網野善彦『歴史を考えるヒント』2016-08-28

2016-08-28 當山日出夫

網野善彦.『歴史を考えるヒント』(新潮文庫).新潮社.2012 (原著は、新潮社.2001)
http://www.shinchosha.co.jp/book/135661/

網野善彦の亡くなったのは2004年。それを考えると、この本は、著者の最晩年の著作ということになる。と同時に、網野善彦歴史学の入門的な意味も、見いだせるかもしれないと思って読んだ。

自分も年をとってきたせいか……昔、読んだ本、古典的な書物などになるが……を、再度、じっくりと読んでみたいという気持ちが強くなってきている。そのなかで、網野善彦の書いた本で、手軽に読めるものとして手にとってみたものである。

この本の読後感をあげておけば、次の二点になるだろうか。

第一には、網野善彦歴史学の入門書的な意味で読むことのできる本である、ということ。「あとがき」によれば、この本のもとになったのは、1997年の新潮社主催の講演会。その後、『波』に連載。その途中で、著者は、肺癌の手術をうけることになる。このような経過の本ということを考えてみるならば、その最晩年において、それまでの研究を凝縮したものになっていると評価できようか。そして、読んでみても、そのように読める本となっている。

まず、第Ⅰ章が、「日本」という国名、である。「日本」の国号は、いつごろ、どのようにして使われはじめたのか、このあたりから問題を説き起こして「日本史」とは何かを考えていくあたり、網野史学の真骨頂といえるだろう。

ついで、「列島の多様な地域」、「地域名の誕生」、「「普通の人々」の呼称」、「誤解された「百姓」」、「不自由民と職能民」、「被差別民の呼称」、「商業用語について」、「日常用語の中から」、とつづいていく。どの回も、〈ことば〉をてがかりにして、その意味・用法が、歴史的な経緯のなかでどのように発生し、現代に受け継がれてきたのかを、史料にもとづきながら、批判的に考察してある。

網野歴史学……一言でいうにはあまりにも膨大な仕事であるが、その一つの視点のおきかたに、「非農業民」という視点があることは大方の了解が得られるところであろう。「農業民=百姓」を中心とした歴史観への、大胆な挑戦であるといってもよいだろうか。この意味においては、現代の一般の理解は、まだ、農耕定住民(百姓)を中心とした歴史観のなかにあるといってよいであろうか。いまだに、歴史ドラマなど見ると、「~~藩、何万石」というような表現がごく普通に使われている。(これなど、いわゆる年貢について、あるいはその土地のでの生産(農業のみならず商工業全般)について、米に換算していっているだけのことにすぎないと思うのだが、その「換算して」という認識は乏しいように感じている。)

第二に、これは、私の専門とも関連するのだが、やはり、ことばというものの重要性である。

たとえば、次のような指摘。

「日本でも中世、とくに十三世紀後半からは信用経済といってもよいほどに、商業・金融が発達し、さまざまな手工業が広範に展開しており、近世を通じて、商工業は高度の経済社会といってもよいほどに発達していたことは間違いないと思われます。/そのことを証明しているのが、商業に関わる言葉や、実務的な取引の用語には翻訳語がないという事実です。例えばこれから述べるように、「小切手」「手形」「為替」などは中世から古代にまで遡ることができる古い言葉なのです。」(p.153)

日本語史・国語史というような分野にたずさわっている人間のはしくれとしては、このような指摘は、おおいに気になるところである。個々のことばの語誌をたどるというかたちにおいては、歴史学研究者と歩調をあわせることもできるのかもしれない。だが、そこから、ちょっと距離をおいて、そのような種類のことばが、どのような歴史的・社会的・文化的背景をもって、今日にまで使われてきたのか、という点になると、(私の知る範囲でいうことになるが)現在の、日本語史・国語史という分野においては、およばないところが多々あるように思えてならない。

日本語史・国語史という研究分野が、これまで、日本文学・国文学とともにあったという経緯はあるにしても、文学作品のことばのように、精緻な研究が、古文書・古記録などの史料類においてなされているということはないといってよいであろう。このような方面に果敢にとりくんでいる研究者がいることは承知しているが、全体的な傾向としては、まずもって、日本語史・国語史という分野の衰退傾向といってよいかもしれない。ざっくばらんにいえば、日本語研究というのが、現代日本語中心になってきているということでもあるのだが。

やはり、これは、網野善彦のいうように「歴史学」の問題であると同時に、「日本語学」の問題でもある、このような問題意識のもとに、研究の再構築ということが必要なのではないかと思う。

環境はやりやすくなっている。史料・資料のデジタル化である。用例の検索・閲覧ということについていえば、近年は、かなり楽になってきているといってよいであろう。ただ、問題は、どのような研究課題の問題意識を持ってのぞむかということになる。

日本語史・国語史を研究しようとするものは、歴史を学んで、古文書や古記録なども読んであたりまえ、そのことが、日本語研究からも、歴史学研究からも、認識される日のおとずれることを願っている。

追記 2016-09-02
このつづきは、
網野善彦『歴史を考えるヒント』常民
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