BS世界のドキュメンタリー「私たちの“仮想空間”を守ろう! 〜ゲームで狙われる子どもたち〜」 ― 2025-06-26
2025年6月26日 當山日出夫
BS世界のドキュメンタリー 「私たちの“仮想空間”を守ろう! 〜ゲームで狙われる子どもたち〜」
2024年、カナダ。
原題は、DANGEROUS GAMES Roblox and the Metaverse Exposed であるが、日本語で、「私たちの“仮想空間”を守ろう!」と「わたしたち」のことばをつかっている。なぜ、このことが気になるかというと、この「わたしたち」の中には、小児性愛者という人は含まれていないから、ということになるからである。
人間の性的指向は、いろんな要素からなりたっている。生物学的な性別にもとづく部分もあれば、そこから逸脱した部分もある。それは、生得的ななんらかの要因(たとえば遺伝子)によるものかもしれない。あるいは、生まれ育った環境によるものなのかもしれない。そして、成長して大人になってからは、自分でこのようにありたいと思って、それに向かっていくという部分もあるだろう。これらの要素のうち、人間がその自由意志でそうありたいと判断できるものは、どれぐらいあるのだろうか。(無論、人間の自由意志とは何かという深遠な問題があることは承知はしているが。)
おそらく、今の世の中で小児性愛の性的指向を持っている人は、自分で選択してそうなったということではないはずである。少なくとも、その多くはそうであろうと私は思っている。ここで、強いて『ロリータ』をもちだすこともないだろうが。
生育の文化的環境によるところがある、つまり、社会構築的なものだとしても、その生育の環境を、人間は自分の意志で選ぶことはできない。
人間が、その自由意志で選ぶことのできないことによって、不利益があってはならない。これは、近代的な人権についての価値観の基本である。肌の色や、(生物学的に)男性か女性かを選ぶことができないのと同じである。そして、小児性愛も、自分の意志で選ぶことのできなかったものだとするならば、他の性的少数者と同様にそのことで、不利益をこうむることがあってはならない。
それでも、なお、小児性愛者を、絶対的な悪として断罪したいということならば、そのことが特例としてあつかわれねばならないことを、「論理的」に説明する必要がある。ただ、自分が気持ち悪いからという理由で嫌うのは、かつて、同性愛者を病気あつかいしていたのと同じレベルである。
この番組を見て感じることは、まず、いわゆるリベラルとされる人びとの不寛容さである。あるいは、自分の好き嫌いを絶対視する傲慢さである。
小児性愛は、ケアの対象である。決して、排除や処罰の対象であってはならない。
以前、NHKで、「最深日本研究」であつかっていたが、日本の場合、メタバースのアバターとして、幼い美少女となっている、成年の男性が非常に多い、という現象がある。(これは、個人的感想としては、なんとなく分かることである。)このような現象を、この番組を作った人が知ったら、激怒するだろうか、どうだろうか。日本はなんと野蛮な国だとさげすむかもしれない。
メタバースの中ぐらいは、人間は自由であっていいと私は思う。男性が女性になり、若者が老人になり、いろんな役割や立場になってみることができる。それを、黒人である人間は、メタバースの中でも黒人のアバターでなければならない、素性を偽ってはならない、というのは、あまりにも潔癖すぎて窮屈な世界になるだけだと、私は、どうしても思ってしまうのである。想像力の世界を楽しむことができるのは、人間の文化である。
さらに書いておくと、子どもは純真無垢なものであるというのは、非常に社会構築的なものであるし、さらに、子どもだから、その主張することは「正しい」というのは、どうなのかと思う。(子どもが保護されるべきというのは、未熟だから、つまり、自分の責任で正しい判断ができないから、ということだと理解するのだが。)
2025年6月13日記
BS世界のドキュメンタリー 「私たちの“仮想空間”を守ろう! 〜ゲームで狙われる子どもたち〜」
2024年、カナダ。
原題は、DANGEROUS GAMES Roblox and the Metaverse Exposed であるが、日本語で、「私たちの“仮想空間”を守ろう!」と「わたしたち」のことばをつかっている。なぜ、このことが気になるかというと、この「わたしたち」の中には、小児性愛者という人は含まれていないから、ということになるからである。
人間の性的指向は、いろんな要素からなりたっている。生物学的な性別にもとづく部分もあれば、そこから逸脱した部分もある。それは、生得的ななんらかの要因(たとえば遺伝子)によるものかもしれない。あるいは、生まれ育った環境によるものなのかもしれない。そして、成長して大人になってからは、自分でこのようにありたいと思って、それに向かっていくという部分もあるだろう。これらの要素のうち、人間がその自由意志でそうありたいと判断できるものは、どれぐらいあるのだろうか。(無論、人間の自由意志とは何かという深遠な問題があることは承知はしているが。)
おそらく、今の世の中で小児性愛の性的指向を持っている人は、自分で選択してそうなったということではないはずである。少なくとも、その多くはそうであろうと私は思っている。ここで、強いて『ロリータ』をもちだすこともないだろうが。
生育の文化的環境によるところがある、つまり、社会構築的なものだとしても、その生育の環境を、人間は自分の意志で選ぶことはできない。
人間が、その自由意志で選ぶことのできないことによって、不利益があってはならない。これは、近代的な人権についての価値観の基本である。肌の色や、(生物学的に)男性か女性かを選ぶことができないのと同じである。そして、小児性愛も、自分の意志で選ぶことのできなかったものだとするならば、他の性的少数者と同様にそのことで、不利益をこうむることがあってはならない。
それでも、なお、小児性愛者を、絶対的な悪として断罪したいということならば、そのことが特例としてあつかわれねばならないことを、「論理的」に説明する必要がある。ただ、自分が気持ち悪いからという理由で嫌うのは、かつて、同性愛者を病気あつかいしていたのと同じレベルである。
この番組を見て感じることは、まず、いわゆるリベラルとされる人びとの不寛容さである。あるいは、自分の好き嫌いを絶対視する傲慢さである。
小児性愛は、ケアの対象である。決して、排除や処罰の対象であってはならない。
以前、NHKで、「最深日本研究」であつかっていたが、日本の場合、メタバースのアバターとして、幼い美少女となっている、成年の男性が非常に多い、という現象がある。(これは、個人的感想としては、なんとなく分かることである。)このような現象を、この番組を作った人が知ったら、激怒するだろうか、どうだろうか。日本はなんと野蛮な国だとさげすむかもしれない。
メタバースの中ぐらいは、人間は自由であっていいと私は思う。男性が女性になり、若者が老人になり、いろんな役割や立場になってみることができる。それを、黒人である人間は、メタバースの中でも黒人のアバターでなければならない、素性を偽ってはならない、というのは、あまりにも潔癖すぎて窮屈な世界になるだけだと、私は、どうしても思ってしまうのである。想像力の世界を楽しむことができるのは、人間の文化である。
さらに書いておくと、子どもは純真無垢なものであるというのは、非常に社会構築的なものであるし、さらに、子どもだから、その主張することは「正しい」というのは、どうなのかと思う。(子どもが保護されるべきというのは、未熟だから、つまり、自分の責任で正しい判断ができないから、ということだと理解するのだが。)
2025年6月13日記
ダークサイドミステリー「怖いウワサの新時代“ネット怪談”誕生秘話 〜杉沢村伝説・くねくね・きさらぎ駅〜」 ― 2025-06-26
2025年6月26日 當山日出夫
再放送である。最初は、2023年9月14日。この日付は気になる。というのは、『ネット怪談の民俗学』(廣田龍平、ハヤカワ新書)の刊行が、2024年の10月だからである。どちらが先かというと、NHKの番組の方がはやい。ただ、この本のあとがきを見ると、この本の企画は2022年の初頭からのことらしい。このような分野に民俗学の立場から、本格的に研究をしていた廣田龍平に、NHKと早川書房、両方から声がかかったということなのだろう。
私自身は、ネット怪談というものについての知識はほとんどなかった。しかし、世の中にパソコンというものが登場してきてから使っているし(大学を出てしばらくしてからである)、パソコン通信の時代があって、それからインターネットの時代になっていく過程を、自分自身のこととして体験してきている。だから、その時代的な背景ということについては、理解できるつもりでいる。
この番組を見てまず思ったことは、きちんとしている(というのも変かもしれないが)である。「世間話」と言っていた。これは、れっきとした民俗学用語である。学術用語としての「世間話」が、ネット空間のなかでどのようにうまれ、そして、伝播していくのか、という観点からの考察がメインであった。民俗学的としての考え方、それから、メディアとしてのインターネットの特性についても、考えてあるということが分かる。
杉沢村の話しは、もともとは青森の大学生の間で伝えられていた。まだインターネットの前のことになる。これはちゃんとした論文として記録されている。それが、テレビ番組、アンビリーバボーでとりあげられて世の中の話題になる。そして、さらに、話しはふくらんでいき、拡散していく。しかし、誰もその村の存在をつきとめることはできない。
くねくねの話しは、2チャンネルからはじまった。(そういえば、2ちゃんねるが多くのネットユーザの話題になった時期があった。それ専用のブラウザまでもあったりした。)
これらは、ネット空間で広まっていくことになる。見ていて面白かったのは(私にとってということになるが)、「わカらなイホうガいイ」という表記。ひらかなとカタカナを交互につかっている。普通の日本語の表記では、こういうことをしない。かなり面倒な書き方であるが、このような工夫(?)をしてまで、何かしら不気味な声の雰囲気を出したいということになる。そして、これは、文字だけのコミュニケーションだから可能だったことになる。(これが、現在の動画投稿などになると、このような工夫は必要なくなる。別の方法で、効果をねらうことになる。)
きさらぎ駅は、実況中継型である。まだ、旧来の携帯電話の時代で、それで、電子メールなどが使われていたころである。これも、文字だけのコミュニケーションということが前提になっている。
この話し、いったい誰が列車に乗っていたのか分からないし、それに対して書き込みして反応していたのも特定できない。匿名性のなかに成立した話しということになる。
「世間話」や「伝説」がそうなのだが、杉沢村などは過去にあったこととして語られる。それに対して、きさらぎ駅は、リアルタイムの実況中継という形をとっている。これは、インターネット時代ならではのことである。
私の経験として、パソコン通信の時代に、これは、「N対N」のコミュニケーションになるということを予見したのだが、現在のSNSによるコミュニケーションのあり方とは、またちょっと違ったものであった、というのが感じているところである。
非常に興味深い指摘だと思ったのは、ネット上の怪談にまつわる言説は、民俗学のふりをしている、そのような知識で説明したがる、ということ。これは、一般の人びとの民俗学という学問についていだいているイメージの反映であり、日本でも、地方にいけば古くからの伝承として、このようなことが残っているはずである、という思い込み、あるいは、願望、を反映したものといえるだろうか。
(番組では言っていなかったが)取りあげられたネット怪談と、現在のいわゆる「学校の怪談」など、また、都市伝説と言われるような各種の話し……NHKで、しばらく前に「業界怪談」という番組をやっていたことがあるが……とは、現代の人びとの意識のなかで、どのように結びついているのだろうか。
おそらく現代では、新しい怪談があり、それが現代の民俗学やメディア論のなかで、新たな視点から論じられていくことになるだろう。
『ネット怪談の民俗学』(廣田龍平、ハヤカワ新書)は、面白く読んだ本である。ネット怪談という研究分野は、これからどうなっていくだろうかと思う。もうリタイアした身としては、楽しみに見ていくことにしたい。
2025年6月20日記
再放送である。最初は、2023年9月14日。この日付は気になる。というのは、『ネット怪談の民俗学』(廣田龍平、ハヤカワ新書)の刊行が、2024年の10月だからである。どちらが先かというと、NHKの番組の方がはやい。ただ、この本のあとがきを見ると、この本の企画は2022年の初頭からのことらしい。このような分野に民俗学の立場から、本格的に研究をしていた廣田龍平に、NHKと早川書房、両方から声がかかったということなのだろう。
私自身は、ネット怪談というものについての知識はほとんどなかった。しかし、世の中にパソコンというものが登場してきてから使っているし(大学を出てしばらくしてからである)、パソコン通信の時代があって、それからインターネットの時代になっていく過程を、自分自身のこととして体験してきている。だから、その時代的な背景ということについては、理解できるつもりでいる。
この番組を見てまず思ったことは、きちんとしている(というのも変かもしれないが)である。「世間話」と言っていた。これは、れっきとした民俗学用語である。学術用語としての「世間話」が、ネット空間のなかでどのようにうまれ、そして、伝播していくのか、という観点からの考察がメインであった。民俗学的としての考え方、それから、メディアとしてのインターネットの特性についても、考えてあるということが分かる。
杉沢村の話しは、もともとは青森の大学生の間で伝えられていた。まだインターネットの前のことになる。これはちゃんとした論文として記録されている。それが、テレビ番組、アンビリーバボーでとりあげられて世の中の話題になる。そして、さらに、話しはふくらんでいき、拡散していく。しかし、誰もその村の存在をつきとめることはできない。
くねくねの話しは、2チャンネルからはじまった。(そういえば、2ちゃんねるが多くのネットユーザの話題になった時期があった。それ専用のブラウザまでもあったりした。)
これらは、ネット空間で広まっていくことになる。見ていて面白かったのは(私にとってということになるが)、「わカらなイホうガいイ」という表記。ひらかなとカタカナを交互につかっている。普通の日本語の表記では、こういうことをしない。かなり面倒な書き方であるが、このような工夫(?)をしてまで、何かしら不気味な声の雰囲気を出したいということになる。そして、これは、文字だけのコミュニケーションだから可能だったことになる。(これが、現在の動画投稿などになると、このような工夫は必要なくなる。別の方法で、効果をねらうことになる。)
きさらぎ駅は、実況中継型である。まだ、旧来の携帯電話の時代で、それで、電子メールなどが使われていたころである。これも、文字だけのコミュニケーションということが前提になっている。
この話し、いったい誰が列車に乗っていたのか分からないし、それに対して書き込みして反応していたのも特定できない。匿名性のなかに成立した話しということになる。
「世間話」や「伝説」がそうなのだが、杉沢村などは過去にあったこととして語られる。それに対して、きさらぎ駅は、リアルタイムの実況中継という形をとっている。これは、インターネット時代ならではのことである。
私の経験として、パソコン通信の時代に、これは、「N対N」のコミュニケーションになるということを予見したのだが、現在のSNSによるコミュニケーションのあり方とは、またちょっと違ったものであった、というのが感じているところである。
非常に興味深い指摘だと思ったのは、ネット上の怪談にまつわる言説は、民俗学のふりをしている、そのような知識で説明したがる、ということ。これは、一般の人びとの民俗学という学問についていだいているイメージの反映であり、日本でも、地方にいけば古くからの伝承として、このようなことが残っているはずである、という思い込み、あるいは、願望、を反映したものといえるだろうか。
(番組では言っていなかったが)取りあげられたネット怪談と、現在のいわゆる「学校の怪談」など、また、都市伝説と言われるような各種の話し……NHKで、しばらく前に「業界怪談」という番組をやっていたことがあるが……とは、現代の人びとの意識のなかで、どのように結びついているのだろうか。
おそらく現代では、新しい怪談があり、それが現代の民俗学やメディア論のなかで、新たな視点から論じられていくことになるだろう。
『ネット怪談の民俗学』(廣田龍平、ハヤカワ新書)は、面白く読んだ本である。ネット怪談という研究分野は、これからどうなっていくだろうかと思う。もうリタイアした身としては、楽しみに見ていくことにしたい。
2025年6月20日記
ザ・バックヤード「小石川植物園」 ― 2025-06-26
2025年6月26日 當山日出夫
ザ・バックヤード ザ・バックヤード「小石川植物園」
小石川植物園は、少し前に、「ドキュメント72時間」でとりあげていたのを覚えている。ここには、東京に住んでいるとき、行ったことはある。昔は、小石川療養所で、『赤髭』の舞台になったところでもあると思っているが、詳しい沿革は知らない。ともあれ、今は、東京大学の組織の一つである。昔風の言い方をすれば、理学部附属、ということになる。
だから、この植物園が研究施設であることは、当たり前のことである。東京都内の公園ということではない。
ここが財政的にとても苦しい状態にあるというニュースが流れてきたのは、新しいことだと覚えている。建物が老朽化しているし、標本の保存もこの先大丈夫だろうか、という状態らしい。
この番組のなかでは、こういうことは言っていなかったが。(少しぐらい一般の入園料を上げるなり、寄付を集めるなりしていいはずでる。根本的には、日本という国家の学術研究へのとりくみなのであるが。学術会議みたいにあってもなくてもどうでもいいような組織……おそらく日本の大多数の研究者は文系・理系を問わずそう思っているだろう……よりも、小石川植物園の標本を守ることの方が意味があると思う。)
小笠原は、自然としても貴重な地域である。ここは、日本語学の観点からも、とても興味深いところでもある。日本語の中での方言としてのこともあるが、アメリカとのかかわりで、ちょっと言語として特殊なところである。
ともあれ、知的探究心に突き動かされて研究にうちこんでいる姿というのは、いいものだと思う。こういう人たちがいて、また、研究に従事できるところは、無くしてはいけない。
2025年6月20日記
ザ・バックヤード ザ・バックヤード「小石川植物園」
小石川植物園は、少し前に、「ドキュメント72時間」でとりあげていたのを覚えている。ここには、東京に住んでいるとき、行ったことはある。昔は、小石川療養所で、『赤髭』の舞台になったところでもあると思っているが、詳しい沿革は知らない。ともあれ、今は、東京大学の組織の一つである。昔風の言い方をすれば、理学部附属、ということになる。
だから、この植物園が研究施設であることは、当たり前のことである。東京都内の公園ということではない。
ここが財政的にとても苦しい状態にあるというニュースが流れてきたのは、新しいことだと覚えている。建物が老朽化しているし、標本の保存もこの先大丈夫だろうか、という状態らしい。
この番組のなかでは、こういうことは言っていなかったが。(少しぐらい一般の入園料を上げるなり、寄付を集めるなりしていいはずでる。根本的には、日本という国家の学術研究へのとりくみなのであるが。学術会議みたいにあってもなくてもどうでもいいような組織……おそらく日本の大多数の研究者は文系・理系を問わずそう思っているだろう……よりも、小石川植物園の標本を守ることの方が意味があると思う。)
小笠原は、自然としても貴重な地域である。ここは、日本語学の観点からも、とても興味深いところでもある。日本語の中での方言としてのこともあるが、アメリカとのかかわりで、ちょっと言語として特殊なところである。
ともあれ、知的探究心に突き動かされて研究にうちこんでいる姿というのは、いいものだと思う。こういう人たちがいて、また、研究に従事できるところは、無くしてはいけない。
2025年6月20日記
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