よみがえる新日本紀行「ファッション通り〜東京・原宿〜」 ― 2025-04-09
2025年4月9日 當山日出夫
よみがえる新日本紀行 「ファッション通り〜東京・原宿〜」
再放送である。2021年10月10日。オリジナルは、昭和48年(1973)9月24日。
昭和48年というと、私がまだ高校生のころである。その後、大学生になって東京に住むのだが、原宿は、名前は知っているが、特に行きたいと思うところではなかった。
見ていて最も興味深かったのは、無尽講。昭和48年のころまで、原宿は昔の東京の郊外の生活が残っていた。町内会があって、無尽講をしていた。無尽講は、名前は知っているし、その仕組みも知っていることなのだが、実際に人があつまってそれをやっているところの映像記録というのは、あるいは始めて見たことになるかもしれない。
原宿が、その昔は隠田と呼ばれた地域であり、明治神宮が作られて、そのために原宿の駅もできて、人びとの生活する郊外の住宅地として成立してきた。ちなみに、『細雪』を読むと、東京に転勤になった長女(鶴子)の一家は、渋谷に住むことになっているが、この時代(昭和一〇年代、太平洋戦争の前)の渋谷は、東京の郊外の住宅地として認識されていたことが分かる。渋谷とくらべれば、原宿はさらに郊外である。
畳屋さんが仕事をする場面が映っていた。昔の畳屋という仕事は、そう広い範囲を相手にする仕事ではないはずだと思うので(重い畳を運ぶの重労働である)、その商売が成りたっていた時代があったということになる。
登場していた若い女性が言っていたが、この時代の原宿は、最深のファッションを身にまとった若者と、かっぽう着(もう、こういう言い方が古めかしいが)を着て買い物カゴをさげたおばさんが、一緒に道を歩いていてもおかしくない、そういう街だった。
古くからの東京の山の手の郊外の住宅地の雰囲気を残す穏やかな原宿の街と、最先端のファッションの流行を追い求める若者たち、これらが、同居できていた、今から思えば、奇跡的とでもいうべき時代を、映像に残していることになる。
若い時の山本寛斎の仕事ぶりなどを記録した、貴重な番組であるかもしれない。
個人的な思い出を語れば、慶應義塾大学での私の恩師である先生が、原宿に住んでいた。その書斎として、マンションの一室を使っておられたので、そこには、かなりの回数、足をはこんだことになる。さらに、先生の晩年、年取って一人住まいになった先生をたずねて、原宿に行って食事などしたものである。もうこのころになると、普通の人が日常生活をおくる街ではなくなってきてしまっていたのだが。(最終的には、老人介護施設にはいられた。)
同潤会アパートが残っていたころのことは、私の記憶にある。
番組の中では、ワシントンハイツと言っていたが、これは、知識としては知っていることだが、実際には知らない。
喫茶店にたむろする若者たちが、みんな煙草をすっている。これは、こういう時代だったのである。
2025年4月3日記
よみがえる新日本紀行 「ファッション通り〜東京・原宿〜」
再放送である。2021年10月10日。オリジナルは、昭和48年(1973)9月24日。
昭和48年というと、私がまだ高校生のころである。その後、大学生になって東京に住むのだが、原宿は、名前は知っているが、特に行きたいと思うところではなかった。
見ていて最も興味深かったのは、無尽講。昭和48年のころまで、原宿は昔の東京の郊外の生活が残っていた。町内会があって、無尽講をしていた。無尽講は、名前は知っているし、その仕組みも知っていることなのだが、実際に人があつまってそれをやっているところの映像記録というのは、あるいは始めて見たことになるかもしれない。
原宿が、その昔は隠田と呼ばれた地域であり、明治神宮が作られて、そのために原宿の駅もできて、人びとの生活する郊外の住宅地として成立してきた。ちなみに、『細雪』を読むと、東京に転勤になった長女(鶴子)の一家は、渋谷に住むことになっているが、この時代(昭和一〇年代、太平洋戦争の前)の渋谷は、東京の郊外の住宅地として認識されていたことが分かる。渋谷とくらべれば、原宿はさらに郊外である。
畳屋さんが仕事をする場面が映っていた。昔の畳屋という仕事は、そう広い範囲を相手にする仕事ではないはずだと思うので(重い畳を運ぶの重労働である)、その商売が成りたっていた時代があったということになる。
登場していた若い女性が言っていたが、この時代の原宿は、最深のファッションを身にまとった若者と、かっぽう着(もう、こういう言い方が古めかしいが)を着て買い物カゴをさげたおばさんが、一緒に道を歩いていてもおかしくない、そういう街だった。
古くからの東京の山の手の郊外の住宅地の雰囲気を残す穏やかな原宿の街と、最先端のファッションの流行を追い求める若者たち、これらが、同居できていた、今から思えば、奇跡的とでもいうべき時代を、映像に残していることになる。
若い時の山本寛斎の仕事ぶりなどを記録した、貴重な番組であるかもしれない。
個人的な思い出を語れば、慶應義塾大学での私の恩師である先生が、原宿に住んでいた。その書斎として、マンションの一室を使っておられたので、そこには、かなりの回数、足をはこんだことになる。さらに、先生の晩年、年取って一人住まいになった先生をたずねて、原宿に行って食事などしたものである。もうこのころになると、普通の人が日常生活をおくる街ではなくなってきてしまっていたのだが。(最終的には、老人介護施設にはいられた。)
同潤会アパートが残っていたころのことは、私の記憶にある。
番組の中では、ワシントンハイツと言っていたが、これは、知識としては知っていることだが、実際には知らない。
喫茶店にたむろする若者たちが、みんな煙草をすっている。これは、こういう時代だったのである。
2025年4月3日記
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