長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』平和主義と立憲主義 ― 2016-08-29
2016-08-29 當山日出夫
長谷部恭男.『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書).筑摩書房.2004
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480061652/
やまもも書斎記 2016年8月19日
長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』外国人
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/19/8154768
いよいよこの本の本題のところにさしかかる。第8章「平和主義と立憲主義」のところである。この章、かなりわかりづらいところがあるのだが、ともかく、読みながら付箋をつけた箇所をひろってみることにする。
この章については、
「本章の議論の主要なテーマの一つは、こうした絶対平和主義と立憲主義の間にひそむ深刻な緊張関係を明らかにすることである。」(p.129)
とある。立憲主義……日本国憲法は平和主義の憲法なんだから、それは即ち平和主義にきまっているではないか……という立場を、この本はとっていない。いや、むしろ、そのような短絡的な発想を否定している。立憲主義ということと、平和主義ということとは、そう簡単に結びつくものではないらしい。
「調整問題」「囚人のディレンマ」については、この本に書いてある以上の要約はむずかしいので、割愛することにする。とはいえ、このようなモデルにもとづいて、国家としての意思決定のあり方を考えることは、絶対平和主義……たとえ外国から攻められることがあっても反撃すこともしない……とは、一線を画す議論を構築するためには、必要な手続きであることは確認しておきたい。このような問題が、国際的な国家間にあることをふまえたうえで、憲法について述べた箇所でつぎのようなところが気になった。
「ただ、日本の憲法学者は、法律学者が通常そうであるように、必ずしも、つねに剛直な法実証主義者として法文の一字一句に忠実な解釈を行うわけではない。」(p.142)
としたうえで、
「国は、「いかなる宗教的活動もしてはならない」とする憲法第二〇条にもかかわらず、宗教とかかわる一切の国家活動が禁じられているわけではない。」(p.142)
とある。他に「表現の自由」も例にあげられている。それをふまえて、
「第九条の文言を文字どおりに理解しようとする支配的見解の背景には、それに対応する実質的な根拠が条文の外側にあると思われる。」(p.143)
とある。このあたりの議論になると、法律の専門知識がなければ、憲法の解釈には踏み込めない、という感じになってくる。では、法律学者は、これから先の議論をどのように考えているのであろうか。本書からいくつかひろって読んでみることにする。立憲主義と平和主義との関連では、つぎのような箇所がある。
「国内の政治過程が非合理な決定を行う危険、そして個々の国家にとって不合理な行動が国際社会全体としては非合理な軍拡競争をもたらす危険に対処するためには、各国が、憲法によりそのときどきの政治的多数派によっては容易に動かしえない政策決定の枠を設定し、そのことを対外的にも表明することが、合理的な対処の方法といえる。」(p.155)
これまで読んできたように、立憲主義というのは、ある意味では民主的な多数決を否定するものである。そのときの民主的多数派の意見に歯止めをかけるものとしての立憲主義ということになる。
この観点で、平和主義との関連では、つぎような箇所になるのだろう。
「ことに、第二次世界大戦前において、民主的政治過程が軍部を充分にコントロールすることができず、民主政治の前提となる理性的な議論の場を確保しえなかった日本の歴史にかんがみれば、「軍備」といえる存在の正統性をあらかじめ封じておくことの意義は大きい。」(p.156)
「リベラルな立憲主義にもとづく国家は、市民に生きる意味を与えない。それは、「善き徳にかなう生」がいかなるものかを教えない。われわれ一人ひとりが、自分の生の意味を自ら見出すものと想定されている。そうである以上、この種の国家が外敵と戦って死ぬよう、市民を強制することは困難であろう。以上の議論が正しいとすれば、立憲主義国家にとって最大限可能な軍備の整備は、せいぜい傭兵と志願兵に頼ることとなる。」(p.158)
そして、どのような軍備をそなえておくにせよ、
「合理的自己拘束としての憲法の役割は高まることになる。」(p.159)
としてある。
ここまで読んできたところでは、やはり井上達夫のいうところとするどく対立することになる。井上達夫は、憲法第九条を削除したうえで、徴兵制ということをいっている。
やまもも書斎記 2016年7月24日
井上達夫「憲法と安全保障」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/24/8137326
憲法の、いや、そもそも法律の門外漢としては、どちらの意見がただしいのかは、すぐに判断しかねる。しかし、憲法にもとづいた平和主義といっても、その立論の仕方には、いろんな考え方があることは理解できる。すくなくとも、憲法を尊重する、憲法学という立場からしても、そう簡単に、平和主義と結びつくものではないことが確認できるだろうと思う次第である。素人目には、かなり屈折したというか、複雑な議論が、そこにはあることになる。
追記 2016-08-31
このつづきは、
長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』穏和な平和主義
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/31/8166492
長谷部恭男.『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書).筑摩書房.2004
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480061652/
やまもも書斎記 2016年8月19日
長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』外国人
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/19/8154768
いよいよこの本の本題のところにさしかかる。第8章「平和主義と立憲主義」のところである。この章、かなりわかりづらいところがあるのだが、ともかく、読みながら付箋をつけた箇所をひろってみることにする。
この章については、
「本章の議論の主要なテーマの一つは、こうした絶対平和主義と立憲主義の間にひそむ深刻な緊張関係を明らかにすることである。」(p.129)
とある。立憲主義……日本国憲法は平和主義の憲法なんだから、それは即ち平和主義にきまっているではないか……という立場を、この本はとっていない。いや、むしろ、そのような短絡的な発想を否定している。立憲主義ということと、平和主義ということとは、そう簡単に結びつくものではないらしい。
「調整問題」「囚人のディレンマ」については、この本に書いてある以上の要約はむずかしいので、割愛することにする。とはいえ、このようなモデルにもとづいて、国家としての意思決定のあり方を考えることは、絶対平和主義……たとえ外国から攻められることがあっても反撃すこともしない……とは、一線を画す議論を構築するためには、必要な手続きであることは確認しておきたい。このような問題が、国際的な国家間にあることをふまえたうえで、憲法について述べた箇所でつぎのようなところが気になった。
「ただ、日本の憲法学者は、法律学者が通常そうであるように、必ずしも、つねに剛直な法実証主義者として法文の一字一句に忠実な解釈を行うわけではない。」(p.142)
としたうえで、
「国は、「いかなる宗教的活動もしてはならない」とする憲法第二〇条にもかかわらず、宗教とかかわる一切の国家活動が禁じられているわけではない。」(p.142)
とある。他に「表現の自由」も例にあげられている。それをふまえて、
「第九条の文言を文字どおりに理解しようとする支配的見解の背景には、それに対応する実質的な根拠が条文の外側にあると思われる。」(p.143)
とある。このあたりの議論になると、法律の専門知識がなければ、憲法の解釈には踏み込めない、という感じになってくる。では、法律学者は、これから先の議論をどのように考えているのであろうか。本書からいくつかひろって読んでみることにする。立憲主義と平和主義との関連では、つぎのような箇所がある。
「国内の政治過程が非合理な決定を行う危険、そして個々の国家にとって不合理な行動が国際社会全体としては非合理な軍拡競争をもたらす危険に対処するためには、各国が、憲法によりそのときどきの政治的多数派によっては容易に動かしえない政策決定の枠を設定し、そのことを対外的にも表明することが、合理的な対処の方法といえる。」(p.155)
これまで読んできたように、立憲主義というのは、ある意味では民主的な多数決を否定するものである。そのときの民主的多数派の意見に歯止めをかけるものとしての立憲主義ということになる。
この観点で、平和主義との関連では、つぎような箇所になるのだろう。
「ことに、第二次世界大戦前において、民主的政治過程が軍部を充分にコントロールすることができず、民主政治の前提となる理性的な議論の場を確保しえなかった日本の歴史にかんがみれば、「軍備」といえる存在の正統性をあらかじめ封じておくことの意義は大きい。」(p.156)
「リベラルな立憲主義にもとづく国家は、市民に生きる意味を与えない。それは、「善き徳にかなう生」がいかなるものかを教えない。われわれ一人ひとりが、自分の生の意味を自ら見出すものと想定されている。そうである以上、この種の国家が外敵と戦って死ぬよう、市民を強制することは困難であろう。以上の議論が正しいとすれば、立憲主義国家にとって最大限可能な軍備の整備は、せいぜい傭兵と志願兵に頼ることとなる。」(p.158)
そして、どのような軍備をそなえておくにせよ、
「合理的自己拘束としての憲法の役割は高まることになる。」(p.159)
としてある。
ここまで読んできたところでは、やはり井上達夫のいうところとするどく対立することになる。井上達夫は、憲法第九条を削除したうえで、徴兵制ということをいっている。
やまもも書斎記 2016年7月24日
井上達夫「憲法と安全保障」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/24/8137326
憲法の、いや、そもそも法律の門外漢としては、どちらの意見がただしいのかは、すぐに判断しかねる。しかし、憲法にもとづいた平和主義といっても、その立論の仕方には、いろんな考え方があることは理解できる。すくなくとも、憲法を尊重する、憲法学という立場からしても、そう簡単に、平和主義と結びつくものではないことが確認できるだろうと思う次第である。素人目には、かなり屈折したというか、複雑な議論が、そこにはあることになる。
追記 2016-08-31
このつづきは、
長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』穏和な平和主義
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/31/8166492
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