BS世界のドキュメンタリー「北極が溶けるとき 温暖化が招く新たな対立」2025-12-04

2025年12月4日 當山日出夫

BS世界のドキュメンタリー「北極が溶けるとき 温暖化が招く新たな対立」

再放送を録画しておいて見た。今のNHKONEのHPでは、いつの放送か確認できないみたいなのだが、オリジナルは、2024年、イギリスである。

トランプ大統領が就任してすぐに、グリーンランドをアメリカのものにする、ということを言い出して、日本のいわゆるリベラルと自称する人たちから、冷笑をあびせられていた。そういう人たちにとっては、誇大妄想としか思えなかったのだろう。

だが、私は、このニュースを非常に意味のあるものとして見ていた。一番興味深かったのは、グリーンランドを領有するデンマークの首相が、即座に拒否しなかったことである。普通なら、とんでもないこととにべもなくはねつけることのように思えることかもしれない。しかし、デンマーク首相は、グリーンランドは自治領であり、それはグリーンランドの人びとが決めることだ、という意味の発言をしていた。

トランプ大統領なりの乱暴な表現であったかと思うが、しかし、ことの流れとしては、アメリカは、これから北極海に対する軍事的なプレゼンスを強めていく、そのためには、グリーンランドが重要な戦略的な場所になる、これからこの地域への関与を強める……こういうことの意志表明だととれば、非常に納得のいくことである。(このことが理解できなかった、今の日本の、いわゆるリベラルを自称する人たちは、地球儀を持っていないらしい。)

ロシアのウクライナ侵攻が、世界の政治の地図を塗り替えた。そして、北極海が、将来において、新たな地政学的に、重要な意味を持つようになる。北極海航路、水産資源、レアアース、どれをとっても、国際秩序の再編をせまる問題である。

その原因になっているのが、地球温暖化による北極海の氷の減少である。

特に北欧の国々が、新たな対ロシア、北極海の安全保障の最前線に位置することになり、それとNATOが密接にかかわっている。軍事的には、常識的なことだと思う。

番組の中で、中国も、北極海への権益を主張していると言っていた。これは、重要なことである。中国が北極海に出ようとするならば、まず太平洋に出なければならないが、そこには日本がある。

今は、いわゆる台湾有事をめぐって議論がさかんであるが、それよりも、もう少し先のことを考えるならば、中国の北極海への進出と権益の主張に、日本がどうかかわるのか、ということがあり、それを視野にいれて、いわゆる台湾有事のことも考えられねばならないことになる。

日本で、原子力潜水艦の保有が話題になりつつあるが、それは、台湾周辺、東シナ海よりも、北極海を念頭に考えることなのだろうと、私は思っている。空母を北極海で運用するのは容易ではない、原子力潜水艦が重要な戦略的、戦術的な意味を持つことになるだろう。

番組の中で、日本への言及は一言もなかった。しかし、北極海の安全保障ということを考えるならば、日本とNATOのとの連携は、必須ということになる。おそらく水面下では、この動きはあるにちがいないが。

もちろん、日本のインフラとして、周辺の海底ケーブルの防衛は、何より重要である。

ロシアの北極海への覇権について、警鐘を鳴らしていたのは、小泉悠であるが、このごろでは、テレビなどで、このことについて語ることは無くなっているようである。あるいは、それだけ、事態が逼迫している(安易にコメントできない)ことなのかと、思うのであるが。

なお、NHKは、アメリカ領であるセントローレンス島を取材した番組を作っている。表向きは、現地に居住する先住民の人たちの生活のドキュメンタリーということであったが、こととしだいによっては、ここは、アメリカとロシアの、北極海の覇権をめぐる最前線基地になる。それを見こして、取材のカメラがはいったということなのだろうと思っている。

2025年11月29日記

未解決事件「File.08 日本赤軍 vs 日本警察 知られざる攻防 前編」2025-12-04

2025年12月4日 當山日出夫

未解決事件 File.08 日本赤軍 vs 日本警察 知られざる攻防 前編

テロリストとは交渉しない……これが、今の世界の常識だと思っている。

日本赤軍のことについては、私は、そのニュースが記憶のうちにある世代ということになる。重信房子が捕まったというニュースを見たときは、正直にいえば、まだ生きていたのか、とおどろいたぐらいである。

今の時代に、日本赤軍のことを番組に作るとすると、こんな感じになるのだろうと思って見ていた。

60年安保の時代をふりかえれば、その運動に加わっていた学生たちに対して、共感するところが、警察の側にもあった、ということは、よく語られることだと思っている。時代的背景を考えるならば、安保闘争は、それなりの存在意義があったとはいえるだろう。

だが、その後の歴史を見ると、安保闘争の理想とはかけはなれた方向に、社会が変わっていき(はっきりいえば、日本が豊かになった)、世界の状況も変わっていった(東西冷戦があり、それが終わった)、こういう変化のなかで、革命ということを夢みることが、どれほど無謀だったかと、今からふりかえれば思うことではあるが、このように思う人たちがいたことは、否定できないことである。

テルアビブの事件のとき、犯人の岡本公三が、ブルジョアは殺すとはっきり言っている映像は、今から見れば噴飯物であるにちがいないが、この時代においては、共感する人も少なくなかったかもしれない。

重信房子が日本に帰ってきたとき、それを歓待するということが、日本の一部の人たちの考えであった。左翼系のジャーナリストであったり、であるが。重信房子が日本にもどったということは、ニュースとして価値があるとは思うのだが、それを英雄視するようなことには、私としては、どうしても違和感があった。

法的には、裁判があり、しかるべき刑期を終えた人としては、一般市民として普通にあつかうべきなのである。ことさら重信房子を英雄視することはないとは思うが。逆に、悪逆非道なテロリストとして批難することも、避けるべきことかとも思う。このあたりの判断や感情は、人によってかなり微妙なところがあるだろう。

福田首相のときの、人間の命は地球よりも重い……これが、その後、日本の世界の中でのあり方に、どれほど影響を与えることになったかは、改めて検証する必要があるはずである。少なくとも、日本は、人命をたてにとっておどせば簡単に屈する国と見なされることにつながる。

余計なことを書いておくと……最近の話題でいえば、いわゆる台湾有事というようなことになった場合、人命をたてにとった恫喝ということがありうるだろう。南西諸島の島に、あえて残って、自らが人間の盾になって(それは、ある見方からすれば、勇気ある平和をのぞむ市民の果敢な活動ということになるが)……という事態が起こることが一番懸念されることでもある。そういう人を強制的に排除する(保護する)ための法的整備と手段の確保が、何より急務ということは、容易に考えられる。おそらく核兵器による脅しよりも、効果的(ことをややこしくする)であることはまちがいない。

人命と法秩序ということで番組をしめくくっていた。これは、私に言わせれば、人命という「観念」と、法秩序という「実感」の問題でもある。逆説的なようだが、人間は人命を観念的にしか把握しえないものであり、同時に、今の自分の生きている歴史・社会における秩序(法秩序)は生活の実感として感得するものであるからである。

人命を観念的にとらえているからこそ、それを地球の重さと比較するような、無意味なことになる。一見すると、これは究極の問いであるかのごとくである。人命は、その本人にとっては尊い。ハイジャックされた飛行機に乗っていた人としては、それが実感である。だが、地球の重さと比較するときには、きわめて観念的になっている。生命の価値は、実感でありつつも、同時に、観念でもある。

政治とは、その生命を、数としてとらえ、あるいは、社会的歴史的な文脈でどう位置づけるか、ということについての冷静で冷酷な、そして、実際的な、判断であるしかない。(だから政治が悪いことだということではない。政治とはそういうものだということである。)

本来ならば政治的に無意味な問題の設定を、なにかしら非常に意味のあるようなものにしてしまったということ(その価値は日本国内でしか通用しない)、これは、日本の政治史において、テロリストに屈したということよりも、致命的な失敗であったということになる。

素朴な感情として人命は尊いのである。このことは否定しない。しかし、人命はなぜ尊いと一般的にいえるのか、人命より尊いものがあるとすれば、それは何なのか、について考えてきたのが、人類の文化の歴史ということだとは、思うことでもある。

2025年12月2日記

BS世界のドキュメンタリー「北欧 新冷戦に備える 中立を捨てた“西側の最前線”」2025-12-05

2025年12月5日 當山日出夫

BS世界のドキュメンタリー 「北欧 新冷戦に備える 中立を捨てた“西側の最前線”」

2025年、フランスの制作。

これが今の世界の現実である。これと比べて日本では……といろいろと思うところはある。

別にこの番組が特に反ロシア的、強いて言えば好戦的、ということではないと思う。ロシアのウクライナ侵攻をうけて、ヨーロッパの安全保障の地図は大きく変わった、このことの現実をまず理解する必要がある。ヨーロッパのように、過去の歴史の中で、領土を戦争でうばったり、うばわれたり、ということが相互に積み重なってきて、とりあえずということになるのが、現在の領土(国境)であり、そこに近代の国民国家がなりたっている。

国家の国民であるかぎり、国防に責任があるのは当然である、こういう意識が人びとの中に根づいていることが理解される。(その一方で、平和主義ということも、共存するのが、まさに歴史であり政治であると思うのであるが。)その国の国民であるということは偶然の所産である。自分で選び取って、その国に生まれたということではない。この意味では、愛国心というのは、自己の宿命を引き受ける覚悟ということになる。(その一方で、国籍離脱の権利もあり、他の国に移ることも、人権として重要であることの認識もある。ここに、近代的な国民国家、市民社会ということの要諦を、私は見出したい。)

日本だと、敵がいて攻めてくる可能性があるので国防……と言っただけで、戦争の準備をしている、侵略主義だと、猛批判されるのだが、ここは冷静に現実を見ることが必要だろう。それにしても、いまだに、軍備というと、コスタリカのことを事例に出してくる人があとをたたないのは、もうどうしようもないというべきかもしれないが。(個人的には、馬鹿につける薬はないとしかいいようがないと思うことになるが。)

王女……未来の国王になるはずだが……が、軍務にしたがい、国民の前に軍服姿であらわれるというのは、おそらく日本の皇室については、考えがたい。たしかに、明治天皇とか昭和天皇の軍服姿がイメージされるのではあるが、しかし、実際に軍務についたということではない。大元帥としてのイメージである。敬宮愛子内親王殿下(こういう場合、愛子さまとはいいにくい)の、軍服の姿を考えてみないわけではないけれど、現実には、かなり無理があるかもしれない。

番組のタイトルには、冷戦、とあるのだが、しかし、北欧の今の状況は、ほとんど戦争の一歩手前であると言っていいだろうか。(同じようなことは、台湾についもいえるだろう。普通に平穏な市民生活がある、その裏には、有事へのそなえが着実にある。)

それにしても、シェルターが全国にきちんと整備されているということは、これは、日本が、いまさら日本が見習おうとしても、もう完全に手遅れである。災害時用の食料の備蓄すらままならない状態と言っていいだろう。

この番組の中では特に言っていなかったが、北極海が戦場になるかもしれないということは、近い将来において、日本のあり方に大きく影響する。北極海の氷が、地球温暖化によって溶けて少なくなることは、北極海航路が日本のシーレーンとして、重要な意味を持ってくるということであり、さらにいえば、北極海への覇権を狙っているのは、ロシアだけではなく、中国もはっきりと意思表示をしている。日本は、その最前線に位置するということを、理解しておかなければならない。

北極海の覇権、あるいは、軍事バランスの鍵になるのは、空母ではなく、原子力潜水艦だろうと思っているのだが、このあたりのことは、専門家の意見をききたいところである。

2025年12月3日記

おとなのEテレタイムマシン「わたしの自叙伝 山本茂實〜野麦峠への道〜」2025-12-05

2025年12月5日 當山日出夫

おとなのEテレタイムマシン「わたしの自叙伝 山本茂實〜野麦峠への道〜」

1980年の番組である。

テレビの番組を見て感動をおぼえるということは、あまりないのだが、(見て、いろいろと考えるということは多いが)、山本茂美のことばは、深くこころにしみいるものがある。

番組のタイトルには、『野麦峠』とある。たしかにこの作品は有名である。しかし、この作者が、『葦』という雑誌を作っていたということは、知らなかった。不明であったとしかいいようがない。(この番組の放送の時代にあっては、『野麦峠』は有名であったが、『葦』は忘れられていた、といっていいだろうか。)

『葦』については、福間良明『「勤労青年」の教養文化史』(岩波新書)で知っていた雑誌である。

青年学校ということについては、知識としては知っていることなのだが、これは、日本における教育(さらには教養や修養になるのだが)の歴史の中で、どう考えられてきたのだろうか。私が読んだことのある日本の教育史にかんする本の多くは、公的な正規の学校教育についてのものがほとんどであった。地方の農村部で、働きながら、あるいは、都市部であっても工場などで働きながら、青年学校などで学んでいた人たちが大勢いたということは、現代のインテリ層(その中に、私自身をふくめて考えることになってしまうのだが)の意識の中で、ぽっかりと抜け落ちている部分かと思う。

私は、慶應義塾大学に学んだのだが(昭和50年の入学)、慶應には通信制もあった。また、大学によっては、夜間もあった時代であるが、これも、時代とともに姿を消してしまったことになる。

現代における、教育をめぐる問題(放送大学や夜間中学、それから、不登校などふくめて)は、また、別の側面から考えることになる。

山本茂美のような生き方、考え方をする人が、少なからずいたのが、かつての日本の社会であったということは、もっと考えられなければならないと思う。私の年代だと、昭和の戦後でも、高度経済成長期までの農村部の生活を、かろうじて実感として感じとれるギリギリのところである。

信州で百姓の生活をしていたとき、東京に出て『葦』を刊行していたとき、山本茂美がどんなことを体験してきたのか、簡単にいいきることはできないにちがいない。『葦』を刊行しようとして集まったときの、早稲田の学生のインテリ意識については、私としても、そう感じるところはあっただろうと思うところがある。しかし、その一方で、早稲田だからこそ、山本茂美のような人がいたとも感じるところがある。(はっきりいって、慶應から出てこなかったかもしれない。)

一番印象に残っているのは、過去の体験をふりかえって、百姓をしているとき、『葦』を編集・刊行しているとき、人間の良い面もたくさん見てきたが、汚い面も見てきたと、言っていたことである。普通は、学歴がない勤労青年であってもという文脈で、人間の善良な面を強調することが多いと思うのだが、その中で、さりげなく、人間の汚い面、ということを言っている。

『葦』という雑誌名を見ると、どうしてもパスカルの『パンセ』を思ってしまうのだが(私自身もそうだったのだが)、そうではなく、執拗に地面に根を張って容易には抜き去ることもできない、枯れない、生命力の強いものとして、「葦」であったことを知った。こういうことを肯定的にとらえる感覚は、もう今の社会では失われてしまったものである。

自らを「市民」と位置づける、場合によっては、「劣等民族」とも言ってしまうような人たちには、もう分からない感覚だろう。無論これは、「国民のみなさま」と言う、今の政治家も同様である。かろうじて、「大衆の原像」という言い方が、なんとか説得力をもっていた時代が最後だろうか。

『葦』の寄稿者の中に、早乙女勝元とか有吉佐和子の名前が出てきていた。有吉佐和子は、現在、読者がもどりつつある作家になっているが、有吉佐和子が、『葦』に親しんでいたということは、私にとって、とても意味のあることだと感じる。

2025年12月4日記

英雄たちの選択「卑怯者と呼ばれて〜信長を裏切った男 荒木村重〜」2025-12-05

2025年12月5日 當山日出夫

英雄たちの選択 卑怯者と呼ばれて〜信長を裏切った男 荒木村重〜

磯田道史は、数少ない、司馬遼太郎を評価する歴史家だと思っている。なので、番組の中で、司馬遼太郎の名前は出てきていなかった。だが、私の思うところでは、織田信長を時代に先んじた革新的な戦国武将として描いたのは、司馬遼太郎の『国盗り物語』である。斉藤道三から織田信長へと、時代を新しい発想で変えていった物語である。(小説としては、とても面白い。)

織田信長は偉大な革新者であった。だから、その織田信長に逆らうような武将は、旧弊な愚か者である……まあ、たしかにそういうことになるだろうなあ、と思う。この意味では、司馬遼太郎の罪は大きい。

荒木村重というと、私の頭の中では、米澤穂信の『黒牢城』の主人公である。

この回で面白いと思うところは、戦国の戦乱を、ロジスティックスの点から見ていることである。有岡城がもちこたえるためには、尼崎城があって、瀬戸内海の海運をつかって毛利からの補給が確保できていることが絶対条件になる。この点では、有岡城と尼崎城を分断して、その兵站のルートが立たれると、有岡城はもちこたえられない。

明治維新を薩長の視点でみる薩長史観をどうにかしなければならないし、戦国時代を、織田・豊臣・徳川の視点でみる織豊徳史観もどうにかしなければならない……というのは、そのとおりだと思う。(しかし、いずれにせよ、京都の天皇を手中にしたものが勝者であった、ということは確かだと思うところであるが。)

ところで、番組の冒頭に映っていたのは、徳富蘇峰の『近世日本国民史』だった。今では一般にはもう読まれることのない本になってしまっているが、歴史学の世界では、どう評価されるのだろうか。歴史学として意味はないかもしれないが、日本人の歴史観の歴史、という観点からは重要な仕事であるにちがいない。

2025年11月28日記

歴史探偵「「ばけばけ」コラボ 小泉八雲とセツ」2025-12-06

2025年12月6日 當山日出夫

歴史探偵 「ばけばけ」コラボ 小泉八雲とセツ

期待して見ていたというわけではないが、だいたい予想どおりの内容であった。

小泉八雲の日本についての理解としては、肯定的に見れば、明治の20年代のころに、その人びとの考え方や感じ方、生活の感覚、ということに、深い理解をしめした人ということになる。

だが、その一方で、『日本の思い出』など読むと分かることだが、明治になって近代化した日本のこと……学校教育のシステムであったり、軍隊であったり、天皇であったり、教育勅語であったり……についても、まるごと日本のすばらしさ、ということで肯定している。

小泉八雲の見た日本は、すでに近代化がということが人びとの生活の中に浸透し始めていたころであったと、考えるべきだろう。それをまるごと肯定していることになる。

無論、その後の日本のさらなる近代化ということについては、非常に否定的な見方をしている。それは、松江の次に移った、熊本の五高からのことになる。最終的には、東京に移って、日本の近代を象徴する、東京帝国大学で教えることになっている。

こういうところを考えると、小泉八雲の見た日本というのは、非常に恣意的な感覚的判断にもとづくものである、ということもできる。

それから、やはり気になるのは、小泉八雲=松江、と結びつけすぎていることであろう。小泉八雲(このときは、まだ、ラフカディオ・ハーンであるが)は、松江には、一年とちょっといただけにすぎない。日本での活動の大部分は、その後の、熊本、神戸、東京ですごしていることになる。最後は、東京で亡くなっている。その代表作とされる『怪談』は、東京にいたときに書かれたものである。松江にいたときは、ただの御雇外国人英語教師にすぎなかった。

小泉八雲の、現代の価値観では評価するのが難しい部分、松江以外のこと、こういうことについて、もっと触れるところがあっていいと思うのだが、そんなに難しいことなのだろうか。

八雲のセツにあてた手紙が映っていた。これは、興味深い。日本語の表記、学習の問題としては、面白い事例になる。カタカナで書いている。この時代であれば、ひらがなは多くの変体仮名をふくむのが通常であった。この点では、カタカナの方が整理されているし、書き方も直線を主体とするものなので、書きやすい。八雲が、どのようにしてカタカナを習得したのか、日本語研究のこととしては非常に興味のあるところである。

2025年12月4日記

映像の世紀バタフライエフェクト「アメリカと中東 終わりなき流血」2025-12-06

2025年12月6日 當山日出夫

映像の世紀バタフライエフェクト アメリカと中東 終わりなき流血

この回の協力は、酒井啓子。現代の中東問題の専門家として知られる。

見ていて思ったことは、出てきていなかったのが、サイクス・ピコ協定、そして、アラビアのロレンス。これまでの「映像の世紀」シリーズだと、中東問題となると必ず言及があったのだが、この回では、まったくふれることがなかった。

それから、イスラムということばは可能な限り使わないように作ってあった。また、アラブということばもほとんど使っていない。このあたりは、かなり周到に考えて作ったという印象がある。

メインは、イラクとイラン、そして、そこに介入することになるアメリカ、ほぼこの三者の歴史、ということになっていた。

さかのぼれば、イランは、ペルシャであったし、言語としては、ペルシャ語の国ということになる。イスラムの中では、シーア派の国ということになるだろう。無論、中東のそれぞれの地域……その範囲となるのは、必ずしも今の国家の領域と重なるわけではない、ということが、中東の問題のややこしさだろうと思っているが、そのややこしさがどんなものかについては、基本的にふれることがなかった。

ソ連のアフガニスタン侵攻のことも、まったく出てきていなかった。(アフガニスタンは、地域としては、中東というよりも、中央アジアになるのだが、しかし、現代のイスラムの問題を考えるときには、さけてとおることはできないはずである。中東というエリアではない、ということで、アラブの春のこともふれることをしなかったと理解していいだろうか。)

イランのアメリカ大使館の事件は、イランとアメリカとの関係において重要なことだが、それが起こったことは言っていたが、どう解決したのか、このことによってどんな問題が残ったのか、ということについては、何もいわなかった。

非常にシンプルな構図……イランとイラクとアメリカ……ということで語っているのだが、見ていて、それほど大きな破綻や矛楯を感じるところなく作ってあったのは、うまく考えたということになるのだろう。

私の思うこととしては、ただ、アメリカが余計な介入をしなければよかった、ということではすまないことが多くあるはずであり、近現代の国際社会の中で、イスラムの地域の人びとが、どのようにして生きていくことになるのが良いことなのか……近代的な国民国家の枠組みで対処できるのか……というあたりのことは、もうちょっと踏み込んで語るところがあってもよかったかもしれない。

憎悪の連鎖ということは、望ましいことではない。気に入らない相手を、この世界から抹殺してしまうべきだと考える人がいる。これは、現実のものとなったときには、ジェノサイド、民族浄化として、厳しく指弾されることである。だが、このような思い……敵対する相手を消し去りたい……をいだく人が、現実に存在するということは、たしかなこととして認めなければならないことである。

これは、その原因を作りだしたのが誰かという詮索をすることでは、解決できない問題である。

2025年12月5日記

ブラタモリ「信長の安土城▼わずか3年で消えた幻の城!信長が描いた夢とは?」2025-12-06

2025年12月6日 當山日出夫

ブラタモリ 信長の安土城▼わずか3年で消えた幻の城!信長が描いた夢とは?

安土城については、いろいろと研究が進んできて、実際にどんなだったか、かなり分かるようになってきている、ということだと思う。信長が、安土城を作ったのは、琵琶湖のことがあって、その水運を考えてのことであり、また、畿内をおさえる要衝でもあったということである。

見ていて、私が一番興味深く思ったのは、今ではもう無くなってしまった琵琶湖の内湖。昔は、安土城の近くまで水辺であった。それが、昭和の戦前までは残っていた。では、なぜ、その湖を埋め立てたのだろうか。おそらくは、干拓して農地にしたということなのかと思うのであるが、この経緯や理由、そして、その現在の様子ということが、知りたいところである。そして、これらをふくめて、琵琶湖のまわりに人びとがどんな生活をいとなんできたのか、総合的に考えることになる。

楽市楽座は、歴史の教科書にはかならず出てくることである。特に、信長の先見性をしめすものとしてあつかわれる。これは、日本の経済史の全体をみわたしたときには、どのように考えられることになるのだろうか。その後、江戸時代になれば、藩を単位としての統制経済という方向になったかとも思える。産業、交易、流通、経済、ということに、それぞれの時代の為政者は、どうかかわってきたのか、あらためて考えることがあっていいかと思っている。(とはいえ、今から、こういうことを自分で勉強してみようという気にはならないでいるのだが。)

2025年12月5日記

『とと姉ちゃん』「常子、大きな家を建てる」2025-12-07

2025年12月7日 當山日出夫

『とと姉ちゃん』「常子、大きな家を建てる」

最終盤になったのだが、このドラマをそう面白いとは思わなくなっている。いろいろ理由はあるのだが、商品テストということについて、「あなたの暮し」の編集の視点からのみ描いているということがあるからなのかと思う。

戦後の日本の高度経済成長期にあって、家電製品などの開発や販売にあたって、実際に、企業の技術者たちは、何を思っていたのだろうか。こういうことが私としては、とても気になることなのだが、ドラマの中では、まったく出てこない。

せいぜい、アカバネという会社を、かなりステレオタイプに描くことはあったのだが、それだけである。

実際にあった企業の名前を連想させるような脚本にはしたくない、ということはあったのだろうと思う。しかし、それにしても、ちょっと遠慮しすぎという気がしてならない。

また、何度も書いていることだが、昭和の戦後の人びとの生活の感覚の変化ということが、出てきていない。洗濯機や炊飯器について、家庭の主婦は、実際にどう感じていたのか。さらには、それが、買えないような貧乏な人びともいたはずだが、その人たちは何を思っていたのか。どうも、見ていて、こういうことに想像力がひろがっていかない。

にもかかわらず、ドラマの中で、働く女性の待遇、ということが出てきても、ほとんど何にも共感するところがない。

2025年12月6日記

『どんど晴れ』「失意の帰郷」2025-12-07

2025年12月7日 當山日出夫

『どんど晴れ』「失意の帰郷」

この週は、盛岡での女将修行をあきらめて、横浜に帰った夏美のことであった。加賀美屋で、女将修行での苦労を描くドラマといういことで見ているのだが、途中にこういう挫折(?)ということも、あっていいことになる。

ただ、見ていて思うことだが、ちょっと話しの筋に無理を感じる。

夏美は、仲居としてミスをしたということになるが、その責任のとりかたと、加賀美屋という旅館の経営のあり方とは、別の次元のことだろうと思う。女将修行中、仲居見習いという立場であっても、旅館の従業員であることには変わりないのだから、組織としての加賀美屋において、何の処分もない、ということにはいかないはずである。普通は解雇ということになるかもしれないが、それでは、ドラマにならないから、このドラマのように作ってあるのかと思う。そう思って見るのだが、しかし、ちょっと無理があるかなあ、とは感じてしまうところである。

それから、横浜に帰ってきた夏美を、柾樹は自分のアパートに泊める。これもどうだろうか。こういうときには、柾樹は自分の勤務しているホテルに部屋を用意して、そこに泊まらせる。そこで、旅館とホテルという違いはあっても、宿泊・接客業ということの、基本の考え方を学び直すきっかけになる、というような展開の方が、素直ではないかと、見ながら思って感じたことである。

柾樹がホテルにつとめているということが、これまでの話しのなかで、ほとんど意味のあることとして描かれていない。普通の企業の会社員であっても、同じようなドラマになるだろう。さて、柾樹のつとめるホテルのことが、これからドラマの展開にどうかかわるのだろうか。(以前にも、一度、見ているのだが、このことがほとんど記憶に残っていない。)

2025年12月6日記