『べらぼう』「げにつれなきは日本橋」 ― 2025-06-23
2025年6月23日 當山日出夫
『べらぼう』 げにつれなきは日本橋
このドラマの近世の出版の考証を担当しているのは、鈴木俊幸であるが、近世の出版について、かなり禁欲的に描いているという印象はある。分かることの範囲を守っている、というべきだろう。
ていが、寺で、漢籍を読むのが好みであるといい、手元にあったであろう書物を手放すというシーンがあったが、ここで、具体的な書物が分からないように作ってあった。ほんの一部、題簽が見えたぐらいだけでる。普通なら、適当に、経書、史書などをならべておくところかもしれない。本の書名ぐらい、それらしく題簽を貼り付けて、小道具として本を用意するのは、(確かに手間ではあるが)そう難しいことではない。去年の『光る君へ』では、本を作るシーンがあった。(ただ、これは、やや考証に難があったところもあるが。)
結果的にどうなるのだろうかと思う。江戸時代、蔦重がこれまでに手がけてきたような戯作や浮世絵などと、漢籍などとは、流通のルートがまったく違う。同じ本屋でとりあつかうことなど、ありえない……これは、日本の書物とか文学とかについての基本的知識である。ただ、こういう出版ビジネスの制度的な部分に、蔦重が、これからどうチャレンジしていくのかということも、興味のあるところである。
現代では、数万円以上する学術的な専門書であっても、アイドルの写真集であっても(別にこのような出版を悪く言うつもりはまったくないけれど)、同じ流通ルートで、書店で注文すれば購入できる。いや、最近では、町の本屋さんは減っていくばかりなので、Amazonで買える、と言った方がいいかもしれない。だが、このような書籍の流通ルートができたのは、昭和の戦時中のことであって、そのシステムをいまだに続けてきていることが、日本における出版や書店の問題点である。たとえば、『町の本屋はいかにしてつぶれてきたか』(飯田一史、平凡社新書)。
さて、まずは、漢籍をこのむていは、戯作を売る商売をどう考えることになるのだろうか。
演出としては、光と闇の対比がうまい。ていは、明るい光として描かれ、蔦重は闇として描かれている。
土山の屋敷での宴席の描写は、とてもいい。夜の闇のなかだからこそ、その豪奢ぶりがきわだつし、三味線と鼓などの音曲が、その演奏の場面として、効果的に使える。
誰袖が魅力的である。こんな花魁にねだられる松前廣年(蠣崎波響)は、うらやましいというべきか、あるいは、抜け荷をしろと要求されてかわいそうというべきか。だが、ここも、どうやらビジネスとしては、兄の松前廣道に、おいしいところをもっていかれそうであるが。しかし、これは、あぶない橋を渡ることになりかねない。
ビジネスのドラマとしては十分に面白いのだが、やはり出版関係の部分の描き方が、私としてはどうしても気になってしまうというところはある。それから、何度も書いているが、戯作や狂歌というものが、この時代にあってはインテリの遊び(ここをどう表現するかは難しいが)であることをどう描くのかということも、気になるところである。このドラマでは、近世の知識人という人物が出てきていない。これは、意図的にそういう人物造形を避けているということでいいのかもしれないが。
ムックリが、大河ドラマに出てくるのははじめてだったかもしれない。
橋本愛は、あまり素直でないややこしい女性を演じるととてもいい。
山師と出てきていたが、まさに、田沼意次の時代は、山師、の時代であった。
ぬっぺっぽうが登場していた。これから他の妖怪たちも出番があるだろうか。
2025年6月22日記
『べらぼう』 げにつれなきは日本橋
このドラマの近世の出版の考証を担当しているのは、鈴木俊幸であるが、近世の出版について、かなり禁欲的に描いているという印象はある。分かることの範囲を守っている、というべきだろう。
ていが、寺で、漢籍を読むのが好みであるといい、手元にあったであろう書物を手放すというシーンがあったが、ここで、具体的な書物が分からないように作ってあった。ほんの一部、題簽が見えたぐらいだけでる。普通なら、適当に、経書、史書などをならべておくところかもしれない。本の書名ぐらい、それらしく題簽を貼り付けて、小道具として本を用意するのは、(確かに手間ではあるが)そう難しいことではない。去年の『光る君へ』では、本を作るシーンがあった。(ただ、これは、やや考証に難があったところもあるが。)
結果的にどうなるのだろうかと思う。江戸時代、蔦重がこれまでに手がけてきたような戯作や浮世絵などと、漢籍などとは、流通のルートがまったく違う。同じ本屋でとりあつかうことなど、ありえない……これは、日本の書物とか文学とかについての基本的知識である。ただ、こういう出版ビジネスの制度的な部分に、蔦重が、これからどうチャレンジしていくのかということも、興味のあるところである。
現代では、数万円以上する学術的な専門書であっても、アイドルの写真集であっても(別にこのような出版を悪く言うつもりはまったくないけれど)、同じ流通ルートで、書店で注文すれば購入できる。いや、最近では、町の本屋さんは減っていくばかりなので、Amazonで買える、と言った方がいいかもしれない。だが、このような書籍の流通ルートができたのは、昭和の戦時中のことであって、そのシステムをいまだに続けてきていることが、日本における出版や書店の問題点である。たとえば、『町の本屋はいかにしてつぶれてきたか』(飯田一史、平凡社新書)。
さて、まずは、漢籍をこのむていは、戯作を売る商売をどう考えることになるのだろうか。
演出としては、光と闇の対比がうまい。ていは、明るい光として描かれ、蔦重は闇として描かれている。
土山の屋敷での宴席の描写は、とてもいい。夜の闇のなかだからこそ、その豪奢ぶりがきわだつし、三味線と鼓などの音曲が、その演奏の場面として、効果的に使える。
誰袖が魅力的である。こんな花魁にねだられる松前廣年(蠣崎波響)は、うらやましいというべきか、あるいは、抜け荷をしろと要求されてかわいそうというべきか。だが、ここも、どうやらビジネスとしては、兄の松前廣道に、おいしいところをもっていかれそうであるが。しかし、これは、あぶない橋を渡ることになりかねない。
ビジネスのドラマとしては十分に面白いのだが、やはり出版関係の部分の描き方が、私としてはどうしても気になってしまうというところはある。それから、何度も書いているが、戯作や狂歌というものが、この時代にあってはインテリの遊び(ここをどう表現するかは難しいが)であることをどう描くのかということも、気になるところである。このドラマでは、近世の知識人という人物が出てきていない。これは、意図的にそういう人物造形を避けているということでいいのかもしれないが。
ムックリが、大河ドラマに出てくるのははじめてだったかもしれない。
橋本愛は、あまり素直でないややこしい女性を演じるととてもいい。
山師と出てきていたが、まさに、田沼意次の時代は、山師、の時代であった。
ぬっぺっぽうが登場していた。これから他の妖怪たちも出番があるだろうか。
2025年6月22日記
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