日曜劇場『この世界の片隅に』第三話2018-08-01

2018-08-01 當山日出夫(とうやまひでお)

TBS日曜劇場『この世界の片隅に』第三話
http://www.tbs.co.jp/konoseka_tbs/story/v3.html

前回は、
やまもも書斎記 2018年7月25日
日曜劇場『この世界の片隅に』第二話
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/07/25/8924945

このドラマ、だいたい原作(漫画)を忠実になぞっているようだが、時として、そこにある題材をふくらませて描くところがある。今回でいえば、アイスクリームを、周作と食べるシーンがそれにあたる。

リンと出会うことになる筋道は、ほぼ原作のとおり。アリにとられまいとして、砂糖を水に溶かして無くしてしまう。ヤミ市で買うことになる。その帰り道で、すずは道にまよう。迷い込んだのが、遊郭。そこで、リンと出会う。帰り道を教えてもらう。

リンは、アイスクリームの絵を描いてくれとねだるが、すずは食べた経験が無いので知らない。そんなすずに、周作は二人きりの逢い引きを設定してアイスクリームを御馳走する。この逢い引きのシーンは、原作(漫画)にはあるが、アイスクリームは出てこない。

しかし、昭和19年の呉の街で、果たしてアイスクリームが、街の食堂で食べられたかどうか、ここのところは、問題の残るところかもしれない。雑炊しかメニューにないような時代である。とはいえ、このアイスクリームのエピソードは、ドラマで描いてあって、しみじみと感じ入る場面でもあった。始めてアイスクリームを口にしたすずの表情がよかった。それから、自分で食べてしまわずに、すぐ周作にも食べるようにすすめる。一つのアイスクリームを二人で食べていた。

ところで、リンと周作はどのような関係にあったのだろうか……原作(漫画)では、このあたりが描かれていない。ドラマでは、リンをめぐる人間関係が展開するように見える。それは、次回以降のことになるのだろう。

また、現代のパートもまだ謎につつまれたままである。若い女性は、すずが住んでいた家の持ち主と面識があるらしい。これも、次回以降、徐々に解明されていくことと思う。

岡田惠和脚本は、原作(漫画)の設定をかりて、基本的にその人物造形やエピソードに忠実でありながら、ドラマとして幅を広げて描いていくようだ。その中で、核になるのは、やはり、戦時下という設定ではあるものの、日常生活のいとおしさとでもいうべき感覚である。

ここまで見た感じでいえば、主演の松本穂香の起用は成功であったというべきであろう。原作(漫画)のすずのもっている雰囲気をうまく演じている。それから、径子(尾野真千子)、そして、サン(伊藤蘭)がうまい。リン(二階堂ふみ)もいい感じである。

次回も楽しみに見ることにしよう。

追記 2018-08-08
この続きは、
やまもも書斎記 2018年8月8日
日曜劇場『この世界の片隅に』第四話
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/08/8936597

ギボウシ2018-08-02

2018-08-02 當山日出夫(とうやまひでお)

このところ、水曜日は、『この世界の片隅に』について書いているので、花の写真は、木曜日になる。

前回は、
やまもも書斎記 2018年7月26日
庭石菖
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/07/26/8925543

我が家にいくつかギボウシがある。ここに掲載の写真のものは、白い花を咲かせる。かなり以前、二月ほど前になるだろうか、写しておいたものである。(今年の夏は異常に暑い。ちょっと外に出て、花の写真を写してみようという気にならないので、以前に写しておいたストックからである。)

ギボウシを日本国語大辞典(ジャパンナレッジ)で見てみると、古くは、堤中納言物語から見える。平安時代の昔から、親しまれてきた花のようである。古辞書としては、色葉字類抄にあるよし。ただ、この花の名前は『言海』にはないようである。

個々の花は可憐な感じがするきれいな花であるが、その花の咲く方向が、それぞれバラバラであるので、写真に撮るのはちょと難しい。花一つだけを、フレームにおさめる構図のものになってしまう。

ギボウシ

ギボウシ

ギボウシ

ギボウシ

ギボウシ

Nikon D7500
AF-S DX Micro NIKKOR 85mm f/3.5G ED VR

追記 2018-08-09
この続きは、
やまもも書斎記 2018年8月9日
ナンテンの花
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/09/8937389

『西郷どん』における方言(六)2018-08-03

2018-08-03 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである、
やまもも書斎記 2018年5月24日
『西郷どん』における方言(五)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/05/24/8858578

ドラマはいよいよ幕末明治維新の前夜という段階になって、いろいろと新しい登場人物が出てきている。ドラマにおける方言使用の面から見ても興味深い。

まず、西郷吉之助であるが、あいかわらずの薩摩ことばである。ただ、その薩摩ことばも、薩摩藩の身内と話すときは、純然たる薩摩ことばのようだが、一橋慶喜と話すときは、標準的な武士ことば(時代劇語)にすこし、薩摩的要素をくわえたような話し方になっている。こことは、あくまでも、薩摩出身の西郷として薩摩ことばを止めるわけにはいかない。しかし、その純然たる薩摩ことばのままでは、一橋慶喜とのコミュニケーションがとれたはずはない、というあたりの折衷的なところだろうか。

薩摩ことばが薩摩というリージョナリズムの表象であるとう意味では、ふき(ドラマの現在では、一橋慶喜の側室)のことばが興味深い。一橋慶喜と話すときは、標準的な日本語(時代劇女性ことば)であるが、西郷吉之助と話すときは、薩摩ことばになっていた。

それから、坂本龍馬。これは、もう約束として、土佐ことばである。また、勝海舟は、江戸のことば。それも、かなり下町風の武家ことばと言っていいだろうか。これで、この二人のコミュニケーションがなりたっているように描かれている。この坂本龍馬、勝海舟と話すときの、西郷吉之助のことばは、薩摩ことばであった。

日本語史の問題として、幕末のころ、武士たちの間で、どのようなことばが、一般的に使われていたのか、ということは確かにある。だが、それとは別のこととして、ドラマにおいては、それぞれの登場人物の背景として、そのことばがある。西郷吉之助の薩摩ことばであり、坂本龍馬の土佐ことばである。

このあたりのことは、実際にそれでコミュニケーションできたかどうか、という観点よりは、幕末時代劇の約束として、そのようなことばを使わせているということで理解しておけばいいのだろう。さらに考えて見るならば、時代考証として、その当時の人びとがどのようなことばを話したかではなく、どのようなことばを話す人間としてふるまうことを期待しているか、である。

幕末、明治維新は、あくまでも、登場人物の出身地(土地、藩)を背負ったものとして、その活躍を描く、このような時代劇ドラマの約束として、そのように作ってあると理解して見ておけばいい。逆に視点を変えてみるならば、幕末、明治維新は、地方出身者(江戸をふくめて)が、そのドラマの立役者である、ということになる。その出身を背景として背負って、その活動がある……このように、今日の視点からは、幕末、明治維新を見ていることになる。その地方出身者が、作っていったのが、近代日本ということになる。地方出身者が、一つの「日本」を作りあげていったというところに、近代日本のナショナリズムの一つのイメージが形成されていっていると言ってよかろう。

今日において、幕末、明治維新をドラマとして描くとき、その出身地のことば(方言)を重視しているということは、近代ナショナリズムが、全国民的な広がりのなかで形成されてきた……このような今日の歴史観を表しているともいえる。さらにいうならば、薩摩が日本になり、土佐が日本になる、その過程としての、幕末、明治維新として考えていることになる。あるいは、薩摩や、土佐や、長州をふくんだものとしての、近代日本ということもできる。各地域のリージョナリズム、また、パトリオティズムが、総合したところになりたっている、ナショナリズムなのである。少なくとも、現代から過去を見てイメージする、この時期のナショナリズムは、純朴でもある。

ここには、リージョナリズム、パトリオティズムと、ナショナリズムの、素朴な融合した意識の形態、歴史観を見て取ることができる。

蛇足で書くならば……昭和戦前期の皇国ナショナリズムは、素朴なリージョナリズムを圧迫したところに成り立っている、幕末、明治初期とは、次元のことなるものになってしまっていた、とも言ってよいかもしれない。

『われらの時代』ヘミングウェイ2018-08-04

2018-08-04 當山日出夫(とうやまひでお)

ヘミングウェイ全短編1

ヘミングウェイ.高見浩(訳).『われらの時代・男だけの世界-ヘミングウェイ全短編1-』(新潮文庫).新潮社.1995
http://www.shinchosha.co.jp/book/210010/

ヘミングウェイの主な長編、『日はまた昇る』『武器よさらば』『誰がために鐘はなる』を読んだ。『老人と海』も読んだ。これらについては、このブログに書いてきた。次に読んでおこうと思ったのは、短篇集である。ヘミングウェイは、むしろ短編作家としての評価の方が高いのかもしれない。

まずは、新潮文庫の「ヘミングウェイ全短編1」から読むことにした。この本には、二つの短篇集が収められている。「われらの時代」と「男だけの世界」である。まずは、「われらの時代」から。

文庫本の解題によると、この短篇集は、ヘミングウェイがパリ滞在の時期に書かれたものらしい。そして、この短篇集で、ヘミングウェイは、作家として世に出ることになった。

読んで感じることを記せば、次の二点になる。

第一は、短篇小説という文学の形式が確立していて、それを使っての文学である、ということ。

私も年をとってきて、昔読んだ小説など読みなおしたりしているのだが、その中で、短編小説という文学の形式の成立が、新しいことを改めて知った。19世紀になってから。例えば、モーパッサンなどが、短編小説という文学の形式の確立に大きくかかわっている。(このあたりの詳しい経緯については、西欧近代文学の専攻というわけではないので、概略しか知らないのだが。)

ともあれ、「われらの時代」を読んで感じることは、短編小説という文学の形式を十分に駆使して書かれている。個々の短篇の作品としての完成度も高いが、短編小説集という形式でも、確固たるものになっている。

第二は、これは、個人的な思い出なのだが……この「われらの時代」に収められている作品については、高校生ぐらいのときに、英語の勉強で、参考書か何かで読んだ記憶がある。高校生でも読める程度の、いわば比較的やさしい単語で書かれている。構文も難しくはない。

だが、使われている単語・構文がそう難しいものではないということと、書かれていることの文学的感銘とはまた別である。いわゆる「ハード・ボイルド」というスタイルの文学と言ってもよいだろうか。特に、ニックを主人公とした作品のいくつかは、主人公視点で、きわめて簡潔で無駄の無い文章であり、余計な感情表現などがない。硬質な文体と言っていいかもしれない。

このような硬質な文体の新しさ……これは、今日の文学では珍しいものではないかもしれないが、「われらの時代」が書かれたのは、1920年代である。日本でいえば、大正時代になる。芥川などと同時代とみてさしつかえないだろうか。

軽々に日本文学の同時代の作品との比較はすべきではないのかもしれないが、近代文学というものは、19世紀以降、日本でいえば明治維新以降、世界的視野で考えることも、また、それなりの興味のあることである。

以上の二点が、「われらの時代」を読んで感じるところである。

短編小説という文学の形式、主人公視点の簡潔な文体……これらについては、現代の我々の視点だから言えることかもしれない。そのような文学が書かれ、読まれてきた歴史があって、今日の我々の文学観というものがある。その形成に、ヘミングウェイの特に短篇は、大きくかかわっていることを感じる。

ヘミングウェイの短篇は、新潮文庫版で、三冊になっている。順次、読んでいこうと思っている。

追記 2018-08-06
この続きは、
やまもも書斎記 2018年8月6日
『男だけの世界』ヘミングウェイ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/06/8934764

『半分、青い。』あれこれ「帰りたい!」2018-08-05

2018-08-05 當山日出夫(とうやまひでお)

『半分、青い。』第18週「帰りたい!」
https://www.nhk.or.jp/hanbunaoi/story/week_18.html

前回は、
やまもも書斎記 2018年7月29日
『半分、青い。』あれこれ「支えたい!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/07/29/8927619

この週の見どころは、鈴愛と涼次の決別。これについて、見て思ったところを書けば、次の二点になるだろうか。

第一に、涼次の映画への思い。

涼次は映画の世界にもどっていく。そして、あえて退路を断つ。鈴愛とは別れるという。

映画の世界で、脚本家として生きていくことと、鈴愛との生活を両立させることは、決して難しいことではないことのように思えるのだが、このドラマではそうはなっていない。映画の世界で生きるために、家族を捨てることになる。

このあたり、映画、脚本の世界で生きていくことの厳しさの表現であるととっておけばいいのだろう。この意味では、ドラマの作中のできごととはいえ、このような設定をもってきた、作者(北川悦吏子)の覚悟のほどが、感じられる。

先に、秋風羽織のもとで漫画家をめざし、自分の才能に絶望して、百円ショップにつとめることになった。ここでも、創作、表現にかかわる仕事の厳しさが描かれていた。まずは、才能があるかどうか、である。鈴愛は自らに漫画家としての才能は無いと見切りをつけた。

こんどは映画である。涼次には、才能があるのだろう。小説家・佐野弓子も、その脚本の才能を認めていたようである。だが、この世界、才能があるだけでは生きていけない。さらに、貪欲にチャンスを自分のものしていく意欲のあるものが生き残る。

このような脚本の世界の中で、自分は生きのびてきたし、また、これからも生きのびてみせる……このような覚悟とでもいうべきものが、この週の展開からは感じられた。

第二に、とはいっても、涼次が捨てることになる家庭とは何であったのか。

このあたりの描写が、希薄な気がしてならない。映画か、家庭か、となって、涼次は映画をとる。そして、鈴愛も、それを容認する。これはいいとしても、そこにいたる、過程がどうであったのか、ちょっと話しの筋がとんでいるように感じた。

ここは、鈴愛と涼次の家庭のエピソード、例えば、幼稚園の運動会などでもいいかもしれないが、ささやかながら、百円ショップで働きながら、きづきあげた家庭の温かさ、とでもいうべきものを描いておくべきではなかったか。花野は、おたふくかぜになったが、耳に特に異常はなかったようである。このあたりのエピソードに、父親としての涼次の気持ちを絡めて描いてあったらよかったかと思う。

涼次が捨てることになる、鈴愛もそれを了承することになる、東京での家庭の団欒、これの描き方が今ひとつ物足りない気がしている。言い換えるならば、話しの展開がはやすぎるのである。あるいは、家庭の人としての、父親としての涼次が描かれていなかったと言ってもよい。

話しが早くすすむのはいいとしても、鈴愛の家庭について印象的シーンが無いのが残念である。鈴愛と涼次の出会いも、ドラマの時間としてはわずかのものだったが、雨の中のダンスということで、きわめて印象的に描かれていた。このような印象的なシーンが、鈴愛の家庭、父親としての涼次の姿において、見られないのである。

だいたい以上の二点が、この週に思ったことなどである。

それにしても、突然の帰郷にはいささか戸惑いも覚える。ここは単なる帰郷というよりも、故郷・岐阜に帰りたいという強い気持ちの表現なのであろうが。これまで、鈴愛は、東京で暮らしていても、岐阜方言が抜けていなかった。どこか、故郷とのつながりを感じさせていた。それが、ここにきて表面化したということであろうか。

土曜日、最後に律が登場してきていた。これから、鈴愛と律との、次のドラマがはじまるのだろう。それはいいとしても、東京での鈴愛と涼次と花野、それから、三人のおばたち、これらの、生活の描写がもうちょっと描いてあったらと感じるのである。あるいは、これは、今後のドラマの展開を考えると、それだけの時間がとれなかったということなのかもしれない。ともあれ、次の展開を楽しみに見ることにしよう。

追記 2018-08-12
この続きは、
やまもも書斎記 2018年8月12日
『半分、青い。』あれこれ「泣きたい!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/12/8939884

『男だけの世界』ヘミングウェイ2018-08-06

2018-08-06 當山日出夫(とうやまひでお)

ヘミングウェイ全短編1

ヘミングウェイ.高見浩(訳).『われらの時代・男だけの世界-ヘミングウェイ全短編1-』(新潮文庫).新潮社.1995
http://www.shinchosha.co.jp/book/210010/

この文庫本には、二つの短篇集が収録されている。『われらの時代』については、先に書いた。

やまもも書斎記 2018年8月4日
『われらの時代』ヘミングウェイ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/04/8933241

今回は、『男だけの世界』についてである。『われらの時代』から続けて読んだ。読んだ印象としては、この短篇集は、冒険的……小説の作り方として……であると言っていいだろうか。

『われらの時代』が、短編小説、短編小説集という文学の形式に、きちんとのっとって書かれているのに対して、『男だけの世界』は、様々な小説の書き方を工夫しているように読めた。いろんなタイプの作品が、いわば実験的とでも言っていいように配列されている。

そして、全体の短篇集としてつらぬいているのは、タイトル『男だけの世界』に表されている、まさに「男の世界」である。そして、印象的なのは、淡々とした情景描写、あるいは、会話からかもしだされる、登場人物の深い心情とでもいうべきもの。

今日の視点から評価するなら、ハードボイルドということばがぴったりである。だが、これも、ヘミングウェイの作品を理解するには、ふさわしいことばではないのかもしれない。逆に、今日の我々が、ハードボイルドという文学の形式をすでに有しているが故に、かつてのヘミングウェイの作品に、それを感じ取って読んでしまう、このような関係にあると言った方がいいだろう。

短編小説、短編小説集という文学の形式に対して、貪欲であった作者の意図を感じて読んだのである。これが、文学史的に了解される読み方なかのかどうか、英米文学の門外漢には専門的知識がないのだが、少なくとも、新潮文庫版でヘミングウェイの短篇を読んでいって感じるのは、今日のわれわれの文学観の形成に、ヘミングウェイが大きく寄与している。その結果にいる今日の視点から、読んで文学的感銘を受ける作品群である、ということである。

文庫本の第二冊以降を、順次、読んでいくことにしたい。ヘミングウェイの作品には、人生の充実と、逆に、虚無と、相反するものがあるように感じる。それがこの後の作品でどう展開されることになるか、考えながら読んでみたい。

『西郷どん』あれこれ「三度目の結婚」2018-08-07

2018-08-07 當山日出夫(とうやまひでお)

『西郷どん』2018年8月5日、第29回「三度目の結婚」
https://www.nhk.or.jp/segodon/story/29/

前回は、
やまもも書斎記 2018年7月31日
『西郷どん』あれこれ「勝と龍馬」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/07/31/8929144

この回のポイントは、次の二点だろうか。

第一には、薩長同盟の件。

一般的な理解だと、薩長同盟は、坂本龍馬の仕事、ということになっているのだが、このドラマでは、西郷のアイデアとして、薩摩は長州を支援する、ということになっているようだ。そして、幕府を倒す。

では、これから登場する坂本龍馬の役割とはいったいどんなものとして描くことになるのだろうか。逆に、このあたりのことが気になってくる。

そして、この西郷の胸の内は、盟友・大久保も理解できない。このドラマ、この時点ですでに、西郷と大久保とが、別の路線を歩むことにしてある。これから、幕末・明治維新を描くにあたって、大久保の役割はいったいどんなものになってくるのだろうか。

第二には、糸との結婚。

これからの日本のことを真に思っている(と、ドラマではなっている)西郷の心中を、理解してくれるものは、いない。そこに、糸との縁談がおこる。最初、西郷は、この話しを断るのだが、自分の心の内を本当に理解してくれる相手として、最終的に糸を選ぶことになる。

結果的には、西郷のことを本当に理解していたのは、(大久保ではなく)妻の糸でああったというのが、このドラマの筋書きである。

以上の二点が、この回のポイントだろうか。

それに加えて見るならば……西郷のナショナリズム、があるかもしれない。民が安心して暮らせるようにすることが、自分の使命である……このような意味のことを西郷は言っていた。西郷なりのナショナリズムである。

これは、おそらく、明治新政府になってからの、大久保たちが推進するであろう、国権主義的富国強兵路線と対立することになる、その結果としての西南戦争、その伏線として理解して見ておけばいいだろうか。

このドラマ、倒幕、明治維新の功業は、西郷の手になるものとして描く方針のようである。次回は、岩倉具視の登場らしい。どのような岩倉具視を描くことになるのか、楽しみに見ることにしよう。

追記 2018-08-14
この続きは、
やまもも書斎記 2018年8月14日
『西郷どん』あれこれ「怪人 岩倉具視」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/14/8941460

日曜劇場『この世界の片隅に』第四話2018-08-08

2018-08-08 當山日出夫(とうやまひでお)

TBS日曜劇場『この世界の片隅に』第四話
http://www.tbs.co.jp/konoseka_tbs/story/v4.html

前回は、
やまもも書斎記 2018年8月1日
日曜劇場『この世界の片隅に』第三話
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/01/8929763

第四話を見て感じるところは、次の二点である。

第一には、径子とその子どもたちとの話し。

原作(漫画)では、径子とその子どもたちとのことはそんなに出てきてはいない。だが、岡田惠和の脚本では、径子の出戻りの一件が、ドラマの重要な位置をしめるものとしてあつかわれている。これはこれとして、戦前の家族制度のもとでの、一つのエピソードとして、しんみりと感じさせる作り方になっている。ここは尾野真千子、それから、子役がうまい。

第二には、リンをめぐる疑惑。

周作には以前に好きな女性がいたのかもしれないという思いに、すずはかられる。その相手が、リンときまったわけではないが、どうやらそうらしいという雰囲気である。

原作(漫画)では、すずとリンの「友情」とでもいうべきものが、どこかしら幻想的に描かれていたと感じるのであるが、このドラマでは、そうではないように思える。原作(漫画)を確認すると、確かに茶碗のリンドウの絵のことから、竹藪で竹槍の竹を切るところ、そして、リンの姿を連想するあたりのことが描かれている。また、ノートの表紙を切って、リンの名前を書いた(らしい)ことも出てくる。

だが、これは、漫画という表現で描いてあるから、何かしらほんのりとした感じがある。これをドラマにしてしまうと生々しくリアルな印象を感じてしまう。たしかに原作(漫画)に忠実に作ってあるのだが、しかし、このあたりは、漫画のドラマ化という点では、難しいところかもしれない。

以上の二点が、この回を見て感じるところである。が、ともあれ、これはこれなりにうまく作ってあると感じさせる。

ところで、この回のキーワードは、「居場所」と「代用品」であろうか。自分は、ひょっとすると、周作にとっての「代用品」なのかもしれないという気持ちが、すずのなかにはあるようだ。だが、それでも、日々の生活のなかで、自分の「居場所」を見つけていかなければならない。このドラマは、最終的に、すずという女性の「居場所」がどこに定まるのか、というところに落ち着くような気がしている。これは、原作(漫画)を読んで感じることでもあるのだが。

どのような時代になったとしても……戦争があってもなくても……「この世界の片隅に」はどこかにそれぞれの「居場所」がある……このようなメッセージが、原作(漫画)からは伝わってくる。それを、このドラマはどう描くことになるのであろうか。次回を楽しみに見ることにしよう。

追記 2018-08-15
この続きは、
やまもも書斎記 2018年8月15日
日曜劇場『この世界の片隅に』第五話
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/15/8942116

ナンテンの花2018-08-09

2018-08-09 當山日出夫(とうやまひでお)

このところ、水曜日は『この世界の片隅に』について書いているので、花の写真は、木曜日になっている。曜日はずれるが、週に一度の花の写真は、続けてみたい。

前回は、
やまもも書斎記 2018年8月2日
ギボウシ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/02/8930607

ナンテンの花である。我が家にいくつかナンテンの木があるが、それらが初夏になると花を咲かせる。普通、ナンテンの木は、その実が赤くなったときが見頃という印象であるが、写真に撮ると、その花もまた魅力がある。特に、接写で大きく写してみて、この木の花にこのような面があったのかと気づくところでもある。

ジャパンナレッジで、日本国語大辞典を見る。

メギ科の常緑低木。中部以南の本州・四国・九州の山地渓間暖地に生え、庭木として栽植される。

とあり、さらに説明がある。用例は、

明応本節用集(1496)、それから、虎寛本狂言・連歌盗人(室町末〜近世初)から、用例が見える。古辞書は、下学集、伊京集、にあるらしい。中世から、「なんてん」の語で使われ来たことがわかる。

『言海』にもある。

なんてん 名 南天 南天燭ノ略 灌木ノ名、人家ニ多ク植ヱテ、其緑葉紅実ヲ賞ス、一根ニ数茎、叢生ス、葉ハ樗(アフチ)ニ似テ鋸歯ナク、冬枯レズ、梅雨中、枝ノ頭ニ、長キ穂ヲ出シ、多ク小枝ヲ分チテ、五瓣ノ小白花ヲ開ク、蘂、黄ナリ、実、円ク小ク、熟スレバ赤ク、穂ニ綴リテ垂ル、甚ダ美シ、春ニ至リテ尚アリ。

これを読むと、大槻文彦の目にも、南天の花の様子が観察されていたことが分かる。

掲載の写真は、二月ほど前に撮影しておいたもののストックからである。今年の夏は異常に暑い。ちょっと身の周りの花の写真を写しに外に出ようという気にもならないので、撮りためておいたものからになっている。

南天

南天

南天

南天

南天

Nikon 7500
AF-S DX Micro NIKKOR 85mm f/3.5G ED VR

追記 2018-08-16
この続きは、
やまもも書斎記 2018年8月16日
ネジバナ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/16/8942883

『夏の花』原民喜2018-08-10

2018-08-10 當山日出夫(とうやまひでお)

夏の花

原民喜.『小説集 夏の花』(岩波文庫).岩波書店.1988
https://www.iwanami.co.jp/book/b248818.html

原民喜の名前は知っていた。それを、最近、再び目にしたのは、『羊と鋼の森』(宮下奈都)においてである。

やまもも書斎記 2018年6月22日
『羊と鋼の森』宮下奈都
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/06/22/8900199

この作品中に、原民喜への言及がある。まず、そこを引用しておきたい。

「外村君は、原民喜を知っていますか」
 原民喜。聞いたことはある気がする。調律師ではなかったと思う。演奏家だろうか。
「その人がこう言っています」
板鳥さんは小さく咳払いをした。
「明るく静かに懐かしい文体。少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体」
(p.65)

また、最近出た本として、

梯久美子.『原民喜』(岩波新書).岩波書店.2018

がある。

梯久美子については、『狂うひと』を読んだ。

梯久美子.『狂うひと-「誌の棘」の妻・島尾ミホ-』.新潮社.2016

この本がよかったので(まだ、ブログには書いていないが)、岩波新書の方も読んでみることにした。で、その前に、まず、原民喜の作品を読んでおきたいと思った。岩波文庫で二冊出ている。『小説集 夏の花』と『原民喜全詩集』である。

「夏の花」についていえば、名前は知っていたが、まだ読んでいない作品であった。概要として、広島の原爆のことを描いた作品であることは知ってはいた。その作品を実際に読んでみての印象としては……「夏の花」は、きわめて硬質の叙情性を持った作品である、ということである。

この作品は、昭和二〇年のうちに書かれている。広島の原爆の記憶の生々しいころである。その時点において、いわゆる私小説のスタイルで、その被災の様子を綴ってある。描かれている被災の状況は、きわめて悲惨である。だが、それを書いている著者の目は、冷徹でもある。そして、文章の背後に、なにかしら透徹した叙情性のようなものを感じてしまう。

原爆の被災という、この世における極限状況を描いた作品である。凄惨な場面も出てくる。だが、それを描写する著者のまなざしは、きわめて冷静である。

このような読み方は、間違っているだろうか。

原民喜は、詩人でもあった。若いころより小説を書いている。(このあたりの事情については、梯久美子の『原民喜』に詳しい。)私小説という枠組みがあり、詩人であり、そして、極度に精神のはりつめた状態で書かれた作品である。昭和二〇年のうちという、その体験が体の中に生きている間に書かれた作品は、原爆への怒りや悲しみという感情をまだ形成していない。それが、現れるようになるのは、もうすこし時間がたってからのことになる。被災直後の筆者の眼は、冷静な観察者のものであり、それと同時に、抒情詩人としての資質が、ギリギリのところまで抑制しているにもかかわらず、にじみ出ているのだと感じる。