『仕事としての学問』マックス・ウェーバー ― 2018-07-27
2018-07-27 當山日出夫(とうやまひでお)
マックス・ウェーバー.野口雅弘(訳).『仕事としての学問 仕事としての政治』(講談社学術文庫).講談社.2018
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000310640
従来は『職業としての学問』のタイトルで知られているものである。その新訳。
私が『職業としての学問』(岩波文庫版)を読んだのは、いつのころだったろうか。たしか、大学生になって、日吉の教養の時のことだったように覚えている。そのころ、この本は「必読書」であった、といってよいであろうか。
新しい訳が講談社学術文庫で出たので読んでみた。タイトルが『仕事としての学問』に変えてある。また、かなり丁寧な註解がついている。その当時(ウェーバーがこの本の講演をおこなった当時)の、学問的な、社会的な背景などについて、解説してあるので、読みやすかった。
この本については、これまでにいろんなところでいろんなふうに語られてきている。特に、私が付け加えるほどのこともないにちがいない。とはいえ、自分で読んで思ったことなど書いてみるならば、次の二点になるだろうか。
第一は、学問のおかれている社会的状況である。この講演は、ドイツとアメリカの比較からはじまっている。学者、研究者は、どのようにして、そのキャリアを形成していくことになっているのか、から説きおこされている。
これは、その当時にあってのドイツとアメリカの違いとして読めばいいだろう。そして、現代において、この本を読むときには、現代日本の研究者のキャリア形成の事情とひきくらべて読むことになる。
今の日本の状況はどうか……どう考えて見ても、一世紀前のドイツとも、アメリカとも、違っている。単純に言えることではないかもしれないが、今日の日本で、研究者の道を選ぶというのは、かなりの冒険である。あるいは、無謀と言ってもいいかもしれないような側面がある。
にもかかわらず、世の中を見ていると、若い優秀な人たちが出てきていることは確かでもある。本人の努力もあるのだろうが、運の良さとでもいうしかないところも、そのどこかにはあるにちがいない。
第二は、学問の存在意義である。これは、一世紀ほど前のこの文章を読んでも、今に通じるところがあると感じる。端的に言うならば……学問は、それを研究することに価値があると、それ自体において語ることができるのだろうか、ということになる。
たとえば、次のような箇所。
「こうした事情を前提にした上で、学問は誰かにとって「使命を帯びた仕事」たる価値があるのか、そして学問はそれ自身で客観的に価値ある「使命」をもつのか。これもまた価値判断の問題であり、それについては教室ではなにも言えません。というのも、教室で教えることの〈前提〉になっているのは、この肯定だからです。」(p.77) 〈 〉傍点
このことは今も変わらないだろうと思われる。いやむしろ、現代の方が、その「価値判断」をめぐっては、より混沌とした状況にあるともいえようか。
なぜ、その学問は研究するに価するのか、それを学問自身において語ることは、容易ではない。
だが、そうであるにもかかわらず、特に大学で教えられるような研究については、なぜ、それを教える価値があるのか、そのことについて明かにすることを、強く要請されている。たとえば、人文学はいったい何の役にたつのか、教養とは何か、その説明をもとめる要求は、より強くなってきているといっていいかもしれない。
以上の二点が、何十年ぶりかに、『仕事(職業)としての学問』を、再読してみて、強く印象にのこることである。
教室で語るときは、それを勉強することが、自明のこととして価値あること……そのように語ることになる。が、それと同時に、なぜ、それを教える価値があるのかの説明ももとめられる。
この本、講談社学術文庫という学生にとってはなじみのあるシリーズである。今の若い人たちは、この本を読んでどのように思うだろうか。気になるところである。
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000310640
従来は『職業としての学問』のタイトルで知られているものである。その新訳。
私が『職業としての学問』(岩波文庫版)を読んだのは、いつのころだったろうか。たしか、大学生になって、日吉の教養の時のことだったように覚えている。そのころ、この本は「必読書」であった、といってよいであろうか。
新しい訳が講談社学術文庫で出たので読んでみた。タイトルが『仕事としての学問』に変えてある。また、かなり丁寧な註解がついている。その当時(ウェーバーがこの本の講演をおこなった当時)の、学問的な、社会的な背景などについて、解説してあるので、読みやすかった。
この本については、これまでにいろんなところでいろんなふうに語られてきている。特に、私が付け加えるほどのこともないにちがいない。とはいえ、自分で読んで思ったことなど書いてみるならば、次の二点になるだろうか。
第一は、学問のおかれている社会的状況である。この講演は、ドイツとアメリカの比較からはじまっている。学者、研究者は、どのようにして、そのキャリアを形成していくことになっているのか、から説きおこされている。
これは、その当時にあってのドイツとアメリカの違いとして読めばいいだろう。そして、現代において、この本を読むときには、現代日本の研究者のキャリア形成の事情とひきくらべて読むことになる。
今の日本の状況はどうか……どう考えて見ても、一世紀前のドイツとも、アメリカとも、違っている。単純に言えることではないかもしれないが、今日の日本で、研究者の道を選ぶというのは、かなりの冒険である。あるいは、無謀と言ってもいいかもしれないような側面がある。
にもかかわらず、世の中を見ていると、若い優秀な人たちが出てきていることは確かでもある。本人の努力もあるのだろうが、運の良さとでもいうしかないところも、そのどこかにはあるにちがいない。
第二は、学問の存在意義である。これは、一世紀ほど前のこの文章を読んでも、今に通じるところがあると感じる。端的に言うならば……学問は、それを研究することに価値があると、それ自体において語ることができるのだろうか、ということになる。
たとえば、次のような箇所。
「こうした事情を前提にした上で、学問は誰かにとって「使命を帯びた仕事」たる価値があるのか、そして学問はそれ自身で客観的に価値ある「使命」をもつのか。これもまた価値判断の問題であり、それについては教室ではなにも言えません。というのも、教室で教えることの〈前提〉になっているのは、この肯定だからです。」(p.77) 〈 〉傍点
このことは今も変わらないだろうと思われる。いやむしろ、現代の方が、その「価値判断」をめぐっては、より混沌とした状況にあるともいえようか。
なぜ、その学問は研究するに価するのか、それを学問自身において語ることは、容易ではない。
だが、そうであるにもかかわらず、特に大学で教えられるような研究については、なぜ、それを教える価値があるのか、そのことについて明かにすることを、強く要請されている。たとえば、人文学はいったい何の役にたつのか、教養とは何か、その説明をもとめる要求は、より強くなってきているといっていいかもしれない。
以上の二点が、何十年ぶりかに、『仕事(職業)としての学問』を、再読してみて、強く印象にのこることである。
教室で語るときは、それを勉強することが、自明のこととして価値あること……そのように語ることになる。が、それと同時に、なぜ、それを教える価値があるのかの説明ももとめられる。
この本、講談社学術文庫という学生にとってはなじみのあるシリーズである。今の若い人たちは、この本を読んでどのように思うだろうか。気になるところである。
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