新日本風土記「天神さま」 ― 2026-02-23
2026年2月23日 當山日出夫
死日本風土記 天神さま
再放送である。最初は、2023年4月4日。
最初に映っていた男性が、神社にお賽銭をあげるとき、新しいさらのコイン(500円かな)を使うことにしていると言っていた。こういう習慣があるということは、始めて知った。
北陸で、お正月に天神さまを祀る風習がある。しまい天神から初天神までの一月の間、家の中の床の間に、天神さまの掛け軸をかける。これは、長男が生まれると、新しいのを買うということになっている。
これは、加賀藩の前田家のころから始まったことらしい。おそらくは、としがみさま、の変化したバージョンということなのかな、と思って見ていた。
福井では、このときに焼いたカレイをお供えする習慣である。見ていて、これは、美味しそうだなと思ってしまった。
北野天満宮には、昔、参拝したことはあるが、はっきり憶えていない。今でも、関西のローカルニュースでは、天神さんの縁日とか、お正月の書き初めとか、いろいろと行事がニュースになることが多い。
七保会というのは、とても興味深い。まあ、本当に平安時代から続く家なのかということは、ちょっとあやしいかもしれないが、中世から近世にかけて、京都の町で麹を独占的にあつかっていた、商人の流れということとしては、そういうことになっているのだろうと思う。
福岡の太宰府天満宮には、まだ行ったことがない。境内の梅の木が、奉納されたものだということは、この番組で知った。苗木を植えるのではなく、よそで育って大きくなった梅の木を持ってきて植える。
東京の湯島の天満宮は、これも、昔、行ったことがあるかなと、かすかに記憶にある程度である。
大阪の天満宮にも、行ったことがない。大阪の天神祭のときは、ニュースで、それと知るだけである。(なにも、こんなに暑いときにお祭りをしなくてもいいのにと、毎年、思っている。)
防府の天満宮の、輿が階段をいきおいよく下るお祭りは、豪快というか、お祭りだからこそ、ある種の乱暴なことが許されるのかと思うことになる。
番組に出てきた以外にも、全国に、天神さまは祀られている。天神信仰は、学問の神様ということもあり、また、農耕の神様ということである。
菅原道真の事跡の概要については、日本文化史の常識として知っている程度である。重要なことは、やはり、怨霊信仰ということになるだろうか。非業の死をとげた人物の霊は、適切に祀られなければ、祟りをなす。結果、神様として、祀られることになる。こういう事例は、天神さま以外にもある。
京都の北野天満宮が出てきたので、とりあげなかったかなと思うのが、錦天満宮。京都の繁華街の中にある。この神社を起点として、東西に西方向に伸びているのが、錦市場の通りである。(ここも、今では、外国人観光客で、昔の面影が無くなってしまったようだが。番組の取材のころは、コロナ禍で、逆に人出が少なかったかもしれない。)
天神さまという梅である。我が家にある梅の木は、ようやく陽当たりのいいところの白梅が咲きはじめたところである。庭にある八重の紅梅は、まだ咲かない。
2026年2月19日記
死日本風土記 天神さま
再放送である。最初は、2023年4月4日。
最初に映っていた男性が、神社にお賽銭をあげるとき、新しいさらのコイン(500円かな)を使うことにしていると言っていた。こういう習慣があるということは、始めて知った。
北陸で、お正月に天神さまを祀る風習がある。しまい天神から初天神までの一月の間、家の中の床の間に、天神さまの掛け軸をかける。これは、長男が生まれると、新しいのを買うということになっている。
これは、加賀藩の前田家のころから始まったことらしい。おそらくは、としがみさま、の変化したバージョンということなのかな、と思って見ていた。
福井では、このときに焼いたカレイをお供えする習慣である。見ていて、これは、美味しそうだなと思ってしまった。
北野天満宮には、昔、参拝したことはあるが、はっきり憶えていない。今でも、関西のローカルニュースでは、天神さんの縁日とか、お正月の書き初めとか、いろいろと行事がニュースになることが多い。
七保会というのは、とても興味深い。まあ、本当に平安時代から続く家なのかということは、ちょっとあやしいかもしれないが、中世から近世にかけて、京都の町で麹を独占的にあつかっていた、商人の流れということとしては、そういうことになっているのだろうと思う。
福岡の太宰府天満宮には、まだ行ったことがない。境内の梅の木が、奉納されたものだということは、この番組で知った。苗木を植えるのではなく、よそで育って大きくなった梅の木を持ってきて植える。
東京の湯島の天満宮は、これも、昔、行ったことがあるかなと、かすかに記憶にある程度である。
大阪の天満宮にも、行ったことがない。大阪の天神祭のときは、ニュースで、それと知るだけである。(なにも、こんなに暑いときにお祭りをしなくてもいいのにと、毎年、思っている。)
防府の天満宮の、輿が階段をいきおいよく下るお祭りは、豪快というか、お祭りだからこそ、ある種の乱暴なことが許されるのかと思うことになる。
番組に出てきた以外にも、全国に、天神さまは祀られている。天神信仰は、学問の神様ということもあり、また、農耕の神様ということである。
菅原道真の事跡の概要については、日本文化史の常識として知っている程度である。重要なことは、やはり、怨霊信仰ということになるだろうか。非業の死をとげた人物の霊は、適切に祀られなければ、祟りをなす。結果、神様として、祀られることになる。こういう事例は、天神さま以外にもある。
京都の北野天満宮が出てきたので、とりあげなかったかなと思うのが、錦天満宮。京都の繁華街の中にある。この神社を起点として、東西に西方向に伸びているのが、錦市場の通りである。(ここも、今では、外国人観光客で、昔の面影が無くなってしまったようだが。番組の取材のころは、コロナ禍で、逆に人出が少なかったかもしれない。)
天神さまという梅である。我が家にある梅の木は、ようやく陽当たりのいいところの白梅が咲きはじめたところである。庭にある八重の紅梅は、まだ咲かない。
2026年2月19日記
『八重の桜』「駆け落ち」 ― 2026-02-23
2026年2月23日 當山日出夫
『八重の桜』「駆け落ち」
この回は、久栄のこと。
徳富健次郎(徳冨蘆花)と久栄との関係を描いていたのだが、はっきりいって今ひとつ面白くない。京都の山本と新島の家のホームドラマと思って見れば、これはこれなりにいいかなとも思える。しかし、この時代、明治20年のときのこととしては、ちょっと描き方が雑かなという印象をうける。
『当世書生気質』を読みながら、牛鍋を食べていれば、文明開化の時代の先端的な若者……というのは、どうにも安易すぎるように思える。時代としては、この時代に、二葉亭四迷が登場することになるのだが。
明治の同志社を舞台に、日本の近代のできごとを綴っていこうとすると、どうしてもこのような感じになるのか、ということである。といって、山田風太郎のように大胆なストーリーで、ということもできないだろう。
徳冨蘆花の『不如帰』は、近代の文学史に名の残る作品である。若いときに手にしたことがあったかと思うのだが、さっぱり憶えていない。だが、浪子と武男、ということは知っている。これは、むしろ、文学史的な知識というべきか。
2026年2月22日記
『八重の桜』「駆け落ち」
この回は、久栄のこと。
徳富健次郎(徳冨蘆花)と久栄との関係を描いていたのだが、はっきりいって今ひとつ面白くない。京都の山本と新島の家のホームドラマと思って見れば、これはこれなりにいいかなとも思える。しかし、この時代、明治20年のときのこととしては、ちょっと描き方が雑かなという印象をうける。
『当世書生気質』を読みながら、牛鍋を食べていれば、文明開化の時代の先端的な若者……というのは、どうにも安易すぎるように思える。時代としては、この時代に、二葉亭四迷が登場することになるのだが。
明治の同志社を舞台に、日本の近代のできごとを綴っていこうとすると、どうしてもこのような感じになるのか、ということである。といって、山田風太郎のように大胆なストーリーで、ということもできないだろう。
徳冨蘆花の『不如帰』は、近代の文学史に名の残る作品である。若いときに手にしたことがあったかと思うのだが、さっぱり憶えていない。だが、浪子と武男、ということは知っている。これは、むしろ、文学史的な知識というべきか。
2026年2月22日記
『豊臣兄弟!』「決死の築城作戦」 ― 2026-02-23
2026年2月23日 當山日出夫
『豊臣兄弟!』「決死の築城作戦」
正直に言って、このドラマはあまり面白いとは思わない。
現代版の「太閤記」とはこういうものかと割りきってみれば、それなりに楽しめるドラマだとは思う。しかし、時代劇として見るとしても、人間の心情の機微がこまやかに描かれているという印象はしない。いや、見る人によっては、そういうことを感じるのかとも思うが、私には、あまり説得力のある人物造形とも思えない。
時代考証として、こんなふうに作ったということが分かる部分は、たしかにある。だが、その一方で、あまりに現代的な科白であったり、しぐさであったり、というところが、うまく調和していると感じられない。なんか、ちぐはぐな印象をいだいてしまう。
戦国時代の武将……地侍から、大名クラスまでいろいろだろうが……が、何を考えてこの時代を生きていたのか、これもはっきりしない。戦乱の世を生きのびるために戦っている、という単純なことにはしていないようなのだが、だからといって、この時代の武士のエートス(と言っていいだろうか)が、感じられるというわけでもない。
銭金で動くのが人というものでありながら、武力にものをいわせるときもある。また、(現代的な言い方だが)義理人情で動く部分もある。武士としての忠義のこころもある。家族の情愛もある。いろんな感情がうずまいているドラマになっているのだが、これらがミックスして何かプラスアルファのことが表現出来ているかというと、そうでもないようである。
強いていえば、戦国時代をスラップスティックで描いてみせようということなのかとも思うけれども、その面白みもあまり感じない。
主人公は、小一郎(豊臣秀長)であるとして、兄の秀吉につきしたがう以外、特に何もないようである。秀吉の天下取りの裏で策謀した知恵者という感じでもないし、汚れ仕事を買って出ているというわけでもない。まあ、このあたりは、これからの展開で、どう変わっていくかわからないが。
この回についていえば、川並衆という武士たち……地侍というのだろうか……が、何を思って、この時代を生き抜いてきたのか、地元の人びと(いわゆる百姓であるが、農民とは限らない)と、どういう関係であったのか。川の水運を使う技術を持っていたということなら、その技術は、どういうことで会得したということなのか、背景の説明がない。歴史考証をもっと頑張れというべきか、脚本がもっと想像力を持てというべきか。
山の木材を伐採して加工する技術と、川をつかって運搬する技術と、城を作る技術と、この時代の産業と武士ということで、もっと面白く描ける部分があるだろうと思うのだが。
墨俣一夜城……をもし歴史的、特に軍事史的に考えるとすると、ロジスティックスのこと、工兵のことなど、総合的に見ることになるはずである。こういう視点を抜きにして、ただ川並衆との個人的な紐帯ということにしてしまっていいのかという気がする。
(この意味では、司馬遼太郎の描いた戦国時代、また、『坂の上の雲』から、そう変わっていない。『坂の上の雲』で決定的に欠如していることは、インテリジェンスとロジスティックスの観点である。)
2026年2月22日記
『豊臣兄弟!』「決死の築城作戦」
正直に言って、このドラマはあまり面白いとは思わない。
現代版の「太閤記」とはこういうものかと割りきってみれば、それなりに楽しめるドラマだとは思う。しかし、時代劇として見るとしても、人間の心情の機微がこまやかに描かれているという印象はしない。いや、見る人によっては、そういうことを感じるのかとも思うが、私には、あまり説得力のある人物造形とも思えない。
時代考証として、こんなふうに作ったということが分かる部分は、たしかにある。だが、その一方で、あまりに現代的な科白であったり、しぐさであったり、というところが、うまく調和していると感じられない。なんか、ちぐはぐな印象をいだいてしまう。
戦国時代の武将……地侍から、大名クラスまでいろいろだろうが……が、何を考えてこの時代を生きていたのか、これもはっきりしない。戦乱の世を生きのびるために戦っている、という単純なことにはしていないようなのだが、だからといって、この時代の武士のエートス(と言っていいだろうか)が、感じられるというわけでもない。
銭金で動くのが人というものでありながら、武力にものをいわせるときもある。また、(現代的な言い方だが)義理人情で動く部分もある。武士としての忠義のこころもある。家族の情愛もある。いろんな感情がうずまいているドラマになっているのだが、これらがミックスして何かプラスアルファのことが表現出来ているかというと、そうでもないようである。
強いていえば、戦国時代をスラップスティックで描いてみせようということなのかとも思うけれども、その面白みもあまり感じない。
主人公は、小一郎(豊臣秀長)であるとして、兄の秀吉につきしたがう以外、特に何もないようである。秀吉の天下取りの裏で策謀した知恵者という感じでもないし、汚れ仕事を買って出ているというわけでもない。まあ、このあたりは、これからの展開で、どう変わっていくかわからないが。
この回についていえば、川並衆という武士たち……地侍というのだろうか……が、何を思って、この時代を生き抜いてきたのか、地元の人びと(いわゆる百姓であるが、農民とは限らない)と、どういう関係であったのか。川の水運を使う技術を持っていたということなら、その技術は、どういうことで会得したということなのか、背景の説明がない。歴史考証をもっと頑張れというべきか、脚本がもっと想像力を持てというべきか。
山の木材を伐採して加工する技術と、川をつかって運搬する技術と、城を作る技術と、この時代の産業と武士ということで、もっと面白く描ける部分があるだろうと思うのだが。
墨俣一夜城……をもし歴史的、特に軍事史的に考えるとすると、ロジスティックスのこと、工兵のことなど、総合的に見ることになるはずである。こういう視点を抜きにして、ただ川並衆との個人的な紐帯ということにしてしまっていいのかという気がする。
(この意味では、司馬遼太郎の描いた戦国時代、また、『坂の上の雲』から、そう変わっていない。『坂の上の雲』で決定的に欠如していることは、インテリジェンスとロジスティックスの観点である。)
2026年2月22日記
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