『真田丸』あれこれ「挙兵」2016-08-30

2016-08-30 當山日出夫

この前のNHKの『真田丸』(第34回、「挙兵」)を見て、いさかか。

第一は、「百姓」ということば。

桃の木を植えるシーン。信繁が、「百姓」ということばをつかっていた。これはやっぱり気になる。「百姓=農民」という発想だろう。もちろん、「百姓」のなかには、農民もふくむことになるのだろうが、決して農民とはかぎらない。このようなことは、網野善彦が強く言っていたことではないのか。このことについては、ついこの前に書いたばかりのことである。

やまもも書斎記 2016年8月28日
網野善彦『歴史を考えるヒント』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/28/8164364

これに対しては、古くは様々な職業を意味したものが、次第に農民を意味するようになってきたと批判もある、と網野も認めてはいる。だが、そのような批判があることを認めたうえで、「百姓=農民」と規定してしまうことの問題点を言っている。

『真田丸』ではどうだろうか。「百姓=農民」という図式で考えていいだろうか。それとも、多様な職種を意味する者としての「百姓」を考えた方がいいだろうか。

第二に、米を単位とすること。

家康は、北条征伐におもむくにあたって、兵糧を、豊臣(茶々)に要望している。そのとき、確か、二万石と言っていたように思う。このあたり歴史考証としてはどうなのだろうか。実際に食料とする意味で米のことを意味したのか、その他の食料をふくめて米に換算してという意味で言ったのか。

ささいなことかもしれないが、日本の歴史を考えるうえでは重要なことだと思っている。日本人は何を食べてきたのか、という問題とつながるからである。米ははたして主食だったのだろうか。米以外に何を食べてきていたのだろうか。このようなことが、ただ、何万石という米の量で言われてしまうと、わからなくなってしまう。

第三は、やはり主人公・信繁の行動の原理である。

エトスといってもよいか。徳川の配下に入ることはないときっぱりと断言していた。では、この信繁のエトスはいったい何なのだろうか。真田のイエの一員として、それを守ることなのか。あるいは、豊臣(あるいは、石田三成)の臣下としての忠誠心なのか。

父・昌幸は、真田のイエのために戦う。さらには、戦国の領土ナショナリズムをもう一度と夢見る。兄・信幸も、真田のイエの一員として戦うことを選んでいる。そのためには、舅の徳川方に敵対することもいとわないと言っていた。では、信繁はどうか。真田のイエの一員であると同時に、豊臣の臣下として天下太平のためにつくすことを考えているように描かれている。もはや戦乱の世にもどることはないとして、父・昌幸を欺く立場をとっている。

ここで、もし戦乱の世を終わらせることを目的とするならば、徳川について、つまり最終的な勝利者になる方につくべきだろう(ただ、これは、歴史の結果を知っている後世の見方ではあるが。)それとも、豊臣に忠誠をつくすことが、天下太平のためになると信じていることになるのか。

このあたりの描き方が、どれほど説得力があるか、ここが、今後のこのドラマの見所ということになるのだろうと思って見ていた。次週のタイトルは「犬伏」。つまり、ここで、真田の一族が、敵味方に分かれる決断をくだすことになる。このとき、信繁の行動のエトスはどのようなものとして描かれることになるのだろうか。