新常用漢字:叱をフォント埋め込みPDFにすると ― 2009-01-27
2009/01/27 當山日出夫
たくさんコメントをいただいているので、ともかく書けることから。
小熊さんのご指摘のように、フォント埋め込みPDFであれば、今の、日本における普通のパソコンであれば、見えるでしょう。バージョンを問わなければ、AdobeReaderぐらいは、たいてい入っている、はずでしょう。
実際、自分でためしてみました。
まず、Vistaで、MS明朝で、叱を二種類、入力したWord文書ファイル(2007)を作成。
口+ヒ と 口+七
これを、Acrobat(Ver.8)で、PDFに変換。USBメモリに保存。
で、このデータ(PDF)を、XPマシンで、見るとどうなるか。
PDFとしては、両方の文字が見える(あたりまえだ)。
ここからコピーして、Word文書(2003)に持っていったら、片方の字(口+七)が消えた。(なお、私のXPマシンは、買ったままの状態で、基本的に手を加えていない。SPには、対応していますが。)
ということは、パブリックコメントを、フォント埋め込みPDFで、というのは、かなり問題があるのでは。
問題は、
・どの明朝体で示すか(平成明朝かな)
・明朝体内部のデザイン差と、字体差を、区別して分かるひとがどれほどいるか(ここを、はっきり説明しないと、混乱をまねく。)
・パブリックコメントは、形式上は、電子メールでも受け付けるでしょう。なにせ、「情報機器に対応した新常用漢字表」なのですから。このとき、画面で、字が見えません、となったどういう事態をまねくか。(上記のように、コピーしたら、発生する可能性がある。)
情報機器に対応するための新常用漢字表を、インターネットでメールの文章に使えない、これじゃ、なんのための新常用漢字表だか、わからない。(ただし、フォントも一緒に送信する方式が確立し一般化すれば別。この件は、CH81での川幡さん発表にも関係するので、また別に。)
當山日出夫(とうやまひでお)
たくさんコメントをいただいているので、ともかく書けることから。
小熊さんのご指摘のように、フォント埋め込みPDFであれば、今の、日本における普通のパソコンであれば、見えるでしょう。バージョンを問わなければ、AdobeReaderぐらいは、たいてい入っている、はずでしょう。
実際、自分でためしてみました。
まず、Vistaで、MS明朝で、叱を二種類、入力したWord文書ファイル(2007)を作成。
口+ヒ と 口+七
これを、Acrobat(Ver.8)で、PDFに変換。USBメモリに保存。
で、このデータ(PDF)を、XPマシンで、見るとどうなるか。
PDFとしては、両方の文字が見える(あたりまえだ)。
ここからコピーして、Word文書(2003)に持っていったら、片方の字(口+七)が消えた。(なお、私のXPマシンは、買ったままの状態で、基本的に手を加えていない。SPには、対応していますが。)
ということは、パブリックコメントを、フォント埋め込みPDFで、というのは、かなり問題があるのでは。
問題は、
・どの明朝体で示すか(平成明朝かな)
・明朝体内部のデザイン差と、字体差を、区別して分かるひとがどれほどいるか(ここを、はっきり説明しないと、混乱をまねく。)
・パブリックコメントは、形式上は、電子メールでも受け付けるでしょう。なにせ、「情報機器に対応した新常用漢字表」なのですから。このとき、画面で、字が見えません、となったどういう事態をまねくか。(上記のように、コピーしたら、発生する可能性がある。)
情報機器に対応するための新常用漢字表を、インターネットでメールの文章に使えない、これじゃ、なんのための新常用漢字表だか、わからない。(ただし、フォントも一緒に送信する方式が確立し一般化すれば別。この件は、CH81での川幡さん発表にも関係するので、また別に。)
當山日出夫(とうやまひでお)
『デジタルネイティブ』(2) ― 2009-01-27
2009/01/27 當山日出夫
デジタルネイティブについて検索すると(Google)、非常にたくさんの言及が既にある。なかには、私同様(?)、デジタルネイティブ度のチェックをあざわらうごとき内容のものもある。
デジタルネイティブ、これは、私なりに定義しなおせば、生まれたときから(すくなくとも、ものごころついたときから)、デジタル環境になじんで育ってきている、ということ。いいかえれば、決して、デジタルが全てでもなければ、特殊でもない、ということ。
これを、NHKは、すべてネットでやってしまうこと、のように(私の立場からすれば)「誤解」している。
ただ、これは日本だけの現象かもしれないが、ケータイメール、についての考え方。前にも書いたが、私は、ケータイのメールは使わない。テンキー入力など、まどろっしくてしかたないから。フルサイズのキーボードの方が、よっぽど楽で早い(ちなみに使っているのは、東プレ。)
確かにケータイ世代というべき、世代が存在することは確か。
ここで、問題は、次の点。
ケータイは、小さいコンテンツしかあつかえない。あの小さい画面で、ケータイ小説は書ける(読める)かもしれないが、論文は無理(ひょっとすると、そんな学生もいるかもしれないが、まれだろう。)
文字情報としても、画像情報としても、とにかく小さい。これは、おそらく、今、私が、目の前においている24インチディスプレイ(ナナオ)とは、別の世界であると認識すべきである。インターネットにつながっているからといって、同じであるとは限らない。どちらかが、あるいは、両方とも、世界からみれば「ガラパゴス」かもしれない。
さらに問題は、これが若いケータイ世代だけではない、ということ。「非/反パソコン=ケータイ」という一群のひとびとが、世代を問わず存在する。「メール=ケータイ」というのは、若い人だけのことではない。
以前、ある人からきいた話し。その人の知人は、ケータイからしかメールを送ってこないので困る、とのこと。これは、私も、同感。ケータイメールに、メガ単位の添付資料(たいていPDFなど)を、送ることはできない。
学生の作文の添削指導には、Word文書ファイルを添付しておこなうことにしている。アカデミックライティングの授業。このとき、まず、注意しなければならないのは、大学のメールシステムで、転送設定を変更しなさい、ということ。大学のメールシステムから、自分のケータイへの転送設定にしているとき、もとのメールを残さない設定であると、添削の添付ファイルが消えてしまう。
今、電車に乗ると、若い人だけではなく、私と同年配あるはそれ以上の年齢とおぼしき人が、メールを打っているのを目にする。では、そういう人たちは、我が家のパソコンで、数メガの添付ファイルのデータをやりとりするような使い方をしているだろうか(たぶん、してないとおもうが、いかがであろうか。)
実際に学生を見ていて危惧するのは、とりあえず、ケータイで、用がたりる。メールもできる。インターネットも接続できる。そして、そこで、とまってしまうこと。
これは、本当の意味での(私が最初に記した)デジタルネイティブから、とりのこされてしまう危険がある。
画面が小さいと、考えることも小さくなる……これは、杞憂だろうか。
くりかえすと、デジタルがすべてでもない、また、特殊でもない、ごく当たり前に日常のなかにある、これが、デジタルネイティブであると、私は、考える。そして、その基盤のうえに、デジタル人文学が成立しうるのかどうかを、考えていきたい。
當山日出夫(とうやまひでお)
デジタルネイティブについて検索すると(Google)、非常にたくさんの言及が既にある。なかには、私同様(?)、デジタルネイティブ度のチェックをあざわらうごとき内容のものもある。
デジタルネイティブ、これは、私なりに定義しなおせば、生まれたときから(すくなくとも、ものごころついたときから)、デジタル環境になじんで育ってきている、ということ。いいかえれば、決して、デジタルが全てでもなければ、特殊でもない、ということ。
これを、NHKは、すべてネットでやってしまうこと、のように(私の立場からすれば)「誤解」している。
ただ、これは日本だけの現象かもしれないが、ケータイメール、についての考え方。前にも書いたが、私は、ケータイのメールは使わない。テンキー入力など、まどろっしくてしかたないから。フルサイズのキーボードの方が、よっぽど楽で早い(ちなみに使っているのは、東プレ。)
確かにケータイ世代というべき、世代が存在することは確か。
ここで、問題は、次の点。
ケータイは、小さいコンテンツしかあつかえない。あの小さい画面で、ケータイ小説は書ける(読める)かもしれないが、論文は無理(ひょっとすると、そんな学生もいるかもしれないが、まれだろう。)
文字情報としても、画像情報としても、とにかく小さい。これは、おそらく、今、私が、目の前においている24インチディスプレイ(ナナオ)とは、別の世界であると認識すべきである。インターネットにつながっているからといって、同じであるとは限らない。どちらかが、あるいは、両方とも、世界からみれば「ガラパゴス」かもしれない。
さらに問題は、これが若いケータイ世代だけではない、ということ。「非/反パソコン=ケータイ」という一群のひとびとが、世代を問わず存在する。「メール=ケータイ」というのは、若い人だけのことではない。
以前、ある人からきいた話し。その人の知人は、ケータイからしかメールを送ってこないので困る、とのこと。これは、私も、同感。ケータイメールに、メガ単位の添付資料(たいていPDFなど)を、送ることはできない。
学生の作文の添削指導には、Word文書ファイルを添付しておこなうことにしている。アカデミックライティングの授業。このとき、まず、注意しなければならないのは、大学のメールシステムで、転送設定を変更しなさい、ということ。大学のメールシステムから、自分のケータイへの転送設定にしているとき、もとのメールを残さない設定であると、添削の添付ファイルが消えてしまう。
今、電車に乗ると、若い人だけではなく、私と同年配あるはそれ以上の年齢とおぼしき人が、メールを打っているのを目にする。では、そういう人たちは、我が家のパソコンで、数メガの添付ファイルのデータをやりとりするような使い方をしているだろうか(たぶん、してないとおもうが、いかがであろうか。)
実際に学生を見ていて危惧するのは、とりあえず、ケータイで、用がたりる。メールもできる。インターネットも接続できる。そして、そこで、とまってしまうこと。
これは、本当の意味での(私が最初に記した)デジタルネイティブから、とりのこされてしまう危険がある。
画面が小さいと、考えることも小さくなる……これは、杞憂だろうか。
くりかえすと、デジタルがすべてでもない、また、特殊でもない、ごく当たり前に日常のなかにある、これが、デジタルネイティブであると、私は、考える。そして、その基盤のうえに、デジタル人文学が成立しうるのかどうかを、考えていきたい。
當山日出夫(とうやまひでお)
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