『事件』大岡昇平(その三)2017-12-02

2017-12-02 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2017年12月1日
『事件』大岡昇平(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/12/01/8738016

この小説の魅力は、というよりも、今読んでも説得力のある小説だと感じさせる点のひとつは、その「犯罪」にもあると思う。

事件はいたって単純な事件である。犯人の男、その付き合っていた女性が妊娠した。その女性の姉は、中絶するようにせまる。そして、事件がおこる。男は女性の姉を殺してしまう・・・まあ、書いてしまえばこれだけのことである。

いわば、現代でもごく普通に起こりうるような事件であるといってよい。特殊な時代的背景があるというわけではない。週刊誌的にいえば、痴情のもつれである。

また、目撃証言も、物的証拠も、非常に限定的である。(裁判がはじまってから、はじめてあきらかになる、という要素はあまり多くはない。その解釈をめぐっては、検察側と弁護側が争うことになるが。そして、その過程は、スリリングで、ミステリとしてよく出来ている。)

しかし、ありふれた事件でありながら、昭和30年代の、東京近郊の小さな町の様子が、実にリアルに描かれている。読んでいると、その時代の空気、人びとの感じ方というものを、感じ取ることができる。

昭和30年代なかばという時代は、まだ戦争の影が残っている時代でもある。しかし、一方で、新しい高度経済成長に向かって進んでいく時代である。その微妙な時代の雰囲気を、この事件とそれにかかわる登場人物から感じられる。

今、21世紀になってから、戦後70年以上がたって、この小説を再読してみて、いささかも古びた印象がない。これは、作者(大岡昇平)が、普遍的な視点から、登場人物を、その時代の中で描いたから、ということになろうか。

『事件』は、まさにその時代を描いた小説でもある。