おとなのEテレタイムマシン「土曜美の朝 少女のかたち 私のかたち 人形作家 四谷シモン」 ― 2026-02-24
2026年2月24日 當山日出夫
おとなのEテレタイムマシン「土曜美の朝 少女のかたち 私のかたち 人形作家 四谷シモン」
四谷シモン、渋澤龍彦、唐十郎……こうならんで出てくると、すぐにはつながらないが、しかし、ある時代をあらわす仕事をした人たちだなあ、という気になる。今の若い人は、名前を知っていればいい方かもしれない。
四谷シモンの人形には、不思議なエロスがある。
今の時代、性的と感じるなにかがあるだけで、一部の人たちからは忌避されるという傾向があるのだが、しかし、エロスといって、そこに魅力を感じるのも、また人間である。
人形の大きさ……これも大事なことだろう。小さな人形では感じないが……現代では、ドールということになるが……四谷シモンの作る人形は、等身大とまではいかないかと思うが、かなりの大きさがある。人形や彫刻もそうだし、また、絵画でも、その物理的な大きさというのは、重要な要素である。こういう視点で見ると、演劇は生身の役者の身体という大きさの制限の中であるもの、ということが分かる。その対極には、文学などは、物理的な大きさから無縁である。しかし、書物になったときには、その大きさがある。だが、口承の文学、また、電子テキストというものを考えると、物理的な大きさということとは無関係になる。
彫刻や絵画であっても、どのような大きさのものを、どのような距離から見るのか、ということは、考えるべきことになる。
「春の波濤」に四谷シモンが出演していたことは知らなかった。このドラマのことは憶えているのだが。(科白のなかで、「立女形」を「たておやま」と言っていた。現在、「女形」は普通には「おんながた」を言うようになっている。)
2026年2月18日記
おとなのEテレタイムマシン「土曜美の朝 少女のかたち 私のかたち 人形作家 四谷シモン」
四谷シモン、渋澤龍彦、唐十郎……こうならんで出てくると、すぐにはつながらないが、しかし、ある時代をあらわす仕事をした人たちだなあ、という気になる。今の若い人は、名前を知っていればいい方かもしれない。
四谷シモンの人形には、不思議なエロスがある。
今の時代、性的と感じるなにかがあるだけで、一部の人たちからは忌避されるという傾向があるのだが、しかし、エロスといって、そこに魅力を感じるのも、また人間である。
人形の大きさ……これも大事なことだろう。小さな人形では感じないが……現代では、ドールということになるが……四谷シモンの作る人形は、等身大とまではいかないかと思うが、かなりの大きさがある。人形や彫刻もそうだし、また、絵画でも、その物理的な大きさというのは、重要な要素である。こういう視点で見ると、演劇は生身の役者の身体という大きさの制限の中であるもの、ということが分かる。その対極には、文学などは、物理的な大きさから無縁である。しかし、書物になったときには、その大きさがある。だが、口承の文学、また、電子テキストというものを考えると、物理的な大きさということとは無関係になる。
彫刻や絵画であっても、どのような大きさのものを、どのような距離から見るのか、ということは、考えるべきことになる。
「春の波濤」に四谷シモンが出演していたことは知らなかった。このドラマのことは憶えているのだが。(科白のなかで、「立女形」を「たておやま」と言っていた。現在、「女形」は普通には「おんながた」を言うようになっている。)
2026年2月18日記
サイエンスZERO「体の秩序を守る!“細胞競合”研究最前線」 ― 2026-02-24
2026年2月24日 當山日出夫
サイエンスZERO 体の秩序を守る!“細胞競合”研究最前線
ちょっと悪いやつを、仲間から追い出す……というのは、イメージしやすい。
やはり気になることとしては、細胞がおたがいにどのようにしてコミュニケーションしているのか、ということである。ちょっと悪いやつを感知するのはどのようなセンサーがはたらいてのことなのか、また、普通の細胞どうしが共同で悪いやつを排除するのには、どういうシステムがあってのことなのか。ちょっと悪いやつといっても、いろんなのがあるかとも思える。
がん細胞が排除されずに、体の内側に入っていくということなのだが、そもそも、生物にとって、体の内側と外側という区別や認識は、どのようなシステムによっているのだろうか。
細胞と細胞がくっついて体を作っているとして、自分と同じもの、同じ臓器で同じ働きをしているもの、違う働きをしているもの、こういう区別や認識が、そもそもどうなっているのか、ということは、どれぐらい分かっていることなのだろうか。
2026年2月18日記
サイエンスZERO 体の秩序を守る!“細胞競合”研究最前線
ちょっと悪いやつを、仲間から追い出す……というのは、イメージしやすい。
やはり気になることとしては、細胞がおたがいにどのようにしてコミュニケーションしているのか、ということである。ちょっと悪いやつを感知するのはどのようなセンサーがはたらいてのことなのか、また、普通の細胞どうしが共同で悪いやつを排除するのには、どういうシステムがあってのことなのか。ちょっと悪いやつといっても、いろんなのがあるかとも思える。
がん細胞が排除されずに、体の内側に入っていくということなのだが、そもそも、生物にとって、体の内側と外側という区別や認識は、どのようなシステムによっているのだろうか。
細胞と細胞がくっついて体を作っているとして、自分と同じもの、同じ臓器で同じ働きをしているもの、違う働きをしているもの、こういう区別や認識が、そもそもどうなっているのか、ということは、どれぐらい分かっていることなのだろうか。
2026年2月18日記
ビストロボイス「伝統芸能と声の神髄「神田伯山×山寺宏一×尾上右近」」 ― 2026-02-24
2026年2月24日 當山日出夫
これは面白かった。
声の魅力ということは、たしかにあることである。それを、サイエンスの方法論で解明することも、ある程度は可能だろう。だが、声は、それ自体としてあるのではなく、何を語るか、どう語るか、ということをふくめて総合的に判断されるものである。
神田伯山と尾上右近の芸談として見ても、とても面白かった。
私は、人間を、その出自で判断するということは嫌いなのであり、意図的に避けていることである。しかし、尾上右近については、やはり、その出自を抜きにその魅力を語ることはできないだろう。
同じように科白を言う場合でも、立役と女形では違うし、清元を唄う(と言っていいのだろうか)場合では、また違う。それぞれの特徴をふまえつつ、地声と裏声が切れ目無くスムーズに繋がっている。これは、技術なのか、天性なのか。
それにしても歌舞伎座で、マイクやスピーカなしで、2000人の観客に声をとどかせるというのは、すごい。(昔、学生相手に講義をするとき、200人ぐらいの教室だったらマイクなしでも大丈夫だったが、年をとってくると、それも難しくなってきた。)
どうでもいいことのようだが、清元を、テレビの画面の字幕表示では、清元節とも書いてあり、浄瑠璃の一種、ということで説明してあったのは、芸能史をふまえた番組の制作になっていると感じさせるところである。
声の魅力をどう考えるかも、言語学研究の分野の一つにちがいないが、もうリタイアした身としては、ただ楽しみでこういう番組を見ることにしている。
2026年2月22日記
これは面白かった。
声の魅力ということは、たしかにあることである。それを、サイエンスの方法論で解明することも、ある程度は可能だろう。だが、声は、それ自体としてあるのではなく、何を語るか、どう語るか、ということをふくめて総合的に判断されるものである。
神田伯山と尾上右近の芸談として見ても、とても面白かった。
私は、人間を、その出自で判断するということは嫌いなのであり、意図的に避けていることである。しかし、尾上右近については、やはり、その出自を抜きにその魅力を語ることはできないだろう。
同じように科白を言う場合でも、立役と女形では違うし、清元を唄う(と言っていいのだろうか)場合では、また違う。それぞれの特徴をふまえつつ、地声と裏声が切れ目無くスムーズに繋がっている。これは、技術なのか、天性なのか。
それにしても歌舞伎座で、マイクやスピーカなしで、2000人の観客に声をとどかせるというのは、すごい。(昔、学生相手に講義をするとき、200人ぐらいの教室だったらマイクなしでも大丈夫だったが、年をとってくると、それも難しくなってきた。)
どうでもいいことのようだが、清元を、テレビの画面の字幕表示では、清元節とも書いてあり、浄瑠璃の一種、ということで説明してあったのは、芸能史をふまえた番組の制作になっていると感じさせるところである。
声の魅力をどう考えるかも、言語学研究の分野の一つにちがいないが、もうリタイアした身としては、ただ楽しみでこういう番組を見ることにしている。
2026年2月22日記
よみがえる新日本紀行「雪の中の春〜秋田・湯沢〜」 ― 2026-02-24
2026年2月24日 當山日出夫
よみがえる新日本紀行 「雪の中の春〜秋田・湯沢〜」
再放送である。2024年3月2日。オリジナルは、昭和56年(1981年)。
テレビの番組で、雪国の冬の生活を描くことが多い。そんなに楽な生活ということはないのだが、しかし、そこで生活する人々のことは、気になることであり、また、テレビ番組の素材として、あつかいやすい。これは何故だろう。日本中の人が、雪に閉ざされた冬の生活に郷愁を感じるということではないと思うのだが。
雪国の人びとの描かれ方の系譜、ということで考えてみることになるだろうか。おそらく、川端康成の『雪国』あたりが、一つの転機になっているのかとも、思えるが。
出稼ぎということが、この番組の時代まで、ごく普通のことばだった。地方からの出稼ぎは、農村の生活を支えるものであったと同時に、都市部での高度経済成長に寄与することもあった。戦後の日本の経済史と、人びとの生活史との、交錯するところになる。
見ていて気になったのは、番組に出てきていた高校生。酒蔵で働き、夜間高校に通って、卒業したら農家を継ぐということだった。また、高校を卒業した女の子は、東京に就職するという。この人たちのその後の人生は、どうなったのだろうか。(こういうことを詮索するのが、この番組の趣旨ではないことは分かるのだが、この人たちのその後の人生を、どうしても思ってしまう。)
それから、凧は空にあがって、どうして音がするのだろうか。おの音の出る仕組みがどんなであるのか、これが気になったところである。
今の時代だったら、秋田美人、といって、番組の中で出てきたようなことは、テレビでとても語ることはできないだろう。だが、その文章を書いているのは、昔ながらのインクをつけるペンだった。この時代なら、万年筆が普通になっていたかと思うが、昔ながらの筆記具をつかっていたことになる。横においてあったカメラは、NikonSPのブラックだろうか。
2026年2月19日記
よみがえる新日本紀行 「雪の中の春〜秋田・湯沢〜」
再放送である。2024年3月2日。オリジナルは、昭和56年(1981年)。
テレビの番組で、雪国の冬の生活を描くことが多い。そんなに楽な生活ということはないのだが、しかし、そこで生活する人々のことは、気になることであり、また、テレビ番組の素材として、あつかいやすい。これは何故だろう。日本中の人が、雪に閉ざされた冬の生活に郷愁を感じるということではないと思うのだが。
雪国の人びとの描かれ方の系譜、ということで考えてみることになるだろうか。おそらく、川端康成の『雪国』あたりが、一つの転機になっているのかとも、思えるが。
出稼ぎということが、この番組の時代まで、ごく普通のことばだった。地方からの出稼ぎは、農村の生活を支えるものであったと同時に、都市部での高度経済成長に寄与することもあった。戦後の日本の経済史と、人びとの生活史との、交錯するところになる。
見ていて気になったのは、番組に出てきていた高校生。酒蔵で働き、夜間高校に通って、卒業したら農家を継ぐということだった。また、高校を卒業した女の子は、東京に就職するという。この人たちのその後の人生は、どうなったのだろうか。(こういうことを詮索するのが、この番組の趣旨ではないことは分かるのだが、この人たちのその後の人生を、どうしても思ってしまう。)
それから、凧は空にあがって、どうして音がするのだろうか。おの音の出る仕組みがどんなであるのか、これが気になったところである。
今の時代だったら、秋田美人、といって、番組の中で出てきたようなことは、テレビでとても語ることはできないだろう。だが、その文章を書いているのは、昔ながらのインクをつけるペンだった。この時代なら、万年筆が普通になっていたかと思うが、昔ながらの筆記具をつかっていたことになる。横においてあったカメラは、NikonSPのブラックだろうか。
2026年2月19日記
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