『青天を衝け』あれこれ「恩人暗殺」2021-06-01

2021-06-01 當山日出夫(とうやまひでお)

『青天を衝け』第16回「恩人暗殺」
https://www.nhk.or.jp/seiten/story/16/

前回は、
やまもも書斎記 2021年5月25日
『青天を衝け』あれこれ「篤太夫、薩摩潜入」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/05/25/9381013

円四郎の暗殺事件がおこるのだが、これが、新撰組による池田屋事件よりも迫力をもって描かれていた。

この回の見どころは次の二点だろうか。

第一は、天狗党。

これまで、多くの幕末明治維新を舞台にドラマが作られてきているが、天狗党のことを大きくあつかったものは、あまり例がないように思える。少なくとも、近年の大河ドラマでは、そんなに出てきていない。

『青天を衝け』では、一橋慶喜が主要な登場人物ということもあってだろうが、水戸のことを詳しく描いている。結局、天狗党は、敗れ去ることになるのだが、幕末の時代にあっては、これもまた、一つの正義のあり方だったのかもしれない。

天狗党については、小説ではいくつか描かれている。持っている本もあるのだが、まだ手をつけないで積んであったりする。ちなみに、島崎藤村の『夜明け前』にも、天狗党は登場する。これについては、以前に書いたことがある。

第二は、円四郎の暗殺。

一橋慶喜、そして、渋沢栄一にとって、かけがえのない人物であるが、ここで歴史からは退場することになる。

それにしても、水戸の藩士が一橋家の家臣を暗殺するというのも、まさに、この時代ならではのことと思える。天狗党といい、円四郎暗殺といい、よくいわれるように、水戸は幕末において、有為の人材を失ってしまったことになる。

以上の二点が、この回の見どころかと思う。

渋沢栄一のドラマであるのだが、この回では、あまり栄一の登場するシーンがなかった。栄一が世に出るのは、パリ万博を経て、明治維新の後ということになるのだろうか。

ところで、慶喜は、いったいどう思っているのだろうか。歴史の流れとしては、結局、慶喜が最後の徳川将軍として、大政奉還ということになるのだが、まだ、そのようなことは、慶喜はまったく思っていないようだ。まだ、徳川幕府は続くものと思っているらしい。どのような経緯で、徳川幕府がついえることになるのか、そのあたりをこのドラマはどう描くことになるのか、興味深いところでもある。

慶喜が、幕府を開いた家康のことに思いをはせるシーンはあった。しかし、この回では、家康は登場してきていなかった。ここは、意図的にそのように作ってあるのだろう。

次回、京の都での争乱を描くことになるようだ。楽しみに見ることにしよう。

2021年5月31日記

追記 2021年6月8日
この続きは、
やまもも書斎記 2021年6月8日
『青天を衝け』あれこれ「篤太夫、涙の帰京」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/06/08/9385776

ヤマブキ2021-06-02

2021-06-02 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので花の写真。今日はヤマブキである。

前回は、
やまもも書斎記 2021年5月26日
キュウリグサ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/05/26/9381364

これも以前の撮影のストックからである。四月の撮影になる。

桜の花のころ、我が家の駐車場のすみにあるヤマブキの花が咲く。八重咲きである。黄色い丸い花が、遠くからでも見える。これもまた春を感じさせる花の一つである。

ただ、今年は、この花の咲くころに雨の日が多かった。そのため、きれいに咲いている状態のときが少なかったように思う。やはり、この花は、晴れたときに写した方が、きれいに撮れる。

このヤマブキについては、二月、三月のころから観察してみている。二~三ミリの小さな芽を見ることができる。それが、いつの間にか春になると黄色い丸い花を咲かせる。

ハコネウツギの花もそろそろ終わりになってきた。キンシバイがつぼみになってきている。空き地のすみの方には、ドクダミが咲いている。クチナシの花が咲くのは、もう少ししてからになるだろうか。

ヤマブキ

ヤマブキ

ヤマブキ

ヤマブキ

ヤマブキ

Nikon D500
AF-S DX Micro NIKKOR 85mm f/3.5G ED VR

2021年6月1日記

追記 2021年6月9日
この続きは、
やまもも書斎記 2021年6月9日
南天のつぼみ
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/06/09/9386079

「黄色い下宿人」山田風太郎2021-06-03

2021-06-03 當山日出夫(とうやまひでお)

明治十手架(下)

山田風太郎.「黄色い下宿人」(ちくま文庫 山田風太郎明治小説全集 14 『明治十手架』所収).1997
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480033543/

続きである。
やまもも書斎記 2021年5月31日
『明治十手架』山田風太郎
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/05/31/9382962

ちくま文庫本に掲載の書誌を見ると、初出は、1953年の『別冊宝石』(岩谷書店)である。その後、いろんな作品集に収録されている。たぶん、私が読んだのは、1977年の現代教養文庫版であったかと思う。(この現代教養文庫は、いまではもうない。)

おそらく、私が最初に読んだ山田風太郎の作品は、これだったかと思う。(あるいは、「不戦日記」の方だったかもしれないが、どうだろうか。)

読みなおして見ることになったのだが、四〇年以上のへだたたりがある。ああ、こんな小説だったのかと改めて思い、そして、これは、ミステリとして一級の作品でもあると、改めて納得したところでもある。

記憶に残っていたのは、一九世紀のロンドンに留学していた日本人……これも、ここまでの山田風太郎の明治小説を読んできた人間ならすぐにわかる、夏目金之助である。この意味では、この作品は、山田風太郎の明治小説の中にいれていいようなものかもしれないが、しかし、発表時期を考えるとどうかなという気もしないではない。山田風太郎の明治小説は、やはり『警視庁草紙』あたりかた考えるべきだろう。

筑摩書房がこの企画で「全集」を出版したとき、収録作品の一覧を見て、この作品もそういわれてみれば、明治小説ではある……と、思ったのを覚えている。

そして、この作品は、(これはすっかり忘れてしまっていたことなのだが)ホームズが登場する。たしかに、英国に留学していた夏目金之助が、シャーロック・ホームズと会っていても不思議ではない。無論、山田風太郎の明治小説の設定ということにおいてだが。

ともあれ、これを読んで、筑摩版の山田風太郎の明治小説を、全部読み切ったことになる。そのほとんどは、再読、再々読……になる。ここで、あらためて、集中的にこの一連の作品を読んで感じることは、近代、明治維新を描いた作品群として、やはり傑出していることである。

山田風太郎は、(特に気をつけて読んだということではないのだが)明治維新という用語は使っていなかったと思う。御一新であり、あるいは、瓦解である。このあたりの用語にうかがえるように、山田風太郎は、明治という時代を、その時代の流れにのることをいさぎよしとしなかったものの立場から描くという視点をとっている。いわば、敗者から見た明治ということになる。

このような視点で明治維新を見るというのは、「不戦日記」の著者ならではのことでもある。昨日まで、世の中こぞって尊皇攘夷といっていたのに、大政奉還から一気に流れが変わって、開国、文明開化ということになる。これは、まさに、太平洋戦争の戦時中から、戦後にかけての、世の中の変化になぞらえて見ることになるのだろう。いったい何が正義なのか、昨日まで信じていたことは意味がないことなのか、新しければそれでいいのか……時代の激変のなかで、価値観が動転した世の中の動き、そのなかに生きてきた人間ならではの、歴史や社会への、どことなく冷めた眼差しを感じる。

小川洋子の作品を読んでいっていたのだが、ふと途中で目について、山風太郎の明治小説を読み出して、「全集」所収作品を全部読むことになった。後、山田風太郎で、昔読んで、再読してみたいと思っているのは、「八犬伝」と「不戦日記」になる。これも、つづけて読んでみようと思う。

2021年5月27日記

映像の世紀(10)「民族の悲劇果てしなく」2021-06-04

2021-06-04 當山日出夫(とうやまひでお)

NHK 映像の世紀 第10回 民族の悲劇果てしなく~絶え間ない戦火 さまよう人々~

前回は、
やまもも書斎記 2021年5月28日
映像の世紀(9)「ベトナムの衝撃」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/05/28/9382039

今、二一世紀になっても、また難民の問題は解決していない。

この回の放送は、一九九六年になる。ベルリンの壁の崩壊、ソ連の解体という共産主義諸国をめぐる一連のできごとが終わってからの放送である。そのせいなのだろう、旧ユーゴスラビアのことから、始まっていた。

難民にヒューマニズムの視点から考えることは重要である。だが、それと同時に冷静になぜそのような難民が生まれることになったのか、背景を考えてみなければならない。この意味では、難民という問題をめぐって、非常に良心的に編集してあるという印象をうけた。

たとえば、パレスチナ難民。ただ、この問題の解決として、イスラエルという国家を悪とするだけでは片付かないということが分かる。その歴史的背景として、ユダヤ人の歴史、なかんずく、第二次大戦におけるヒトラーのユダヤ人虐殺のことを思ってみるならば、そう簡単に、イスラエルを否定すればそれで済むということではないことが理解できるだろうと思う。さらなる憎しみの連鎖を生み出すことがあってはならない。

冷戦の終結ということは、新たなナショナリズムを生み出すことになっている。その結果、多くの悲劇が生まれることになる。旧ユーゴスラビアについては、まさにナショナリズムの生み出した悲劇というべきだろう。(だが、私は、ナショナリズムそれ自体は、悪いものだとは思っていない。)また、同時に、冷戦終結は、新たな独裁者を生み出すことにもなった。カンボジアが、その例かもしれない。

旧ユーゴスラビアについては、かつて、日本においては、一部の人間によって理想的に語られることがあった。チトー大統領は、理想化されていた。(すくなくとも、私の記憶にある冷戦時代の評価として、このような側面があったことは確かである。)

ところで、一九九五年から一九九六年放送の番組ということであるが……「映像の世紀」には、あまり中国のことが出てこない。これは何故だろう。中国に配慮しすぎという印象がどうしても残るのだが、これは天邪鬼にすぎる見方だろうか。

これまでの番組で、スターリンは何度も登場していた。それも悪役として。だが、毛沢東が大きく出てきたということはなかったと記憶する。

そして、今の中国である。その国の内部で、どのようなことが起こっていようと、国境を越えなければ「難民」ではないのかもしれない。だが、今の中国で起こっているいることは、やはり重大な懸念があると言わざるをえないと私は思う。

今の中国共産党が崩壊して、その内実が明らかになる将来がおそらくはあるだろう。だが、そのときまで、私は生きていられるだろうか、そんなことを思うこのごろでもある。

2021年6月1日記

追記 2021年6月11日
この続きは。
やまもも書斎記 2021年6月11日
映像の世紀(11)「JAPAN」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/06/11/9386677

プロジェクトX「窓際族が世界規格を作った」2021-06-05

2021-06-05 當山日出夫(とうやまひでお)

NHK プロジェクトX 窓際族が世界規格を作った VHS執念の逆転劇

前回は、
やまもも書斎記 2021年5月29日
プロジェクトX「家電元年・最強営業マン立つ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/05/29/9382323

この番組は、録画で見ることにしている。が、そこにVHSの姿はもうない。テレビ内蔵のハードディスクによる録画である。VHSは、もう世の中から姿を消してしまった。

大学の教室には、以前、VHSの再生装置があった。教材を学生に見せるためである。それも、近年になって、無くなってしまっている。かわりにあるのは、DVDのプレーヤーである。

この放送は見た記憶がある。松下幸之助のことばを覚えている。ベータマックスは一〇〇点である。だが、VHSは一五〇点である、と。

業績低迷する企業の窓際族による、逆転劇として非常にドラマチックな構成になっていたと思うし、また、そのような内容であった。

印象に残ることを記せば、次の二点ぐらいになるだろうか。

第一には、ビクターが、その製品をオープンにしたことである。ライバル企業に試作機を無償で提供する。結果、VHSの規格に賛同したメーカーのアイデアにより、よりよい製品にしあがっていく。

第二には、その開発の第一線で働いた技術者が、工業高校出身であったこと。今なら、メーカーの技術開発部門で働く若者は、大学の工学部・理工学部、場合によっては、大学院を出ているだろうと思う。日本の技術開発と、学歴、キャリア形成という視点から見ても興味深い。

以上の二点ぐらいが、この回の放送(再放送)を見て思うことだろうか。

VHSの規格は過去のものになってしまったかもしれないが、その切り拓いたものは大きい。映像コンテンツビジネスは、今や、インターネットの時代になって、巨大ビジネスになって、より発展しようとしている。その最初の一歩を踏み出したのが、日本におけるVHSの開発の物語であった。そう思って見ると、感動的な物語である。

2021年6月2日記

追記 2021年6月12日
この続きは、
やまもも書斎記 2021年6月12日
プロジェクトX「カップめん・どん底からの逆転劇」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/06/12/9387028

『おかえりモネ』あれこれ「故郷の海へ」2021-06-06

2021-06-06 當山日出夫(とうやまひでお)

『おかえりモネ』第3週「故郷の海へ」
https://www.nhk.or.jp/okaerimone/story/week_03.html

前回は、
やまもも書斎記 2021年5月30日
『おかえりモネ』あれこれ「いのちを守る仕事です」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/05/30/9382638

二〇一一年の三月一一日の午後、いったいどこで何をしていたか……多くの人びとが、記憶にもっているだろう。

たまたま家にいる日だったので、二階でテレビを見ていた。地震のニュースがあって、その後、津波の情報があって、その後は、ほとんどテレビを見ていた。この日、津波が襲ってくる場面を、リアルタイムのテレビ中継の映像として見ていたことになる。

その後、数日は、テレビを見るか、PCの前にいるか……そのころには、Twitterがあった……ということだったと覚えている。

『おかえりモネ』は、震災をどう描くか、ここは、基本的に気仙沼の亀島という島に限定することで、そのときの出来事を表現していたように思う。これはこれで、一つの立場なのだと考える。

百音は、仙台にいてジャズのライブを聴いていた。亀島にもどったのは、しばらくしてからのことになる。そして、避難生活があったようだが……しかし、ドラマの現在の時点……二〇一四年……においては、無事にもとの生活にもどったように見える。少なくとも、これまでのところでは、震災の犠牲ということは、ドラマには登場していない。

だが、震災のことは、百音のこころに何かを残したようだ。音楽のことは諦めている。森林組合につとめるようになったのは、どのような事情があってのことなのだろうか。このあたりは、まだ描かれていない。

そして、百音の周囲の人びと。それぞれに、なにがしか震災のことをかかえながら、それでも、懸命に生きているようである。何事もなかったかのように、大学生の生活を送っている友達たちだが、しかし、その心の奧には、なにかわだかまるものがあるようだ。

次週、まだ故郷の亀島での物語はつづくようだ。楽しみに見ることにしよう。

2021年6月5日記

追記 2021年6月13日
この続きは、
やまもも書斎記 2021年6月13日
『おかえりモネ』あれこれ「みーちゃんとカキ」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/06/13/9387386

『教科書名短篇-家族の時間-』中公文庫2021-06-07

2021-06-07 當山日出夫(とうやまひでお)

教科書名短篇

中央公論新社(編).『教科書名短篇-家族の時間-』(中公文庫).中央公論新社.2011
https://www.chuko.co.jp/bunko/2021/04/207060.html

中公文庫のこのシリーズの既刊の二冊は読んでいる。戦後の中学校の国語教科書に採録された作品のアンソロジーである。

やまもも書斎記 2020年3月13日
『教科書名短篇-人間の情景-』中公文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/03/13/9223694

やまもも書斎記 2020年3月14日
『教科書名短篇-少年時代-』中公文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/03/14/9223989

収録するのは次の作品。

あとみよそわか/うずまき 幸田文
トロッコ 芥川龍之介
尋三の春 木山捷平
黒い御飯 永井龍男
輪唱 梅崎春生
ひばりの子 庄野潤三
子供のいる駅 黒井千次
握手 井上ひさし
小さな手袋 内海隆一郎
ふたつの悲しみ 杉山龍丸
幸福 安岡章太郎
おふくろの筆法 三浦哲郎
私が哀号と呟くとき 五木寛之
字のない葉書/ごはん 向田邦子

読んだことのある作品(向田邦子とか芥川龍之介とか)もあれば、作家の名前は知っていても読んだことのない作品もある。あるいは、はっきりいってこの本で名前を知った作家もいる。

どれも、タイトルのとおり、「家族」にまつわる作品をあつめてある。そして、興味深いのが、この作品集を読むと、おそらく日本の近代の家族、家庭というものの歴史につながっているということかもしれない。といっても、現代のところまでにはおよんでいないが。おおむね、昭和の戦後のしばらくの時代までいったとこだろうか。

また、「家族」を描くことで出てくることになるのが、学校でもある。近代の学校の歴史にふれることにもなっている。

ところで、家族ということで、芥川龍之介からとるなら、私なら「蜜柑」かなと思うのだが、どうだろうか。あるいは、「蜜柑」は教科書には採録されていないということかもしれないが。

向田邦子については、今年になってから、そのエッセイのほとんどを文庫本で再読してみた。「字のない葉書」も「ごはん」も、すでに読んでいる。再読、再々読……になるだろう。なるほど、このようなアンソロジーにいれてみると、向田邦子もまた、昭和という時代の家族のあり方を、そのエッセイにつづってきた作家であったと思う。

2021年5月31日記

『青天を衝け』あれこれ「篤太夫、涙の帰京」2021-06-08

2021-06-08 當山日出夫(とうやまひでお)

『青天を衝け』第17回「篤太夫、涙の帰京」
https://www.nhk.or.jp/seiten/story/17/

前回は、
やまもも書斎記 2021年6月1日
『青天を衝け』あれこれ「恩人暗殺」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/06/01/9383332

大河ドラマで明治天皇(祐宮)が登場したのは、はじめてかもしれない。ちょっとだけだが登場していた。ただ、他のドラマ、『坂の上の雲』には、明治天皇は出てきていたのを覚えている。このドラマの明治維新以後に、明治天皇は登場するだろうか。

この回でも、まだ栄一は、歴史の流れに翻弄される一人の若者にすぎない。ようやく一橋家の家臣ということにはなったが、その気持ちのうちには、尊皇攘夷の志を持っているようだ。これと、一橋家家臣という立場を、どう折り合いをつけていくことになるのか、これからが、栄一の人生なのかなと思って見ている。

どうでもいいことだが、アーネスト・サトウも登場していた。そういえば、『遠い崖』も全巻買って持っているのだが、読み切らずにしまったままになっている。もう老後の読書である、新しい本を追い求めるよりも、このような古典的名著というべき本をじっくりと読んでみたい、と思う。それから、『天皇の世紀』もある。これは、朝日新聞社版と文春文庫版と二セット持っている。これは、昔、途中まで読んで中断している。これも、再度、じっくりと読んでおきたいと思う。

ところで、このドラマであるが、どうやら、幕末の動乱を徳川、それも、一橋の目から描くということである。これはこれで、一つの歴史ドラマの作り方かなと思う。それにしても、一橋慶喜にしても、徳川家茂にしても、どうもかっこよすぎるという気がしてならない。もっと、歴史のなかで右往左往するようなところがあっても、いいように思ってしまう。だが、ここは、徳川幕府安泰のためにどっしりとかまえている。

しかし、結局は、こののち慶喜が将軍になって、大政奉還ということになる。さて、このあたりを、このドラマはどう描くことになるのだろうか。そして、それを、一橋家の家臣という立場の栄一はどう見ることになるのか。パリ万博、明治維新は、栄一の目にどう映るのだろうか。

次週、天狗党の争乱をめぐってドラマは展開するようだ。天狗党のことが、大きく扱われるというのも、近年のドラマでは珍しいことかもしれないと思う。この旧弊というべき、尊皇攘夷のかたまりのような存在に対して、栄一はどう対応することになるのか。楽しみに見ることにしよう。

2021年6月7日記

追記 2021年6月15日
この続きは、
やまもも書斎記 2021年6月15日
『青天を衝け』あれこれ「一橋の懐」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/06/15/9388064

南天のつぼみ2021-06-09

2021-06-09 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので写真の日。今日は南天のつぼみである。

前回は、
やまもも書斎記 2021年6月2日
ヤマブキ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/06/02/9383672

ちょうど今、南天の木につぼみを見ることができる。これが、しばらくすると花が咲く。そして、実がなる。青い実が、冬の寒いころになると赤く色づいてくる。しかし、そのころには、実のほとんどを鳥が食べてしまうので、我が家で南天の実がみのっている状態を目にすることはほとんどない。

ほぼ毎日、目にしている木である。去年は、この木の花の咲いたときを撮ろうと思って、逃してしまったということがある。今年は、花の開花を逃さないように、まだ白い蕾の時から観察して見ている。これも、もうしばらくすると花が咲くだろう。南天の花の時期は、割と短い。うかうかしていると写真に撮るのを逃してしまうことになる。

使ったのは、180ミリ。南天の木は、少しの風にもゆらぐので写真に撮るのはちょっと苦労する。比較的風の無い午前中の時間をみはからって写真を撮ってみた。

この蕾が花ひらいたときも、また写してみたいと思って、このところ毎日見ている。

南天

南天

南天

南天

南天

Nikon D500
TAMRON SP AF 180mm F/3.5 Di MACRO 1:1

2021年6月8日記

追記 2021年6月16日
この続きは、
やまもも書斎記 2021年6月16日
ノイバラ
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/06/16/9388390

『ペスト』カミュ/三野博司(訳)2021-06-10

2021-06-10 當山日出夫(とうやまひでお)

ペスト

カミュ.三野博司(訳).『ペスト』(岩波文庫).岩波書店.2021
https://www.iwanami.co.jp/book/b570590.html

この時期にこの新しい訳が出たのは、たまたまそうなったということらしい。だが、出版社としては、まさに時宜にかなった出版になったことは確かなことである。

これまで、『ペスト』というと新潮文庫版があった。これも、持っている。(確か、読んだような気もするが、忘れてしまっている。)

新しい訳が岩波文庫で出るということなので、出てさっそく買った。すぐに読んだのだが、机の上においたままになっていた本である。

思うことはいろいろとあるが……一言でいうならば、現代、この小説を、単に寓意の小説とはもはや読めない、ということにつきるのかもしれない。これが、二年前であったなら……COVID-19のパンデミックということの前なら……きわめて寓意にみちた、謎めいた小説として読まれたであろう。

しかし、もはや、この小説は寓意の小説として読むことはできないようになってしまった。どうしても、実際の世界の様子を思い浮かべてしまうことになる。

小説の世界の中では、ペストはやがては消滅するものとして描かれている。COVID-19もそうあってほしいと思う。もし、この小説から、今、読みとるべきものがあるとするならば、それは未来への希望ということになるのではないだろうか。

もし、その機会があるのならと思うのだが、今の世の中がおちついてから、この作品は、再度読みかえしてみたいと強く思う。

2021年5月27日記