『楡家の人びと 第二部』北杜夫2021-09-27

2021-09-27 當山日出夫(とうやまひでお)

楡家の人びと(第二部)

北杜夫.『楡家の人びと 第二部』(新潮文庫).新潮社.2011(新潮社.1964)
https://www.shinchosha.co.jp/book/113158/

続きである。
やまもも書斎記 2021年9月20日
『楡家の人びと 第一部』北杜夫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/09/20/9425149

ふと思いたって、『楡家の人びと』を読みなおしておきたくなった。「第一部」につづけて、「第二部」を読んだ。

この作品について、語るべきことはすでに書いたと思うのだが、改めて第二部まで読んで思うことなど書いてみる。二つほど書いてみる。

第一には、時の流れである。

この小説は、大正時代から昭和の戦争の時代までを描いている。舞台となるのは、楡家というある家である。これは、そのとおりなのだが、この小説で、作者が描こうとしたのは、あるいは「時の流れ」ということができるかもしれない。

同じように毎年の恒例行事が過ぎて、楡病院の一年、楡家の一族の一年がある。だが、そのなかにあって、いやおうなくなにがしかの微細な変化ある。あるいは、大きな時代の転換点ということもある。ここまで読んできたところでは、関東大震災がそうであり、太平洋戦争の勃発がそうである。また、青山の楡病院の火事ということもある。

このようなあれこれ、有象無象、大小様々な出来事をのみこんで、「時」はうつろっていく。その大きな「時の流れ」というものを、この小説を読んでいて感じることになる。

第二には、老いである。

これは、「時の流れ」とも関連するが、人間はいつのまにか年をとる。小さい子どもは大きくなる。そして、いつのまにか、大人には「老い」がしのびよってくる。前回、この作品を読んだときには、人間の老いを描いた小説という印象はあまり持たなかったのだが、今回読みなおしてみて、このところにこころが向くようになった。

楡基一郎も年をとり、死ぬ。また、その養子である徹吉も、病院の院長として仕事をこなしながら、いつの間にか年をとっていく。その他、登場人物も、年をとる。このようなこと、あたりまえのことかもしれないが、読んでいてそのような描写のところには、ふと目がとまる。

これも、自分自身が年をとってきたせいなのだろう。小説中の登場人物の老いということに、こころが動かされるようになってきた。

以上の二点が、「第二部」まで読んで思うことなどである。

『楡家の人びと』には、多彩な登場人物がでてきている。それぞれ非常にユニークである。そのなかで、もっとも平凡な人間であるのは、徹吉かもしれない。だが、作者は、この徹吉をこのうえなく哀惜をこめて描いているように感じる。

無論、徹吉には、父親の斎藤茂吉のイメージが投影されているかと思う。平凡な医師でありながら、人並み外れた努力家でもある。徹吉は、斎藤茂吉とは違い文学の方面に関心をしめさない。精神医学史という分野に、自己の生きる道を見出していくことになる。その徹吉について、作者は、ある意味で突き放して描いているところがある。だが、昭和になって、太平洋戦争のころ、徐々に年をとっていくことになる徹吉によりそうように、その老いの側面を語る。これは、冷酷な視点でもあるかもしれないが、同時に、哀惜のただよう描写でもある。

楡基一郎というユニークな人物の影になってしまっているが、徹吉もまた、この『楡家の人びと』において、重要な登場人物であるというべきなのであろう。

続けて、第三部を読むことにしたい。

2021年9月6日記

追記 2021年10月4日
この続きは、
やまもも書斎記 2021年10月4日
『楡家の人びと 第三部』北杜夫
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/10/04/9429290

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