にあたって、その手のうちを公開している。たとえば、洋学関係の資料をみるにあたっては、Google Books を参照したことなど、書かれている。

たぶん、この本は、インターネットにある様々なデジタル化された「知」がなければ書けなかったであろう。

第二には、しかし、それでもなお不十分な点を感じるとすれば、近世の蘭学資料とか、明治初期の啓蒙的著作について、調べが及んでいないと感じさせるところ。これは、ひとえに、まだこれらの資料がデジタル化されて、自在に検索できる状態になっていないからである。

簡潔に述べれば、上記の二点になる。つまり、この本は、まさに今の時代、21世紀の初めの10年頃、その時期における、『百学連環』の読書録である、ということである。これは、ある意味では、この本の限界である。だが、著者は、この限界を、はっきりと意識しているように思える。さらに、各種の資料がデジタル化されて検索可能になれば、近世から幕末・明治初期にかけて、西洋の学問が、どのように日本において、いや、当時の東アジアにおいて、受容されてきたのか、そして、考えられてきたのか、このようなことが明らかになるだろう。その時代は、ひょっとすると、かなり近未来におとづれるかもしれない。

だが、その時代を待たずに、今の時点で、できる範囲のことで読んでみた、このように私は感じながら読んだのであった。

たとえば、ウェブスターの辞書のデジタル版(テキスト版)が、各版ごとにそろえば、この本の調査は、もっと精密なものになるにちがいない。だが、とりあえず、著者の見ることのできる版において調べた範囲のことで、これだけのことは分かる。このようなことは、この本を読み進めていくうちに、おのづと納得する。

あるいは、福沢諭吉の著作の、その初期のものがデジタル化されていれば、明治初期における、西周の、また、福沢諭吉の、学術史的位置づけを、総合的に再検討することができるにちがいない。この本では、「惑溺」の語について、福沢への言及があるが、その全著作の語彙については、及んでいない。

このように、この本を読むと、現代の時代における「限界」を随所に感じる。しかし、その「限界」は、逆に言えば、これからの「可能性」でもある。この意味において、将来の研究の「可能性」を、読み取ることができよう。

そして、その「可能性」は、(たぶん、すでに言われていると思うが)、従来の学問の領域構成(文理の区別にはじまって、大学の学部・学科、あるいは、学会の成り立ち、など)を、つきくずすものになるにちがいない。

かつて、明治初期、まだ西洋の学問が日本に入ってきたばかりで、未分化の状態を読み解いている。それを、将来、デジタル化された各種ツールを駆使することによって、新たな学問のあり方を提言することができる……この「可能性」を強く示唆している本だと思うのである。

追記
著者名 まちがえていました。訂正しました。貴光でした。申し訳ありませんでした。

電子書籍からの引用はどう示すか2016-06-24

2016-06-24 當山日出夫

電子書籍について思うことを書いてみる。

電子書籍の利便性については、いろんなところでいろんなひとが述べている。ここでくりかえすまでのこともないだろう。ここでは、私が困っていることについてしるしておきたい。

それは、「引用」と「典拠」のしめしかたである。

論文やレポートを書く。そのときに、引用・出典ということが重要になる。これは、紙の本についてであれば問題はない。さまざまな流儀があるとはいえ、これまでの各研究分野における、習慣というか、伝統的なスタイル、とでもいうべきものがある。

これが、電子書籍になるとどうか。

引用はできる。PCで見ているにせよ、Kindleなどの専用デバイスで見ているにせよ、とにかく、内容を書き写す(コピー)することは、紙の本と同様である。

では、次に、この出典を注記しようとしたとき、どうすればいいか。このときになって、はたと困ってしまうのである。ページが書けないのである。

いうまでもないことだが、電子書籍には「ページ」の物理的概念がない。本文のデータがあって、それをディスプレイに表示する。そのとき、文字の大きさにあわせて、ディスプレイの表示文字数は変化する。リフローするのである。引用して、その典拠・出典としての、どの本の何ページと、確定的に指示できないのである。

これは、論文・レポートを書くとき、致命的に困ることだと思うのだが、はたして、ひとはどう思っているのだろうか。

たとえば、私のKindleには、「角川インターネット講座」(全15巻、合本版)がいれてある。(安かったから買ったのだが、今、確認してみると、値段があがっている。買ったときの値段を確認してみると、2700円だった。)

ともあれ、この本から何か引用しようとしたとき、本文をディスプレイ表示を見ながら書き写すのはいいとしても、その典拠・出典を書かねばならなくなったとき、困ってしまう。ページ番号が書けないのである。これでは、引用することができない。これでは、私が書く文章……論文とまではいわなくても、このようなブログに引用することもできない(少なくとも、典拠を明示して書こうとするならば。)

引用できないということは、学生の勉強につかえない、少なくとも、論文やレポートを書くときの参考文献としては利用できない、ということになる。論文やレポートでは、引用した箇所については、かならずその典拠をしめさなければならない。これは、アカデミックな世界における決まったルールである。そして、しめされた典拠にしたがって、その論は検証できなければならない。

電子書籍の利便性について語られることは多いが、上記のような問題点については、あまり言及されることがないように見ている。はたして、この問題、どのように考えればいいのだろうか。