声のアーカイブ ― 2008-03-15
2008/03/15 當山日出夫
第4回ポピュラーカルチャー研究会 その声は誰の声? 〈声〉の現在とポピュラーカルチャー
この研究会、行きたかったが、いろいろと用事があって行けなかった。もろさんが、ブログに感想を書いておいでなので、読む。
もろ式:読書日記
http://d.hatena.ne.jp/moroshigeki/20080315/1205513387
日本語研究などという分野にいると、言語=音声言語=コミュニケーション、という枠組みで考えてしまう。私のように、文字や表記を専門にする立場にいても、えてしてそうなる。
言語研究の分野で、「手話」や「非言語コミュニケーション」が注目されるようになったのは、比較的最近のことといってよいであろう。少なくとも、私が、学生のころまで、「手話」は、言語研究の対象ではなかった。
このような問題は他にもあって、日本語の文字・表記研究において、「点字」が本格的に論じられている、という段階にはない。0213を開発の段階でも、点字は入らなかった。
だが、私自身としては、点字もふくめて、日本語を書くための文字であると認識している。6ビットの言語学、である。(通常、日本で使っている点字は、6点の点字なので。)
ところで、今、デジタルアーカイブ論の授業の準備をあれこれと考えている。デジタルアーカイブというよりも、デジタル・ドキュメンテーション、と言った方がよいかとも思うが、現在の日本での一般の言い方にしたがっておく。
音声・文字・身体動作・画像(静止画像・動画像・3D)、さまざまなデジタルアーカイブがある。だが、それぞれについて、どうも独立して論じられているように思えてくる。普通は、身体動作や風景といったものは、音もともなっている。歩けば足音がする、風景は目で見るものだが、同時に音も聞いている。もし、本当に無音であれば、その無音であることを感じ取っている。
デジタルアーカイブを考えるとき、総合して人間が感じ取っているものを、音声・画像・文字、などに分解することになる。現時点での技術としては、それはやむを得ないとは思うが、デジタルアーカイブしたとき、何を排除しているか、という視点だけは、失いたくないと思う。
人文情報学(デジタル・ヒューマニティーズ)が「人間の学」であろうとするならば、総合的な身体的な感性という点が最終的な課題になるのかもしれない、と考える。
声はアーカイブ可能であろうか。ただ、録音記録があるからといって、そこで思考を停止してはいけない。逆説的にいえば、沈黙によってこそ伝えられる何かがあるはずである。
當山日出夫(とうやまひで)
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