「ローティ“偶然性・アイロニー・連帯” (4)共感によって「われわれ」を拡張せよ!」2024-02-29

2024年2月29日 當山日出夫

100分de名著 ローティ“偶然性・アイロニー・連帯” (4)共感によって「われわれ」を拡張せよ!

ローティ“偶然性・アイロニー・連帯” (4)共感によって「われわれ」を拡張せよ!

中島みゆきの歌に「Nobody Is Right」がある。この歌のことを思い出す。

『ロリータ』は読んだ。たしか学生のころに翻訳が文庫本で刊行になって話題になったのを憶えている。近年になって、新しい訳がでている。無論、「ロリータ・コンプレックス」ということばは、この小説に由来する。

他者への想像力、あるいは無関心であることの反省、自覚、このことを語るのに、『ロリータ』を出してくるのは、微妙かなという気もする。

今の時代の「正しさ」からすると、性の多様性を認めるという方向である。いわゆるLGBTの人びとの権利の主張である。その一方で、小児性愛については、絶対的な悪として糾弾し排除することになる。人間は自分の性的嗜好を自分では選ぶことができない。だから性的マイノリティの権利擁護になる。しかし、その性的嗜好には小児性愛はふくまれていない。つまり、今の社会の「正しさ」は、LGBTの人びとを含みながら、同時に、小児性愛者を「われわれ」から排除することになる。小児性愛者は、その性的嗜好を自分で選ぶことはできないからこそ、そうなのであることに想像力がおよんでいない。このことに配慮する必要はないのだろうか。(だからといって、いわゆる日本版DBSについて完全に反対ということではないのだが。)

『アンクル・トムの小屋』は、子どものころに読んだ。小学生向けの縮約版であったかと思う。今から半世紀以上も昔のことである。その後、この作品に対する評価は変わった。アメリカの黒人(と言っておくことにするが)の悲劇を描いた作品という位置づけであったものが、時代の変化とともに、黒人のおかれた状況を現状肯定するものである(かわいそうと思うだけでは何も変わらない)として、批判的にとりあつかわれるようになった。近年になって、光文社古典新訳文庫で新しい訳本が出ている。

100%の正しさを信奉するものは愚かである。特に日本の場合、その信奉する理念を海外からの輸入にたよっている。かつては、マルキシズムがそうであった。近年では、フェミニズムがそうである。私は、マルクスの考えたことに意味があると思うし、またフェミニズムの考え方に理解を持っていたいとは思う。しかし、それを絶対の正しさとしてふりかざす人びとを信用する気にはなれない。同時に、これはいわゆる右翼に対しても同じである。

ベルリンの壁の崩壊があっても、人間はあまり賢くなっていないと思うのである。

2024年2月27日記

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