『誰がために鐘は鳴る』ヘミングウェイ(その三)2018-05-21

2018-05-21 當山日出夫(とうやまひでお)

誰がために鐘は鳴る(下)

続きである。
やまもも書斎記 2018年5月18日
『誰がために鐘は鳴る』ヘミングウェイ(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/05/18/8853318

この作品は、戦争小説であると同時に、恋愛小説でもある。主人公(ジョーダン)は、若い娘(マリア)に恋をする。その恋が、情熱的であり、そして、刹那的でもある。

戦争と恋、ということであるならば、同じヘミングウェイの『武器よさらば』がある。この作品では、戦争か恋か、という選択肢のなかで、恋を選び取っている。

しかし、『誰がために鐘は鳴る』では、戦争と恋という選択肢は無いように読める。戦いの中に身をおいていることも、ある意味で自明のことであり、そして、その状況のなかで恋におちることも、ある種の必然のこととして描かれている。ここにあるのは、戦争と恋をめぐる葛藤というよりも、戦争のなかにあるがゆえに、よりいっそう激しく燃え上がる恋の情熱、とでもいうべきであろうか。戦い、そして、恋する……この矛盾することが、その矛盾ゆえにこそ、より一層の刹那的情熱へとつながっている。

そして、この小説は、ハッピーエンドでは終わっていない。恋の行く末も、また戦場ならではの結末となっている。戦争を描いた小説として読みながら、そこに激しく、そして切ない恋の物語を読むことになる。私は、『武器よさらば』よりも、この『誰がために鐘は鳴る』の方が、戦争と恋を描いた小説としては、成功していると思う。

恋の小説家としてのヘミングウェイ……この観点から、『誰がために鐘は鳴る』はきわめて面白い作品であると感じる。

追記 2018-05-25
この続きは、
やまもも書斎記 2018年5月25日
『誰がために鐘は鳴る』ヘミングウェイ(その四)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/05/25/8859212

『西郷どん』あれここ「愛加那」2018-05-22

2018-05-22 當山日出夫(とうやまひでお)

『西郷どん』2018年5月20日、第19回「愛加那」
https://www.nhk.or.jp/segodon/story/19/

前回は、
やまもも書斎記 2018年5月15日
『西郷どん』あれこれ「流人 菊池源吾」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/05/15/8851445

今回の見どころとしては、西郷の奄美大島の人びとへの思い、それから、愛加那との恋、であろうか。

第一に、西郷の奄美の人びとへの思いがある。

西郷は、島の人びとの生活をきづかう。また、子供たちの教育にも力をいれる。そんな西郷に対して、龍佐民は、かまわないでくれと言う。いずれ、西郷は島を出て行く。そのような西郷に、米をめぐんでもらったところで、将来がどうなるというわけではない。いや、むしろ、そのようなめぐみがあるおかげで、未来はより苦しいものになるにちがいない。また、とぅまは言う。奄美大島の民は民のうちにはいっていないのである、と。このように言われて、西郷はなすすべがない。しかし、島の人びとへの思いは、より一層つのるようである。

おそらく、このことは、将来の西郷のナショナリズムがどのように形成されていくのか、その基盤をなすものになるのだろう。(私は、ここで、ナショナリズムを悪い意味でつかおうとは思っていない。)

薩摩というリージョナリズム(地域主義)、あるは、パトリオティズム(愛郷心)から、一つ飛躍して、「日本」というものを考えるようになるとき、奄美大島の人びとのことも視野にいれるということが、きっかけになるのだと思って見ている。奄美大島の人びとをも、「民」としてふくむものが、新しい近代の「日本」として構想されることになるのであろう。

明治の日本が、薩摩の藩閥政府ではない、少なくとも、西郷の意図したものは、そのようなものではなかったということが、ここから読み取れるのかもしれないと思う。もっと幅広い国民国家を考えていたはずである。

とまあ、このような意図で、ドラマとしてこの脚本はなりたっているように思う。つまり、その後の明治になってから琉球を沖縄県にすること、また明治以降の奄美大島のことなど、一連の日本の政策の是非の問題は、この場合、わきにおいて考えることになる。

第二は、愛加那との恋である。西郷は、とぅまに恋をする。アンゴにはしない、と言う。そうではなくて、妻にすることになる。この西郷と愛加那(とぅま)との恋が、印象的に描かれていた。特に印象的であったのは、お互いに名前をつけるシーン。西郷は、とぅまに愛加那と名をつける。そして、自らの名前、西郷吉之助、を教える。

だが、我々は知っている。西郷は、いつまでも奄美大島にいることはないのであることを。歴史の流れのなかで、再び西郷は薩摩に戻ることになる。愛加那とは分かれざるをえない。

そして、そのような結末を、愛加那もすでに受け入れているかのごとくである。ユタの予言にしたがって、西郷と結ばれ、また、西郷と別れることになることを、自らの宿命として受け入れているかのごとくである。

だからこそ、奄美大島での二人の恋は、刹那的であり激しくもあるのだろう。

以上の二点が、今回の見どころ、これからのドラマの展開への伏線な部分、として見ていたところである。

次回は、いよいよ桜田門外の変のようである。幕末の歴史が大きく動くことになる。楽しみに見ることにしよう。

追記 2018-05-29
この続きは、
やまもも書斎記 2018年5月29日
『西郷どん』あれこれ「正助の黒い石」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/05/29/8861613

紫蘭2018-05-23

2018-05-23 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日は花の写真の日。今日は紫蘭(シラン)である。

前回は、
やまもも書斎記 2018年5月16日
ニシキギの花
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/05/16/8852006

我が家の池の畔に咲いている。この花は、比較的時期が長いようである。ただ、花がてんでかってにいろんな方向を向いて咲くので、写真に撮るには、ちょっと難しい。

ジャパンナレッジ(日本国語大辞典)で「紫蘭」を見てみる。

ラン科の多年草。関東以西の各地の山野にまれに生え、観賞用に庭園・花壇で栽培される。

とある。我が家のものは、園芸用に植えられたものであろう。用例を見ると、古いもので、俳諧・毛吹草(1638)から見える。また、古辞書では、日葡にあるよし。

また、「ふじばかま」(藤袴)の異名でもある。こちらの方の用例は、もっと古い。本朝文粋、山家集からある。

紫蘭

紫蘭

紫蘭

紫蘭

Nikon D7500
AF-S DX Micro NIKKOR 85mm f/3.5G ED VR

追記 2018-05-30
この続きは、
やまもも書斎記 2018年5月30日
カナメモチ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/05/30/8862238

『西郷どん』における方言(五)2018-05-24

2018-05-24 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記  2018年3月29日
『西郷どん』における方言(四)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/29/8813994

この前の回から重要なのが奄美大島のことば。これは、テレビで字幕が出ていた。

私は、通常、見るときも字幕表示で見ている。これは、表示させないことができる。だが、それとは別に、始めから放送の画面の中に組み込んであるものとして、奄美大島ことばには字幕があった。

薩摩のことばもわかりにくいが、わかりにくさという点では、奄美大島のことばも、そう大して違わないと感じる。しかし、ドラマ制作の側(NHK)としては、奄美大島のことばには、字幕をつけるという方針でのぞんでいる。

一般の日本語からすると、薩摩のことばは、わかりにくいかもしれないが、同じ日本語であるということなのであろう。薩摩ことばについては、字幕をつけていない。

奄美大島のことばになると、さらにわかりにくいことばになっている。おそらく純然たる奄美ことばなのであろう、ユタのことばはほとんどわからない。(言語学的に厳密に考えるならば、奄美大島方言というよりも、奄美語という一つの言語を設定して考えることになるのかと思う。ここは、方言区画論は私の専門領域とはかなり離れるので、一般的な日本語学の知識としてであるが。)

ともあれ、NHKとしては、奄美大島のことばは、薩摩の外にあることば、日本語の外にあることばとして、とらえていることを意味するのだろう。ただ、わかりやすい、わかりにくい、という意味で、字幕をつける、つけないということではないと思う。

今のテレビは、デジタル放送になっているので、字幕表示が、ある意味でデフォルトになっているとも言える。その前提で、薩摩のことばには、字幕が出ないのだと思っている。

テレビのドラマの中のことばを耳で聴いている限りの印象では、薩摩のことばと同程度に奄美大島のことばも、わかりにくい。ここで、ことさら、奄美大島のことばに字幕をつけるということにしているのは、奄美大島は、薩摩の支配下にあったとはいえ、ほとんど琉球に近い、「日本」のギリギリ外側に位置するところという意味があるのであろう。

それほど遠いところ、これをことばの面でいいかえるならば、日本語が通じないところ、という辺境の島というイメージになる。そのような遠方の島に流された西郷、ここのところを強調するために、奄美大島のことばには字幕がついているのだろう。

だが、ドラマの中では、西郷の薩摩のことばと、奄美大島のことばとで、コミュニケーションに支障があるようには描かれていない。それぞれのことばで、話して通じているように描かれている。西郷は、あいかわらずの薩摩のことばであり、愛加那は、(おそらくは)純然たる奄美大島ことばなのであるが、この間で、ことばが通じないという場面は無かった。

また、興味深かったのは、奄美大島で、龍佐民(柄本明)の話していたことば。奄美大島でも上流階級に属するという位置づけであろう。薩摩の役人と話しをすることもあるようだ。この人物のことばは、時代劇の武士のことばを基本として、それに、奄美大島のことば、薩摩のことばを、すこし混ぜたような感じで話していた。

考証としては、江戸時代の奄美大島において、薩摩藩との交渉のなかで、どのようなことばが使われたのか、という観点から見ることになる。このような意味で考えて見るならば、純然たる奄美大島のことばでも、薩摩のことばでもない、一種のバーチャルな時代劇語とでもいうべきものを、ドラマとしては、使うことになるのだろう。

『西郷どん』における、奄美大島のことばは、ドラマというバーチャルな世界でのことばとして、理解しておくべきことだと思う。奄美大島のことばには、字幕ということで、ある種のエキゾチシズムを演出していると理解すべきなのであろう。

追記 2018-08-03
この続きは、
やまもも書斎記 2018年8月3日
『西郷どん』における方言(六)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/03/8931961

『誰がために鐘は鳴る』ヘミングウェイ(その四)2018-05-25

2018-05-25 當山日出夫(とうやまひでお)

誰がために鐘は鳴る(下)

続きである。
やまもも書斎記 2018年5月21日
『誰がために鐘は鳴る』ヘミングウェイ(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/05/21/8856127

この作品を読んで感じることの一つは、スペインへの思い……それは、もはや情熱とでも言うべきかもしれない……である。ヘミングウェイのスペインの関心は『日はまた昇る』を読んでも、強く感じるところである。そのスペインへの情熱が、この『誰がために鐘は鳴る』でも、作品に通底するものとしてある。

そもそも、なぜ、スペイン内戦が舞台の小説なのか。主人公(ジョーダン)は、アメリカでスペイン語教師をしていたということのようだが、何故、国を離れて異国の戦いのなかに身を投じているのか。それは、まさに、その土地(スペイン)に引き寄せられるようにして、としかいいようがない。

そして、スペインを象徴するものとしては、闘牛がある。この作品中にも、闘牛についての記述が多く見受けられる。

近代のアメリカ文学については疎いので、何故、ヘミングウェイがスペインに魅せられているのか、そのあたりの事情には疎い。しかし、『日はまた昇る』や『誰がために鐘は鳴る』を読んで、作者が、スペインという土地と、そこに住む人びと、そして、闘牛に、心を寄せていることは読み取れる。

無論、これらの小説の中で描かれているのは、あくまでも、アメリカ人であるヘミングウェイの目から見たスペインである、ということは考えておくべきだろう。だが、そのようなことを配慮するとしても、ある時代において、スペインというものがもっていた魅力を存分に語った文学作品であることは、確認できることだろう。

『武蔵野夫人』大岡昇平2018-05-26

2018-05-26 當山日出夫(とうやまひでお)

武蔵野夫人

大岡昇平.『武蔵野夫人』(新潮文庫).新潮社.1953(2013.改版)
http://www.shinchosha.co.jp/book/106502/

文章は端正であるが、その書かれている内容はというと、戦後まもなくの時期における、性的放縦とでもいうべき世界。不倫小説、いや、姦通小説と言ってもよい。

スタンダールの『パルムの僧院』を読んだ。それを訳していたのが、大岡昇平。残念ながら『パルムの僧院』という小説は、私には、今ひとつよく分からない作品であったのだが、その大岡昇平の訳文に感心した。このような翻訳をなした人が、どのような小説を書いているか、読んでおきたくなった。

やまもも書斎記 2018年5月10日
『パルムの僧院』スタンダール
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/05/10/8848192

この文章を書こうと思って、新潮文庫のHPを見てみると、

不倫小説の極致。昼ドラ顔負けドロドロ夫婦劇!

とある。まさに、ドロドロの不倫小説、姦通小説である。このような作品を、『レイテ戦記』『野火』などの作者が書いていたのかと思うと、これはこれとして興味深いものがある。

ともあれ、背景となる戦後まもなくの東京郊外、武蔵野の「はけ」の自然描写が美しい。だからこそ、というべきかもしれないが、そこで繰り広げられる、男女の関係と心理描写が、きわだったものとして浮かび上がってくる。

なお、解説を書いているのは、神西清である。

大岡昇平は、こんど、『レイテ戦記』の中公文庫版の新版が出る。四巻。これは、買っておいて夏休みの宿題として読もうかと思っている。

『半分、青い。』あれこれ「助けたい!」2018-05-27

2018-05-27 當山日出夫(とうやまひでお)

『半分、青い。』第8週「助けたい!」
https://www.nhk.or.jp/hanbunaoi/story/week_08.html

前回は、
やまもも書斎記 2018年5月20日
『半分、青い。』あれこれ「謝りたい!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/05/20/8854896

秋風羽織の名前は、美濃権太だった。

その名前が鈴愛たちに分かるきっかけになったのは、秋風の不審な行動。数年前にガンの手術をしたらしい。それが再発したかもしれない・・・秋風は、ふと思い立って岐阜の鈴愛の家、つくし食道をたずねる。

一方で、秋風は、鈴愛たちに漫画家として特訓を課す。クロッキーである。

ところで、思い出して見るのだが、いつから鈴愛は、漫画家志望になったのだろう。突然、秋風羽織の漫画に興味を持ち、トークショーに行って、強引におしかけた……こんな経緯ではなかっただろうか。もともと漫画に強い興味関心があったというわけではない。このあたりのストーリーの展開が、ちょっと不自然かなという気がしないでもない。

だが、ともあれ、鈴愛は、漫画家を目指して頑張るようだ。律との関係もあいかわらずである。そこに正人が入り込んでくる。このような鈴愛の東京での日常が、メリハリをもって描かれていたように感じた。

ともあれ、秋風の病気も早期発見ということで無事に済んだ。これからは、本格的に鈴愛の漫画家修業になるのであろう。そして、恋の予感がある。ここで、適宜、その当時の世相などを織り交ぜながら、東京に出てきた少女の成長の物語として、これからこのドラマは展開していくことになるのかと思う。

これまでの朝ドラの基本路線は、女性の半生を描くというものであった。いってみれば市井の女性を主人公にした「教養小説」といってもよいかもしれない。この意味において、これから、鈴愛の生涯がどのようなものとして描かれることになるのか、興味深く思っている。そして、鈴愛が生きていく時代は、今になって振り返れば、失われた二十年、三十年となる時代でもある。この時代をどう描くことになるのだろうか。

追記 2018-06-03
この続きは、
やまもも書斎記 2018年6月3日
『半分、青い。』あれこれ「会いたい!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/06/03/8866086

『谷間の百合』バルザック2018-05-28

2018-05-28 當山日出夫(とうやまひでお)

谷間の百合

バルザック.石井晴一(訳).『谷間の百合』(新潮文庫).新潮社.1973(2005.改版)
http://www.shinchosha.co.jp/book/200501/

おそらく、文学を読む楽しみ……このようなものを考えてみるならば、この作品を読む時間などを言うのであろう。なんという芳醇な文章であることよ、静謐で落ち着いている、が、しかし、その奥底には、官能的で情熱的なこころを秘めている。まさに、文学、としか言いようのない作品である。

ストーリーは、いたって単純である。主人公(語り手)は、青年のフェリックス。それが、モルソフ伯爵夫人に恋をする。そして、その住まいする、郊外の館を、足繁くおとづれる。その時の、主人公の心、それに答える夫人の言葉。基本的には、ただこれだけといってよい。波瀾万丈の大活劇があるという作品ではない。登場人物も限られている。ほとんど、主人公の青年と伯爵夫人のみ。

全編、ほとんどが、主人公の「語り」によっている作品でもある。その語り手の夫人への思い……それは恋である……ただ、ひたすら連綿とつづられる。読んでいって、その語りの世界のなかにひたりこんでいく。そこにあるのは、甘味な文学的な世界である。

今、新潮文庫で読めるバルザックの作品というと、『ゴリオ爺さん』とこの『谷間の百合』だけのようである。『ゴリオ爺さん』は、去年、読んだ。

やまもも書斎記 2017年5月27日
『ゴリオ爺さん』バルザック
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/27/8575690

この作品も、同じように、19世紀初頭のフランスの歴史的、社会的背景について、知らないと、よく分からないところがある。しかし、『谷間の百合』は、そのようなハンディ(と言ってもいいかもしれない)とは関係なく、作品の世界のなかに没入していけるところがある。それは、「恋」というものの普遍性とでもいうべきなのかもしれない。文学というものが、何かしら普遍的なものを持ちうるとするならば、まさに、『谷間の百合』は、恋する心というものを普遍的に描き出した文学作品の傑作ということになるのであろう。

強いていうならば、このような作品を読んで感動するところがあるのが、「もののあはれを知る」ということなのだと感じる次第でもある。

『西郷どん』あれこれ「正助の黒い石」2018-05-29

2018-05-29 當山日出夫(とうやまひでお)

『西郷どん』2018年5月27日、第20回「正助の黒い石」
https://www.nhk.or.jp/segodon/story/20/

前回は、
やまもも書斎記 2018年5月22日
『西郷どん』あれこれ「愛加那」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/05/22/8857049

どうでもいいことかもしれないが、桜田門外の変の描写が、あまりにショボかった。これなら、井伊直弼はナレ死でもよかったのでなかったろうか。

それはともかく、今回の主役というべきは大久保正助。

一般の明治維新の歴史では、怜悧な策謀家という印象ではないだろうか。西郷が、その人格で人びとの人望をあつめているのに対して、政治の実務の面で明治政府をつくっていった。そして、最後には、西南戦争では、敵となることになる。そのような歴史の結果とでもいうべきものを知っている我々に、実は大久保というのは・・・と訴えかける内容になっていた。

怜悧な策謀家という面をもちながらも、その内側には、日本を思い、薩摩を思う、熱い情熱がみなぎっている。だが、彼は、その情熱の赴くままに行動することがない。政治の現実の前で、何をなすべきか、何ができるのか、考えることになる。そのような正助の姿を、まわりの精忠組の若者たちは、理解できないようである。正助は孤独をふかめる。このような大久保の姿を、脚本は描いていた。

さりげないシーンであったが、印象的だったのは、子供(赤ん坊)の寝姿を見つめるところ。怜悧な策謀家という印象でありながら、ふと見せた、人間的で家庭的な一面であったのかもしれない。

桜田門外の変を経て、これから幕末の薩摩藩の動きが描かれることになる。そのなかで、大久保はどのような役割を担うことになるのであろうか。次週は、西郷の帰還に話しがいきそうである。楽しみに見ることにしよう。

追記 2018-06-05
この続きは、
やまもも書斎記 2018年6月5日
『西郷どん』あれこれ「別れの唄」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/06/05/8874400

カナメモチ2018-05-30

2018-05-30 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日は花の写真の日。今日は、カナメモチ。

前回は、
やまもも書斎記 2018年5月23日
紫蘭
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/05/23/8857796

我が家の駐車場の入り口のところにある。植えた木というよりも、自然に、そこに生えているという感じである。

日本国語大辞典(ジャパンナレッジ)を見てみる。

バラ科の常緑小高木。本州中部以南の暖地に生え、また、生け垣や庭木とされる。

とある。漢字では「要黐」と書く。用例は、日本植物名彙(1884)から載っている。「カナメモチ、カナメガシ」とあるよしである。それから、辞書には、『言海』にあるとのこと。5月ごろに、白い5花弁の花を房状につける。秋になると赤い実をつける。ただ、それもすぐに鳥が食べてしまうようで、赤い実の実った状態をそんなに目にすることはない。

この木の花、もう散ってしまっている。写真は、以前に写しておいたものである。

カナメモチ

カナメモチ

カナメモチ

カナメモチ

カナメモチ

Nikon D7500
AF-S DX Micro NIKKOR 85mm f/3.5G ED VR

追記 2018-06-06
この続きは、
やまもも書斎記 2018年6月6日
ソヨゴ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/06/06/8879823