『雁』森鷗外2020-05-07

2020-05-07 當山日出夫(とうやまひでお)

雁

森鷗外.『雁』(新潮文庫).新潮社.1948(2008.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/102001/

続きである。
やまもも書斎記 2020年5月1日
『阿部一族・舞姫』森鷗外
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/01/9241393

この作品も、若いときに確か読んだという記憶がある。だが、もうかなり昔のことになるので、忘れてしまっている。何十年ぶりになるだろうか、読みかえしてみての感想であるが、はっきりいって、この作品は今一つよくわからない。

いったい、この小説における「僕」は何者なのだろう。この小説は、「僕」の語りからスタートする。そう思ってよんでいくと、岡田が出てきて、また、お玉が登場する。お玉のことを語っているあたりは、まったく第三人称描写といってよい。ひとしきり、お玉の身の上のことで話しが進んでいって、最後には、また、「僕」と岡田のことで終わる。どうもよくわからない、というのが正直なところである。

それから、これは、日本語学、国語学の視点から気になったことだが、お玉の使っていることばの位相、あるいは、役割語としてのはたらきが、これも今一つはっきりしない。たぶん、この小説が書かれた当時の日本語にあっては、お玉のつかっていることばは、ある位相に属していたものとして読まれたであろうことは確かだろうが、それがよく理解できない。

これは、例えば、夏目漱石の作品に出てくる女性が、女学生ことば、てよだわことばを使っているのに比べてみると、違いが目立つ。

さらに思うこととしては、この小説が書かれたのは明治四四年である。が、小説の時代設定は、明治一三年になっている。一時代前の、いやもっと前になるだろう、日清、日露の戦争の前、そのさらに前の時代、西南戦争が終わったあたりの時代である。この時代のこととして、この小説が語られる意味は何なんだろう。

などと、いろいろと思ってはみるのだが、しかし、読み終えた後には、文学的な余韻が残る。こういうのを文学というのだろうとは感じるところがある。この作品は、さらに改めて読みなおしてみたいと思うところがある。

2020年4月27日記

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