長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』「公私の区分と人権」 ― 2016-08-10
2016-08-10 當山日出夫
つづきである。今日は、第4章。
長谷部恭男.『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書).筑摩書房.2004
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480061652/
長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』「比較不能な価値の共存」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/09/8148465
まず、「公と私の区分が、決して人間の本性にもとづいた自然なものではないといいうことである。」(p.65)の再確認からはじまる。
「そうした人間の本性を放置すれば、究極の価値観をめぐって「敵」と「友」に分かれる血みどろの争いが発生する。それを防いで、社会全体の利益にかかわる冷静な討議と判断の場を設けようとすれば、人為的に公と私とを区分することが必要となる。」(p.65)
そして、「人権」について、次のようにある。
「比較不能な価値観を奉ずる人々が公平に社会生活を送る枠組みを構築するために、公と私の人為的な区分を線引きし、警備するためのものである。プライバシーの権利、思想・良心の自由、信教の自由は、その典型である。」(p.65-66)
そして、信教の自由、自己決定(同性愛など)、愛国心について述べることになる。
自己決定のところにはこのようにある。
(同性愛などの問題は)「具体的なあれこれの自由が憲法によって保障されているか否かは、二次的な問題であり、核心的な問題を解決した結果を後から振り返ったとき、たまたま現れる帰結である。」(p.69)
そして、立憲主義の本当の目的は、
「人生はいかに生きるべきか、何がそれぞれの人生に意味を与える価値なのかを自ら判断する能力を特定の人間に対して否定することが、許されるか否かである。」(p.69)
としたうえで、
(同性愛などへの反対は)「彼らが心の底から大切にしている生き方が、社会の他のメンバーにとっては「気持ちの悪い」、あるいは既存の「社会道徳」に反するものと思われるからというものである。立憲主義はそうした扱いを許さない。」(p.69)
「愛国心」については、次のようににある。
「過去の歴史ゆえに、それへの反感をも含めてさまざまな反応を呼び起こしがちなシンボル(=国家、国旗のこと、引用者)を正面に掲げて、それへ示された態度のいかんで成績を定めることは、むしろ、社会公共の問題に対するそうした冷静な分析をさまたげ、かえって、学校のなかに、正体のはっきりしないモヤモヤした感情をめぐって亀裂をもたらしかねない。」(pp.70-71)
「国旗や国歌に対する人々の態度は、実際の日本社会に対する人々の態度を鏡のように示しているだけのことである。鏡に映る自分の姿が気に入らないからといって、鏡の像を無理やり加工しようとしても、得られるものは多くはないだろう。」(p.71)
ここで述べられていることを私なりに理解するならば、憲法は公私の区分をする。この方針は厳格なものである。しかし、具体的に何を区分して自由とするかは、きわめて慎重でなければならない。憲法に明記すればよいというものではない。そうではなく、私の感情にかかわる領域があるという区分を意識することこそが重要なのであって、その領域に公がふみこんではならない、ということになる。この姿勢こそが、立憲主義である、と理解する。
この意味においては、憲法に「愛国心」などの、個人の生き方、価値観、感情にかかわることをとりこむことは、立憲主義に反することになる。
憲法によって人権は保障されなければならない。しかし、具体的にどのような権利が、どのように保障されるべきなのかは、慎重なあつかいが必要である。それは、社会のあり方をふまえて、結果的に憲法に反映されるという性質のものである。私は、このように理解して読んだ。
「愛国心」についていえば、それを憲法に明記することは、ふさわしいことではない、ということになる。ただ、これは、「愛国心」そのものを否定しているのではない。立憲主義の立場から、憲法に明記することの是非をめぐっての議論である。
そして、確認しておくならば、愛国心とか、社会道徳とかの問題は、多数決で決めるべきことではない、ということになる。
追記 2016-08-11
このつづきは、
長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』「公共財としての憲法上の権利」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/11/8149599
つづきである。今日は、第4章。
長谷部恭男.『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書).筑摩書房.2004
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480061652/
長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』「比較不能な価値の共存」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/09/8148465
まず、「公と私の区分が、決して人間の本性にもとづいた自然なものではないといいうことである。」(p.65)の再確認からはじまる。
「そうした人間の本性を放置すれば、究極の価値観をめぐって「敵」と「友」に分かれる血みどろの争いが発生する。それを防いで、社会全体の利益にかかわる冷静な討議と判断の場を設けようとすれば、人為的に公と私とを区分することが必要となる。」(p.65)
そして、「人権」について、次のようにある。
「比較不能な価値観を奉ずる人々が公平に社会生活を送る枠組みを構築するために、公と私の人為的な区分を線引きし、警備するためのものである。プライバシーの権利、思想・良心の自由、信教の自由は、その典型である。」(p.65-66)
そして、信教の自由、自己決定(同性愛など)、愛国心について述べることになる。
自己決定のところにはこのようにある。
(同性愛などの問題は)「具体的なあれこれの自由が憲法によって保障されているか否かは、二次的な問題であり、核心的な問題を解決した結果を後から振り返ったとき、たまたま現れる帰結である。」(p.69)
そして、立憲主義の本当の目的は、
「人生はいかに生きるべきか、何がそれぞれの人生に意味を与える価値なのかを自ら判断する能力を特定の人間に対して否定することが、許されるか否かである。」(p.69)
としたうえで、
(同性愛などへの反対は)「彼らが心の底から大切にしている生き方が、社会の他のメンバーにとっては「気持ちの悪い」、あるいは既存の「社会道徳」に反するものと思われるからというものである。立憲主義はそうした扱いを許さない。」(p.69)
「愛国心」については、次のようににある。
「過去の歴史ゆえに、それへの反感をも含めてさまざまな反応を呼び起こしがちなシンボル(=国家、国旗のこと、引用者)を正面に掲げて、それへ示された態度のいかんで成績を定めることは、むしろ、社会公共の問題に対するそうした冷静な分析をさまたげ、かえって、学校のなかに、正体のはっきりしないモヤモヤした感情をめぐって亀裂をもたらしかねない。」(pp.70-71)
「国旗や国歌に対する人々の態度は、実際の日本社会に対する人々の態度を鏡のように示しているだけのことである。鏡に映る自分の姿が気に入らないからといって、鏡の像を無理やり加工しようとしても、得られるものは多くはないだろう。」(p.71)
ここで述べられていることを私なりに理解するならば、憲法は公私の区分をする。この方針は厳格なものである。しかし、具体的に何を区分して自由とするかは、きわめて慎重でなければならない。憲法に明記すればよいというものではない。そうではなく、私の感情にかかわる領域があるという区分を意識することこそが重要なのであって、その領域に公がふみこんではならない、ということになる。この姿勢こそが、立憲主義である、と理解する。
この意味においては、憲法に「愛国心」などの、個人の生き方、価値観、感情にかかわることをとりこむことは、立憲主義に反することになる。
憲法によって人権は保障されなければならない。しかし、具体的にどのような権利が、どのように保障されるべきなのかは、慎重なあつかいが必要である。それは、社会のあり方をふまえて、結果的に憲法に反映されるという性質のものである。私は、このように理解して読んだ。
「愛国心」についていえば、それを憲法に明記することは、ふさわしいことではない、ということになる。ただ、これは、「愛国心」そのものを否定しているのではない。立憲主義の立場から、憲法に明記することの是非をめぐっての議論である。
そして、確認しておくならば、愛国心とか、社会道徳とかの問題は、多数決で決めるべきことではない、ということになる。
追記 2016-08-11
このつづきは、
長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』「公共財としての憲法上の権利」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/11/8149599
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