描かれた京都と江戸を読み解く2008-03-01

2008/03/01 當山日出夫

立命館アート・リサーチセンターでの、

京都 vs. 江戸 描かれた京都と江戸を読み解く

の第1日目に出席。感想を少しだけ。

美術史・歴史、あるいは、宗教学や民俗学、それぞれに、絵画資料についてのアプローチの方法の違いはある。今回の研究会は、そのことをふまえたうえで、同じ資料(出光見美術館の洛中洛外図屏風・江戸名所図屏風)に対して、どのように考えるか……このことを前提、あるいは、目標としたもの。

このことについて、私の立場を言えば、きわめて単純である。デジタルがそれを架橋するか(できないか)……である。

今日の参加者は、美術史関係の人が多かった。それに、地理(GIS)関係がすこし、という状況。情報工学(画像処理)の方面の人は、参加していなかったようにみうけた。この点については、いささか残念な気がしてならない。

絵画(美術)について論ずるとき、徹底的にメタのレベルから考えることもできる。人文情報学シンポジウムのように。

一方で、きわめて、機械的な画像処理技術で考えることもできる。「フラクタル理論」を使った絵画研究の事例など、CHの分野では、すでにある。

そのなかで、洛中洛外図にGISを使うというのは、そのなかの一つの方法。少なくとも、私の頭ではそうだったのだが……今日の研究会では、デジタルにかんする発表がGIS関係だけだったせいもあってか、美術史関係の参加者の関心が、コンピュータ=GIS、の方向だけに向いてしまった感じがしてならない。

GISに限らない、もっと多様な、コンピュータを使った絵画研究の先行事例があるのに、それらが紹介されなかったのは、惜しまれる。明日は、景観復元の発表があるようだが、出席できるかどうか分からない。CGやVRを、美術史の方面の人たちは、どう考えているのか、そのことに、むしろ私の関心はある。

コンピュータが今の自分の研究(美術史・歴史学など)に役立つかどうか、だけで判断するのではない。新しい学知を創造できるかどうかのチャレンジであると、私は、思っている……デジタル・ヒューマニティーズ(人文情報学)とは。

當山日出夫(とうやまひでお)

CFが512のわけ2008-03-02

2008/03/02 當山日出夫

今日は、時間の都合がつかないので、立命館の研究会は休んで家にいる。次週、岡崎(愛知県)に行かなければならないので、その準備。カメラのバッテリーの充電など、しておかないといけない。

記録メディアは、512のコンパクトフラッシュ(CF)にしている。2ギガぐらいのを用意した方がいいのかどうか。512を使っているには、わけがある。512であれば、まるごと、CD-Rにコピーできる。これをこえて、1ギガ以上に大きくなると、DVDになる。あるいは、CD-Rで、分割することになる。

DVDが、はたして、どこまで、モノとして保存できるのか、やや不安がある。今のところ、CD-Rが、最も安定しているかなと思うので、こうしているが、今後のなりゆきではどうなるか。

DVDをとおりこして、いきなり、ブルーレイに記録・保存することになるかもしれない。(もちろん、その場合でも、ハードディスクのデータと、複数枚のディスクに予備を保存ということにはするが。)

デジタルのデータを安定して長期間保存できるメディアは、いったい何が適当か……このところが、今の一番の課題かもしれない、と思っている。

ハードディスクからハードディスクへのデータのコピーとバックアップ、その作業の積み重ねが必須になる。個人レベルでは、2年ぐらいすれば、倍の容量のディスクが、同じ値段になる……それにしたがって、順次、コピーしていけば、大丈夫(だろう)。と言っても、死ぬまでがんばっても、テラ単位のデータには、達しないと思うが。

デジタルで残すといっても、テキストであれば文字コードの問題がある。画像データであれば、色空間の問題がある。それほど、ことは単純ではない。

東洋古典学で、紙の本の世界では、100年、200年など、ほんのわずかな時間でしかない。しかし、20年前の、PC9801で使った5インチFDは、絶望的。

なんという時代になってしまったのだろう……と慨嘆する。

當山日出夫(とうやまひでお)

『ARG』312号2008-03-03

2008/03/03 當山日出夫

ARGの312の感想を少し。

編集後記は、いつも面白い。今回の号を読んで、これは大事だな、と思った、 あるいは共感したことがある。


図書館、特に大学図書館のサイトが個性的で輝いていた時代があったとしたら、 それは初期の手作りの時期ではないか、というご指摘をいただいた。ほぼその 通りと思う。


ここで指摘されていることは、人文学でのコンピュータ利用一般に言えるので ないだろうか。コンピュータが一番かがやいていた時代、それは、初期の、P C-9801(NEC)の時代であった……と、私は個人的に思う。このとき に、「夢」(あるいは、これは、幻想であったのかもしれない)を、見てしま った。その「夢」(あるいは幻想)を、いまだに追い続けている。

GCOEの関係で、若い人たち(大学院生)などと話しをする。そこで感じる ことのひとつは、今の若い人たちは、すでにコンピュータがある中で勉強して いる。今の学部学生なら、小学生の時から、コンピュータで遊んでいても不思 議はない。(我が家の状態を考えると。)

私の年代であれば、原稿用紙・ノート・万年筆・紙の資料カード(京大型カー ド)……ということを経験している。数千枚の原稿用紙・数万におよぶカード、 これらをいったいどうしよう。そこから、どう次のステップに飛躍するか、そ の向こうにあるものを、コンピュータに、見てしまう。

簡単にいえば、コンピュータに夢があり、輝いていた。また、インターネット の前、「パソコン通信」の時代、そこにも、やはり、新しい夢があった。研究 者同士のコミュニケーション、データの流通・共有……今のインターネット時 代で課題となっていることの、ほとんどの論点は、すでに、最初期に出尽くし ていると行っても過言ではないかもしれない。

パソコン(PC-9801)やパソコン通信が、輝いていた時代。それは、図 書館の人にとっても、同様かもしれない。個人と組織(図書館)であるから、 すこし、事情は違うかもしれない。しかし、その草創期にこそ、本質的な問題 を、すでにとらえていた人たちがいる。

だが、逆に言えば、技術的に困難で実現しないから、何でも考えられた(空想 できた)と、いうこともできるが。

今が、いわゆる「WEB2.0」の時代を迎えようとしているなら、「ゼロ」 いや「マイナス」の時代に、何を夢見たか(幻想を見たか)、今こそ、それを 「歴史」として検証して、残すときではないだろうか。

この私のブログの名称に「やまもも」と使っているのは、紹介文に書いてある とおり、昔のパソコン通信の時代のハンドル・ネーム、に由来する。まだ、私 は、夢をおいかけている、のかもしれない。

當山日出夫(とうやまひでお)

GISが暗黙知を明示する2008-03-03

2008/03/03 當山日出夫

過日の立命館のARCでの研究会。2日あるうちの、1日目だけしか出席できなかったのだが、今になって考えて思うこと。

GIS(地理空間情報システム)、最近では、それに、時間を加えて、時空間情報処理システムへと発展しつつある。このことは、CHの分野にかかわっていれば、すでに多くの人が知っている。

時空間=場所と時間、実は、これが、人文学においては、かなりやっかいな問題をかかえている。(このことの一端は昨年の「じんもんこん2007」京大会館で話しをした。)

まず、時空間情報は、場所=緯度経度情報、そして時間=年月日・時刻、という形で、きわめて機械的・無機質である。ならば、誰でも、それを、同じように見ているか、となるとそうではない。それが、GISとして、学術的な意味のあるデータとして処理の対象となったとき、各研究分野による考え方の違いが、露呈する。あるいは、すれちがいが起こる。

私は、日本語の研究といっても、文字とか文献資料による分野である。方言学・言語地理学には、うとい。それでも、最低限の知識の範囲で考えてみても、文化的な事象を、時空間情報で考えることの難しさは、理解できる。

たとえば、方言調査から地図をつくる。これを、GISの技術で、自動的に……という研究があることは、知っている。そのとき、まず、何のために地図を作るのかという目的の設定がある、そして、できた地図から何を読み取るかという解釈がある。その過程にサンプリングの問題があり、また、地図のどの地点にポイントするか、という問題がある(例えば、調査地点なのか、インフォーマントの居住地なのか、さらには、村落市町村単位か、その場合、地図のどこにポイントを決めるのか、市役所の位置か、人口の重心地点か……などである。)

美術史の研究分野の人が、GISに期待するものは、なんだろう、と思う。すくなくとも、言語地理学のアプローチとは異なることだけは確かだろう。また、考古学とも違うだろう。

このように考えると、時空間情報といいながら、同じものを共有しているようでいて、実は、そうではない……ということに気づく。言い換えれば、その研究分野の方法論、あるいは、暗黙の前提というべきものを、明らかにしてしまう。それが、時と場合によっては、議論のすれ違いになる。

GISは、従来の学知の暗黙の部分を暴露する、極限すれば、このようにいえるだろうか。このことは、さらに考えていきたい。

當山日出夫(とうやまひでお)

Googleブック/渋沢栄一と福沢諭吉2008-03-03

2008/03/03 當山日出夫

ARGのブログ版、

http://d.hatena.ne.jp/arg/20080302/1204464692

を見る。

基本的に、渋沢栄一についてのものだが、

実業史研究情報センター・ブログ 「情報の扉の、そのまた向こう」

http://d.hatena.ne.jp/tobira/

がすごい。

[栄一関連文献][図書館ニュース] Googleブック検索定点観測 第1回 (検索日時:2008.03.02 22:42)

として、グーグルブックの検索結果(渋沢栄一)の一覧が出してある。

ざっと見てなのだが、全文表示できる、とあるのは、『慶應義塾百年史』。リンクをたどると、その全文画像と、テキスト(プレーンテキスト)を、見られる。

慶應の図書館は、グーグルブックに協力している、日本の図書館(今のところ、慶應だけか)であるから、当然かもしれないが、やはりこれはすごい、と思う。ちなみに、福澤諭吉、で検索をかけると、その著作が読める。

ただ、プレーンテキストがあるといっても、そのまま使える(自然言語処理)というものではない。しかし、これが、利用の方法によっては、宝の山であることは確か。

また、アーカイブ関係の最新情報についても、ここは最重要なサイトであるといっていいだろう。今後、常に、注目していきたい。しかも、これが、「はてな」の中に作ってあるところがいい。

當山日出夫(とうやまひでお)

岡崎から帰った2008-03-07

2008/03/07 當山日出夫

岡崎市(愛知県)に行って、文字の調査(の予備調査)。直接の目的は、岡崎における多言語景観(ここは、ブラジルから来たポルトガル語を母語とする人が多い)の調査。

厳密には、多言語、と、文字とは、別に考えなければならないのだが、とりあえずは、多言語表示の例を集めることになる。また、この意味では、岡崎よりも、近隣の豊田市の方が、事例は豊富に見られるだろう。今回は、国立国語研究所の岡崎調査の一部ということで、岡崎市内に限定。

街で写真を写しながらいろんなことを考えた。

景観・風景というものは、アーカイブ可能であろうか。京都のように意図的に「歴史的景観」、として保全する場合もある。そのようにモノとしての建物などを残すことはできるだろう。

だが、その一方で、景観・風景というのは、人間が見る、文化的な事象でもある。それを、景観・風景として、写真や絵画におさめたとき、それは、別のものに変質する。そして、写真や絵画は、それとして、記録・保存(アーカイブ)できる。

現在のコンピュータ技術であれば、「現在」の街の様子を、CG・VRで、再現して見せることも可能である。これが、後世に残った場合、それを、アーカイブとして見るだろうか。

この逆の方向では、「昔」の町並みを、CG・VRで「再現」しようという研究もある。(これは、アーカイブとはいわない。)

景観文字(街頭の看板など)は、文字資料として、非常に面白い。だが、このとき気をつけなければいけないのは、文字が無い景観、という存在。実は、古い住宅地などでは、むしろ、景観のなかに文字が無い方が普通というべきかもしれない。

写真や絵画を残すことと、風景の関係。

また、そもそも、文字をアーカイブするとは、どういう行為であるのか。このあたりのことから、基礎的な議論が必要であると、歩きながら考えた。

當山日出夫(とうやまひでお)

問題な文字2008-03-07

2008/03/07 當山日出夫

人文情報学シンポジウムをめぐって、いろいろ議論がさかんである。特に、文字・キャラクタをめぐって。

現時点での最新のものとしては、次のようなものであろうか。これらのコメントやトラックバックをたどると、なかなか面白い。

もろさんの、hi-2008に向けて (2)

http://d.hatena.ne.jp/moroshigeki/20080306/1204764982

小形さんの、「束縛」という視点について (3)

http://d.hatena.ne.jp/ogwata/20080305/p1

ここでの議論からはずれることを承知で、とりあえず、自分の考え方の基本的スタンスをまとめてみたいと思う。

一般論になるが、日本語研究という立場にいると、まず、次のように考える。近年のベストセラーのひとつが『問題な日本語』(北原保雄、大修館書店)であることは、周知であろう。

あくまでも私見であるが(そして、やや誇張してであるが)、日本語研究者は、「問題な日本語」とは考えない。それよりさらにメタのレベルで、「問題な日本語があるという意識」の存在の方を考える。言い換えれば、日本語における規範性意識とはどのようなものであるのか……ということになる。

絶対的な「正しい日本語」がある、という意識が、日本語においては、かなり根強いものがある、とはいえそうである。でなければ、「問題な日本語」が話題になることがない。

この延長で考えれば、正しい文字・文字の規範性とは、いったい何であろうか。「常用漢字(当用漢字)」の字体(新字体)は、正しい文字であるかどうか。これを「正しい文字」と認識する人もいるだろうし、あるいは、康煕字典体が「正しい字」であって、常用漢字体は、略した字であると、考える人もいる。

これは、どちらの立場が正しいか、正しい文字はどれか、ということではない。多様な価値観があることを、客観的に語るとどうか、ということである。

さらにいえば、近代になってからの「国語」「標準語」をどの方向で考えることになるのだろうか……ただ、現在の日本語研究者の多くは、このような視点を超克しようと模索している、とはいえそうである。

正直いってあまりかかわりたくないが……文字の規範性の問題は、「国語」の問題でもある。近年の国語学批判を超えたレベルから、総合的に考える視点を確保したい。このあたりが、今の私の基本の立場だろうか。

當山日出夫(とうやまひでお)

『カムイ伝』2008-03-07

2008/03/07 當山日出夫

小形さんのブログ「もじのなまえ」の

「束縛」という視点について (1)

で、白土三平の『カムイ伝』がまず引用(言及)してある。最初の段落で、「遠くまで行けるから」ということばにつけてある。

http://d.hatena.ne.jp/ogwata/20080302/p1

ここで使われているのは、小学館文庫版の『カムイ伝』の表紙画像。

ところで、私は、『カムイ伝』『カムイ外伝』は、2セット持っている。小学館文庫版と、最近の、カムイ伝全集版、である。そのうち、小学館文庫版の『カムイ外伝』第11巻の解説を、宮崎学、が、書いている。その第9巻に言及して次のように記している。


カムイが属していたとされる忍者群は、権力的諜報機関であるために、軍隊的規律を持っている。白土はこの規律を掟として、カムイに立ち向かわせたのである。離反という形を持ってである。

しかし、安兵衛たちアウトローの間に存在する掟とは、現代的表現を使うならば、市民的自治としての掟である。規律イコール掟一般として否定してしまったところに白土の限界があり、安兵衛の心理を大雑把にしか描けないということになったのだろう。(p.379)


では、文字における規範・基準・規格……は、どうであろうか。軍隊における規律のようなものか。あるいは、市民社会における共同体のルールのようなものか。

JISは「日本工業規格」、いわば軍隊的規律に近いだろう。では、常用漢字はどうか。印刷標準字体は。

一方で、康煕字典でもない、印刷標準字体でもない、拡張新字体などが、一般的であるという現実もある。これは、景観文字調査などから、明らかになる。

難しい問題なので、いろいろ考えねばならないが……白土三平では、個人的には、『ワタリ』が一番好きである。特に、「ゼロの忍者」……本当の敵は人間の心のなかにいる。

當山日出夫(とうやまひでお)

神保町のゾッキ本2008-03-11

2008/03/11 當山日出夫

人間文化研究機構の資源共有化一般公開記念フォーラムに参加のため、東京に行ってきた。その前は、奈良文化財研究所での、文化遺産のデジタルドキュメンテーションと利活用に関するワークショップ。これらの報告は、追って書いていくことにして、久々の神保町の印象など。

お金がいくらあっても足りなくなるのは明白であるし、かつ、重い、という理由で、東京に宿泊しても、あまり、神保町かいわいには足をむけないことにしている。だが、今回、どういうわけか、歩いてしまった。となれば、絶対に、手ぶらで通り過ぎるということは不可能。

なにもわざわざ東京で買わなくてもと思いながらも、次のような本を買ってしまった。

『世界の名著 マリノフスキー レヴィ・ストロース』(中央公論社)

店頭で、一冊300円のなかにあったので、思わず買ってしまった。まあ、個人的には、「構造主義」を自分なりに、勉強し直さないといけない、という気があってのことであるが。

『江戸東京を歩く宿場』.潮見鮮一郎.三一書房

東京という街(別に東京に限らないが)を、定住する人間の目で見るのと、旅人の目で見るのとでは違う。これは、現在の東京が、かつて、江戸であった時の「宿場」について語っている。著者の潮見鮮一郎は、『車善七』や『浅草弾左衛門』などの著作がある。都市というものをどのような視点から考えるか、興味がある。

『ドクターJazz 内田修物語』.高木信哉.三一書房

私の年代であれば、FMの深夜番組 → アスペクト・イン・ジャズ → 由井正一、そして、岡崎、となるのだが、このような記憶を共有できる人間は、少数かもしれない。しかし、その少数の人間にとっては、貴重な、時代の記憶である。

『横浜アーカイブス』.林宏樹(監修).生活情報センター

次年度、デジタル・アーカイブ論を講義しないといけないので、その準備というか、話しの材料に買ってみた。いわゆる「横浜写真」をあつめて、それをもって都市・横浜の形成史から、「アーカイブ」と言えるかどうか、見る視点によって、その意味は違ってくるだろう。このあたりを考えてみたいと思っている。

ところで、私の語彙では、上記の本など、ゾッキ本、という。古書ではない。で、買った古書店の人に聞いてみた。「今、ゾッキ本、という言葉をつかいますか? 私の学生のころは、よく使ったものですが……」。答えとしては、「今では、使わない。ゾッキ本ではなく、特価本、という」、とのこと。

本の作成・流通のシステムも変わり、ゾッキ本も、姿を消していく。このような流れのなかで、書籍とデジタルの問題も考えなければならないと、ふと、思った次第。

研究会の報告などは、追って記すことに。それから、『ARG313』についてのコメントも。また、私のメッセージにいただいたコメントにも、さらにお返事したいと思っているが、後ほど。

當山日出夫(とうやまひでお)

『ARG』313号2008-03-12

2008/03/12 當山日出夫

ようやくARG313に目をとおすことができた。今回の号の中心は、HPのアクセシビリティ、ということに集約できるだろう。

http://d.hatena.ne.jp/arg/20080310/1205120648

「カレントアウェアネス・ポータル」にせよ、また、「官公庁・独立行政法人 ウェブサイト全ページクオリティ実態調査の官公庁集計結果を発表」にせよ、「つかいやすさ」「わかりやすさ」という観点からの評価ということになる。

だが、そもそも、「つかいやすさ」「わかりやすさ」とは何であろうか。この点については、ARGでも、以下のように言及してある。

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だが、「利用者の使いやすさ(アクセシビリティ/ユーザビリティ)の観点から評価する」ことが十分にできているとも思えない。この調査だけに左右されては、人の目による定性的な調査によってみえてくる「使いやすさ」は見落としたままになってしまうのではないだろうか。

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これには、私も同感。具体的には、形式的な事柄(画像データに、代替テキストの表示があるか、色彩の組み合わせが適切かどうか)などは、機械的に判定できる。

しかし、項目の並び方のわかりやすさ、というのは、使う人間の予備的な知識や利用目的に大きく依存する。たとえば、国会図書館の「カレントアウェアネス・ポータル」ではどうだろうか。

個人的な好みを言わせてもらえれば、画面右側の記事のテーマ一覧は、軽視的に同じ大きさのフォントで表示してもらいたい。地域分類では、「ドイツ」が小さい字で、最初にきているのか、その意味を思わず考えてしまう。このようなところは、北米・ヨーロッパ・アジア、など、一般的な通念による地域区分で、均等に示してもらった方が、わかりやすい。

なお、現時点で調べてみると、「官公庁・独立行政法人 ウェブサイト全ページクオリティ実態調査の官公庁集計結果を発表」において、独立行政法人・民間法人のサイトも、調査結果が公表されている。

http://www.aao.ne.jp/service/research/cronos2/2008_gov/result2.html

見ると、国立国語研究所、メディア教育開発センター、の評価がひくい。いずれも、今後、廃止・再編・統合、となっている機関である。この二つの機関は、私も、よくアクセスする。これから、組織の改編とともに、HPがどうなっていくのか、見ていきたい。

HPのユーザビリティについては、誰が、何のために使うのか、このあたりから考える必要がある、と思う次第である。

當山日出夫(とうやまひでお)