『ARG』357号の感想:ハングルという言語名2009-01-12

2009/01/12
當山日出夫

『ARG』の357号の感想について、いささか。

どうでもいいようなことかもしれないが、ちょっと気になったこと。
http://d.hatena.ne.jp/arg/20090102/123088998

東京外国語大学の データベース 世界に広がる『赤毛のアン』
http://www.kufs.ac.jp/toshokan/anne/anneworld.htm

このデータベースを見ると、トップのページには「ハングル」とある。しかし、東京外国語大学で使用の言語の名称(科目名)としては、「朝鮮語」である。単に、大学の組織上の名称と、一般的な呼称をつかいわけたといえば、それまでである。なお、データベースを検索してみると、当該データの「言語区分」としては、「韓国語・朝鮮語」の用語をつかってある。

細かなことを言えば、「ハングル」は「文字の名称」。言語の名称としては、「朝鮮語/韓国語」など、あり得る(それぞれ、大学によって、名称の方針は異なる。)なかには、「ハングル」で、代用している学校もある。

もとをたどれば、NHKが、放送で語学番組を開設するとき、「韓国語/朝鮮語」で問題になった経緯があり、結局、「ハングル」でおちついた、というのが、私の知るところの経緯。

『ARG』でこれまで、話題になっていることがら。英語を、どのようなマークでしめすか。ユニオンジャック、星条旗、が妥当であるか。このようなことを考えるならば、その言語を、どのような名称(文字)で記載するかも、また、難しい問題である。

當山日出夫(とうやまひでお)

ブログの引用の自由をめぐって2009-01-12

2009/01/12 當山日出夫

私が確認したところで、読売新聞(YOMIURI ONLINE)が、報じている。この他、現時点で、Googleニュースでは、18件の関連報道がある。

テレビ朝日系で10日に放送の番組で、ブログ記事をスタッフが作って、それをあたかも、すでに一般にあるものであるかのように見せた問題。

記事から、一部「引用」すると、テレビ朝日の発言として、

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実際のブログ作成者から撮影許可が取れなかったので、同じ情報を元にスタッフが『再現』した。そのことをテロップやナレーションで伝えるべきだった。視聴者に誤解を与えかねない表現となり、申し訳ない。
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いくつかの問題点がうかびあがってくる。

・ブログ記事として、公開されたものの「引用」はどのようなルールであるべきか

・それは、文字データであるとしても、実際には、画面にレイアウトされたものとして、画像的な性格を持つ。では、それは、版面権・編集権、肖像権、のような権利をみとめるべきか。(なお、日本の法律上では、出版物の版面権は認められない。これは、漢字文献情報処理研究会によってあきらかにされている。)

・テレビである以上、文字データの「引用」ではなく、ブラウザで表示の画面を映像としてあつかう。このとき、どのような権利関係があり得るのか。(さらにいえば、ブラウザやその設定によって、見え方も違ってくるが、ここまで踏み込んだ議論になるのかどうか。)

このような問題の背景には、HPの「リンク自由」ことがある。ブログ(これもHPの一種の形態)で発言する以上、それは、誰にもアクセス可能でなければならない、と私は考える。だが、そこから先の次の利用、については、まだ課題が多いといわざるをえないのかもしれない。

これからの社会、ブログでの発言を無視して報道はあり得ないだろう。画面のレイアウトをふくめて画像で見せるか(全部あるいは部分的に)、また、文字列として引用して、再構成・編集するか。

この件のキーワードは「撮影許可」という言葉であろう。

これは、日本という「ガラパゴス」における、特有の、ネット文化の一端なのかもしれない。(「ガラパゴス」の言い方、『アーキテクチャの生態系』、濱野智史、NTT出版、2008、による。)

當山日出夫(とうやまひでお)

絵文字のことなど2009-01-12

2009/01/12 當山日出夫

もろさんのブログで、「絵文字」のことについて言及してある。

http://d.hatena.ne.jp/moroshigeki/20090111/p1

ここで、話しはとぶが、昨日の、立命館白川静東洋文字文化研究所での講演会。(石塚晴通先生、HNGについて。)

講演そのものは無事に終了。会場には、主催者側で用意してくれたパソコンがあるにはあったが、アスペクト比が、うまく調整できていない。会場となった教室(末川記念館)は、今年度前期に、デジタルアーカイブ(映像学部)で使用したので、プロジェクタなどの設定のややこしさは、身にしみて知っている。

どうしようかと迷ったが、私の持参のレッツノートを使うことにした。理由は、正面のスクリーンと、天井からのディスプレイと、両方が、同じアスペクト比で見える。また、私のには、FireFox(3)が、ブラウザとして入れてあり、無線LAN接続で使えるように設定してある。(HNGは、すくなくとも経験的には、IEよりも、FireFoxの方がきれいに表示される。)

で、もとにもどって、白川研の講演会。最後の質疑応答で、会場からの質問。「文字とシャーマニズムとの関係について?」。石塚先生も、ちょっととまどったような感じだったが、無事に済んだ。(基本的に、HNGは、「楷書」が成立して以降の、字体の規範あるいは標準を見ようとするものであるから、文字の起源とはかかわらない。)

だが、この質問は、当然ながら、白川漢字学をふまえてのものであることは、すぐに理解できる。

文字(この場合は漢字)が、成立したとき、筆画による記号的存在から、なにがしかの飛躍があったことは確かだろう。また、同時に、音声言語との対応関係においても、飛躍が必要。かりに表音文字の成立を考えるとしても、その文字がとらえる音声(あるいは音韻)の単位の認定が、必要。

さて、絵文字であるが、すぐにこれを「文字」であるとは言いにくい面があることは確か。しかし、単なる、記号(「?」や「…」句読点など)以上のなにかを表現していることは確かである。

逆に考えてみると、近代において、活字による出版が一般化し、また、現在のようなコンピュータによるコミュニケーションが普通になっている。では、このとき、人間は、「純粋なテキスト」によってコミュニケーションしているのか、あるいは、ある種の感情や身体性を付与しているのか(どの種類の活字をつかうのかなども問題、HTMLなら大きさ・色を変えることは容易)。

また、一方で、音声言語のコミュニケーションにおいて、「純粋なテキスト」を見いだせるか?

このあたりのこと、『論集 文字』(仮称)で、もらった師さんの原稿を読みながら考えてみた。(これで、原稿としては、だいたいそろったので、最終的な編集・組版の作業にうつる。)来月の、国立国語研究所での第2回「ワークショップ:文字-文字の規範」までには、広告のチラシなど用意できるようにしたい。

當山日出夫(とうやまひでお)