『カーネーション』「悔いなき青春」 ― 2025-02-23
2025年2月23日 當山日出夫
『カーネーション』 「悔いなき青春」
歴代の朝ドラのなかでも最も印象に残る台詞である。安岡のおばちゃんの言った「あの子はやったんやな、あの子がやったんや」のことばは、見るものの心の奥深くに訴えかけるものがある。勘助が戦争(日中戦争から太平洋戦争)において、戦地でどんな体験をしてきたのか、このドラマのなかでは具体的にはまったく語られていない。ただ、戦争から帰還した勘助が、(今でいう)PTSDの症状であったことは、現代の人間なら理解はできることである。また、戦争において、日本軍がどのようなことをしてきたか、兵士たちがどんな体験をしたか、このドラマの放送されたころには、かなり具体的なことが多くの人びとに知られているようになっていた。
ここでは、安岡のおばちゃんの台詞から、勘助の身の上に起こったことを、このドラマを見るものが、ただ想像するしかない。ただ、想像にまかされている。説明的な台詞やナレーションは、一切なかった。だからこそ、余計に、ここから何を読みとるかは、見るものの責任ということになる。そして、このドラマの脚本、演出は、見るものの想像力を信頼している。見るものの想像力を信頼しているからこそ、すぐれたドラマになる。
『カーネーション』が朝ドラのなかで最高傑作であるといわれるゆえんである。
この週で、尾野真千子の糸子が終わる。その娘たちの世代に移り変わっていく様が描かれていた。糸子は、店(オハラ洋装店)の看板を、娘にゆずる気でいる。自分が父親の善作かゆずられた看板である。小原呉服店であったものが、オハラ洋装店として、糸子がうけついできた。その看板の重みというものを、誰よりも糸子は理解している。これまで頑張ってきたのは、この看板をまもることでもあった。
しかし、娘たちは、看板の重みということを意識していない。それぞれに独立して、自分の才覚でやっていこうとしている。
この世代の違い……父親の善作、糸子、娘たち(優子、直子、聡子)……それぞれに、店の看板というものに対する意識が違っている。これは、善し悪しということではなく、時代の価値観の変化、社会のなかでの人間の生き方の違いである。古い世代だから間違っているという見方では、このドラマは人間を描いていない。それぞれの時代において、人間はそれぞれそのようにして生きてきたものである、ということを、時代や世相の変化とともに、きわめて情感を込めて肯定的な視点で描いている。
善作はたしかに、旧弊な封建的暴君という面もあったが、律儀な街の商売人であった。糸子は、看板をゆずりうけて、女性の洋装店をまもってきた。その子供たちは、岸和田の街を離れて、外の世界で活躍しようとしている。
このドラマは、岸和田の街、そして、そこの商店街の人びと、小原の家(建物)とそこに住んできた人たちの物語である。糸子は、あくまでも岸和田の街にとどまる。
それから、母親の千代は、歳をとってきて認知症ということになるのだが、この過程を、自然に描いている。人が生きて長生きすればいずれこうなる(こともある)。それを悲観するでもなく、人間とはそういうものだとして描いている。
ここまで見てきて、このドラマの作り方としては、窓から外の景色が見えるようにセットが作ってあること、外からの光を効果的につかって、季節や一日の時間の変化を表していること、その結果、奥行きのある画面になっていることが上げられる。ほとんどが岸和田の糸子の家のなかの場面なのだが、照明の変化によって多彩な映像となっている。このあたりは、ドラマの演出として、非常に凝った作り方をしていると感じるところである。
2025年2月22日記
『カーネーション』 「悔いなき青春」
歴代の朝ドラのなかでも最も印象に残る台詞である。安岡のおばちゃんの言った「あの子はやったんやな、あの子がやったんや」のことばは、見るものの心の奥深くに訴えかけるものがある。勘助が戦争(日中戦争から太平洋戦争)において、戦地でどんな体験をしてきたのか、このドラマのなかでは具体的にはまったく語られていない。ただ、戦争から帰還した勘助が、(今でいう)PTSDの症状であったことは、現代の人間なら理解はできることである。また、戦争において、日本軍がどのようなことをしてきたか、兵士たちがどんな体験をしたか、このドラマの放送されたころには、かなり具体的なことが多くの人びとに知られているようになっていた。
ここでは、安岡のおばちゃんの台詞から、勘助の身の上に起こったことを、このドラマを見るものが、ただ想像するしかない。ただ、想像にまかされている。説明的な台詞やナレーションは、一切なかった。だからこそ、余計に、ここから何を読みとるかは、見るものの責任ということになる。そして、このドラマの脚本、演出は、見るものの想像力を信頼している。見るものの想像力を信頼しているからこそ、すぐれたドラマになる。
『カーネーション』が朝ドラのなかで最高傑作であるといわれるゆえんである。
この週で、尾野真千子の糸子が終わる。その娘たちの世代に移り変わっていく様が描かれていた。糸子は、店(オハラ洋装店)の看板を、娘にゆずる気でいる。自分が父親の善作かゆずられた看板である。小原呉服店であったものが、オハラ洋装店として、糸子がうけついできた。その看板の重みというものを、誰よりも糸子は理解している。これまで頑張ってきたのは、この看板をまもることでもあった。
しかし、娘たちは、看板の重みということを意識していない。それぞれに独立して、自分の才覚でやっていこうとしている。
この世代の違い……父親の善作、糸子、娘たち(優子、直子、聡子)……それぞれに、店の看板というものに対する意識が違っている。これは、善し悪しということではなく、時代の価値観の変化、社会のなかでの人間の生き方の違いである。古い世代だから間違っているという見方では、このドラマは人間を描いていない。それぞれの時代において、人間はそれぞれそのようにして生きてきたものである、ということを、時代や世相の変化とともに、きわめて情感を込めて肯定的な視点で描いている。
善作はたしかに、旧弊な封建的暴君という面もあったが、律儀な街の商売人であった。糸子は、看板をゆずりうけて、女性の洋装店をまもってきた。その子供たちは、岸和田の街を離れて、外の世界で活躍しようとしている。
このドラマは、岸和田の街、そして、そこの商店街の人びと、小原の家(建物)とそこに住んできた人たちの物語である。糸子は、あくまでも岸和田の街にとどまる。
それから、母親の千代は、歳をとってきて認知症ということになるのだが、この過程を、自然に描いている。人が生きて長生きすればいずれこうなる(こともある)。それを悲観するでもなく、人間とはそういうものだとして描いている。
ここまで見てきて、このドラマの作り方としては、窓から外の景色が見えるようにセットが作ってあること、外からの光を効果的につかって、季節や一日の時間の変化を表していること、その結果、奥行きのある画面になっていることが上げられる。ほとんどが岸和田の糸子の家のなかの場面なのだが、照明の変化によって多彩な映像となっている。このあたりは、ドラマの演出として、非常に凝った作り方をしていると感じるところである。
2025年2月22日記
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