新・映像の世紀(6)「あなたのワンカットが世界を変える」 ― 2021-07-23
2021-07-23 當山日出夫(とうやまひでお)
新・映像の世紀 あなたのワンカットが世界を変える~21世紀の潮流~
続きである。
やまもも書斎記 2021年7月
新・映像の世紀(5)「若者の反乱が世界に連鎖した」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/07/16/9398517
この最終回で描いていたのは、二一世紀のあたらしい「映像の世紀」の時代の幕開け。放送は、二〇一六年である。今から、五年前のことになるが、見ていて、もう過去のことになってしまったという印象をもつシーンがいくつかあった。が、一方で、それらの映像は、今でも生々しく歴史の証言でありつづけている。
二〇〇一年九月一一日、日本時間では夜になるが、たまたまテレビを見ていた。ニュースの時間で、アメリカで何か事件がおこったらしいというので、そのまま見ていた。そして、アメリカでの同時多発テロの、二機めの飛行機がビルにつっこむシーンを、中継でリアルタイムで目にしたことになる。このときは、この事件のもつ歴史的な意味とでもいうべきものは、分からなかった。それが、明らかになってくるのは、後日……それも、かなり年月がたってからのことになる。いや、このことについては、今でも、答えがあるということはなく、その問題を引きずって今の国際社会があるといってもいいだろう。
そういえば、アラブの春ということもあった。しかし、これは、混迷を深める中東情勢のなかで、決着点が見いだせないままでいる。
二一世紀になって、「映像の世紀」は大きく変わった。
その一つは、スマートフォンの登場である。だが、番組では、このことについて、触れることがなかった。スマートフォン(iPhone )を作ったのは、アップルであるが、このことへの配慮であったのかもしれない。
そして、番組で触れていないことがある。YouTubeについては、言及があったが、しかし、これが、今では、グーグルのものであることについては、触れていなかった。世界最大の映像プラットフォームが、アメリカの一企業のものであることは、これはこれとして、考えておくべきことかもしれない。
そして、さらにいうならば、YouTubeが自由につかえない国がある。Twitterもつかえない。中国である。このことについても、新たな「映像の世紀」を考えるとき、考えておくべきことかもしれない。
さて、「映像の世紀」「新・映像の世紀」と再放送をずっと見てきて思うことはいろいろとある。最初の「映像の世紀」においては、何よりも、昔の映像資料を発掘してくる、物珍しさというものがあったように思える。こんな映像がのこされていたのか、という興味である。これは、これとして、時代のことを考えるならば、悪いことではない。
それが、「新・映像の世紀」になると、歴史を見る目が、ずっと批判的になる。なぜ、今の世界はこのようであるのか……についての問いかけの姿勢がある。映像からさぐるとしても、それは、第一次世界大戦のあたりまでさかのぼることになる。今の中東情勢の要因をさぐってみるならば、第一次世界大戦のあたりから考えてみなければならない。
ただ、「映像の世紀」「新・映像の世紀」と見てきて、不満に思うこととしては、中国のことにあまりふれていないことである。映像資料がないわけではないだろう。だが、これも、今の国際情勢、日本と中国の関係などを勘案すると、中国の二〇世紀を「映像の世紀」として描くのは、難しいことなのかもしれないと思う。この時代は、まさに中国共産党の歴史と重なる。
中国のことを描いた「映像の世紀」がつくられるのは、もうちょっと時代が変わってからにならざるをえないかとも思う。(いつまでも、今の中国の国家体制がつづくとは私は思っていない。だが、その変化のときまで生きていられるかどうかは、分からないと感じるが。)
ともあれ、集中的に「映像の世紀」「新・映像の世紀」と見てきて、歴史というものへの見方が、少し変わったような気がする。今の世界がこのようであるのはなぜか、その問いかける姿勢は、(その語ることに賛否はあるかもしれないが)これはこれとして、きわめて貴重なものであると感じる。
2021年7月22日記
新・映像の世紀 あなたのワンカットが世界を変える~21世紀の潮流~
続きである。
やまもも書斎記 2021年7月
新・映像の世紀(5)「若者の反乱が世界に連鎖した」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/07/16/9398517
この最終回で描いていたのは、二一世紀のあたらしい「映像の世紀」の時代の幕開け。放送は、二〇一六年である。今から、五年前のことになるが、見ていて、もう過去のことになってしまったという印象をもつシーンがいくつかあった。が、一方で、それらの映像は、今でも生々しく歴史の証言でありつづけている。
二〇〇一年九月一一日、日本時間では夜になるが、たまたまテレビを見ていた。ニュースの時間で、アメリカで何か事件がおこったらしいというので、そのまま見ていた。そして、アメリカでの同時多発テロの、二機めの飛行機がビルにつっこむシーンを、中継でリアルタイムで目にしたことになる。このときは、この事件のもつ歴史的な意味とでもいうべきものは、分からなかった。それが、明らかになってくるのは、後日……それも、かなり年月がたってからのことになる。いや、このことについては、今でも、答えがあるということはなく、その問題を引きずって今の国際社会があるといってもいいだろう。
そういえば、アラブの春ということもあった。しかし、これは、混迷を深める中東情勢のなかで、決着点が見いだせないままでいる。
二一世紀になって、「映像の世紀」は大きく変わった。
その一つは、スマートフォンの登場である。だが、番組では、このことについて、触れることがなかった。スマートフォン(iPhone )を作ったのは、アップルであるが、このことへの配慮であったのかもしれない。
そして、番組で触れていないことがある。YouTubeについては、言及があったが、しかし、これが、今では、グーグルのものであることについては、触れていなかった。世界最大の映像プラットフォームが、アメリカの一企業のものであることは、これはこれとして、考えておくべきことかもしれない。
そして、さらにいうならば、YouTubeが自由につかえない国がある。Twitterもつかえない。中国である。このことについても、新たな「映像の世紀」を考えるとき、考えておくべきことかもしれない。
さて、「映像の世紀」「新・映像の世紀」と再放送をずっと見てきて思うことはいろいろとある。最初の「映像の世紀」においては、何よりも、昔の映像資料を発掘してくる、物珍しさというものがあったように思える。こんな映像がのこされていたのか、という興味である。これは、これとして、時代のことを考えるならば、悪いことではない。
それが、「新・映像の世紀」になると、歴史を見る目が、ずっと批判的になる。なぜ、今の世界はこのようであるのか……についての問いかけの姿勢がある。映像からさぐるとしても、それは、第一次世界大戦のあたりまでさかのぼることになる。今の中東情勢の要因をさぐってみるならば、第一次世界大戦のあたりから考えてみなければならない。
ただ、「映像の世紀」「新・映像の世紀」と見てきて、不満に思うこととしては、中国のことにあまりふれていないことである。映像資料がないわけではないだろう。だが、これも、今の国際情勢、日本と中国の関係などを勘案すると、中国の二〇世紀を「映像の世紀」として描くのは、難しいことなのかもしれないと思う。この時代は、まさに中国共産党の歴史と重なる。
中国のことを描いた「映像の世紀」がつくられるのは、もうちょっと時代が変わってからにならざるをえないかとも思う。(いつまでも、今の中国の国家体制がつづくとは私は思っていない。だが、その変化のときまで生きていられるかどうかは、分からないと感じるが。)
ともあれ、集中的に「映像の世紀」「新・映像の世紀」と見てきて、歴史というものへの見方が、少し変わったような気がする。今の世界がこのようであるのはなぜか、その問いかける姿勢は、(その語ることに賛否はあるかもしれないが)これはこれとして、きわめて貴重なものであると感じる。
2021年7月22日記
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