『三人姉妹』チェーホフ ― 2018-07-21
2018-07-21 當山日出夫(とうやまひでお)
これまで、チェーホフの戯曲について書いたものは、
やまもも書斎記 2018年7月9日
『かもめ』チェーホフ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/07/09/8912315
やまもも書斎記 2018年7月16日
『ワーニャ伯父さん』チェーホフ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/07/16/8918134
やまもも書斎記 2018年7月9日
『かもめ』チェーホフ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/07/09/8912315
やまもも書斎記 2018年7月16日
『ワーニャ伯父さん』チェーホフ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/07/16/8918134
チェーホフの戯曲を、順番に読んでいっている。『桜の園』『三人姉妹』は、この順で文庫本に収められているのだが、発表順からいうと、『三人姉妹』の方がはやいので、こちらから書くことにする。
この作品も、若い時に読んでいるはずの作品であるが、もう、今ではさっぱり忘れてしまっていた。ここで、チェーホフの戯曲を順番に読んでいくことにして、『三人姉妹』も数回は、読み返してみただろうか。とにかく、後の作品になるほど、人物関係が入り組んでくるので、一読しただけでは、登場人物の関係がわからない。
複雑な人間関係があり、また、ナターシャ(アンドレイの妻)の幕を追うごとに変貌していく姿、これらの描写を背景にして、やはりこの作品でも、生きていくことへの意思が、強く表現されている。
それは、最後の、オーリガの台詞、
(楽隊の音を聞いて)あれを聞いていると、生きて行きたいと思うわ! まあ、どうだろう! やがて時がたつと、わたしたちも永久にこの世にわかれて、忘れられてしまう。わたしたちの顔も、声も、なんにん姉妹(きょうだい)だったかということも、みんな忘れられてしまう。でも、わたしたちの苦しみは、あとに生きる人たちの悦びに変って、幸福と平和が、この地上におとずれるだろう。そして、現在こうして生きている人たちを、なつかしく思いだして、祝福してくれることだろう。ああ、可愛い妹たち、わたしたちの生活は、まだおしまいじゃないわ。生きて行きましょうよ!(以下略)」(pp.272-273)
このように最終的には将来に生きていくことへの賛美でおわる。だが、それにいたる筋道は、ストレートではない。ヴェルシーニンとトゥーゼンバフのやりとりに見られるような、逆に、未来への懐疑とでもいうべき考え方をふまえている。作者(チェーホフ)は、最終的に、オーリガに未来への希望を語らせているが、そこにいたるまでには、紆余曲折がある。
短い作品であるが、この作品のなかには、いくつかの人生が凝縮してある。アンドレイとその妻(ナターシャ)の関係、また、三人姉妹のそれぞれの恋の物語。台詞のひとつひとつが、人生を語る重みを持って感じることができる。時として、それは人生に懐疑的であったりもする。人間観察のするどさというべきものを、随所に感じる。登場人物の幾人かは、人生の敗残者とでもいうべき姿をしめしている。
このような作品が、やはり若い時……学生のころ……共感するところが無かったのは、いたしかたのないことかもしれないと、今になって思う。だが、ようやくこのような作品を読んで、感じ入ることのできる年齢、境遇になったと、我ながら思う。文学を読む楽しみである。
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