『映画を早送りで観る人たち』稲田豊史/光文社新書2022-05-30

2022年5月30日 當山日出夫(とうやまひでお)

映画を早送りで観る人たち

稲田豊史.『映画を早送りで観る人たち-ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形 -』(光文社新書).光文社.2022
https://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334046002

私は、ほとんど映画を見ない。映画館に行くこともないし、テレビで見ることもほとんどない。映画館に行くのは、もう億劫になってきている。テレビで映画を見ようとは思わない。やはり映画館で見たいと思う。見るべきであると思っているといった方がいいだろうか。このような昔人間からすると、映画……主にネット配信のものになるが……を、「早送りで観る」という感覚が理解できない。この本を読むと、なるほど新しい若い人達の感性というのは、そういうものなのかということは、なんとなく理解できるような気にはなるが、しかし、それに同意するということはない。

ここでは、この本についてよりも、『ちむどんどん』について思うことを書いておく。NHKの四月からの朝ドラであるが、どうも評判がよくない。とはいえ、視聴率で苦戦しているということでもないようだ。なぜ、『ちむどんどん』が面白いと感じられないのか、考えるところを書いておく。それは、『映画を……』を読みながら、考えたことでもある。

若い人たちは、自分の好みに合わないものは、見たくないという。映画でも、そのような内容を含んでいるものは避ける。事前に、紹介サイトなどで内容をチェックしたうえで、好みにあったものを、さらに選んで、早送りしたり飛ばしたりしながら見ているという。また、映画を見てどう感じようと自由であると思っているともある。評論家の語ることに耳を傾けようという気はない。そして、分かりやすい内容の明確な映画を求める。いいかえるならば、自分でじっくりと見て考えてということを避けているともいえる。

では、朝ドラではどうだろうか。以下、私見である。

近年の朝ドラで、視聴者の想像力に強く働きかける作りがしてあったのは、『おちょやん』が思い浮かぶ。途中でヒロインや登場人物の人生が途切れている。そこは、見る側が、想像力でおぎなって見ることになる。無論そこには、当時の歴史や社会に対しての、ある程度の予備知識が必要になる。

この意味では、『おかえりモネ』もそうであったし(あの日、何があったのか)、『カムカムエヴリバディ』も、視聴者の想像力に期待して作ってあるところがあった(アメリカにわたった安子はどうしているのだろうか)。

しかし、『ちむどんどん』は、逆に、そういうところがほとんどないのである。基本的にあらゆることがらが説明的に明示されているし、基本はハッピーエンドになるようになっている。まだ、ドラマは途中であるが、悲劇的な場面というのはない。

例えば、沖縄の戦時中がどうであったか。比嘉家の人びとの暮らしにも影をおとしているはずなのだが、沖縄と戦争、また、アメリカ軍基地のことは、基本的に描かれない。家は貧乏であり借金をしている。しかし、親戚のおじさんは、金を貸してくれる。就職で世話になったり、縁談のくちききをしてくれる、このことについても、反古にしてしてしまう展開なのだが、深く後悔したり謝罪したりすることがない。みんな仲良く納得してくれている。

東京に出た暢子はレストランで働くが、そこはいい人ばかりである。新人のころの失敗といえば、皿をわってしまったことぐらいである。オーナーと対立することになるが、これも円満に解決している。

せいぜい謎なのは、死んだ父親とレストランのオーナーとの間で過去にどんなことがあったのか、ということになる。たぶん、これは明快に示されることになると思う。

この当時、地方、なかんずく沖縄から東京に出てきた人びとであるならば、地方と東京の生活の格差。経済的、社会的、あるいは、文化資本の格差というのは、歴然としてあったはずだが、そこは描かれない。

その他いろいろあるが、とにかく、言ってみれば考証の不備、ドラマの展開の不自然とでもいうべきところが多々ある。想像力にうったえるドラマを作ろうとするならば、細部にわたる歴史的な考証をきちんとふまえておく必要がある。しかし、このドラマは、そうなっていない。この点、杜撰だともいえる。

しかし、これは、このように作ってあるのだろうと思う。東京に出てレストランで、延々と皿洗いと掃除ばかりしているような暢子の様子は見たくない。地方出身のコンプレックスと、東京での格差を感じるような生活の有様は、別にどうでもいい。このように思っている視聴者がすくなからずいるのだろうと思う。

そして、ドラマの制作側は、このような新しい感性の視聴者の好みに合わせてドラマを作っている。

つまり、『ちむどんどん』は、「映画を早送りで観る」ような人たちの感性に合わせて、あまり見たくないような場面を避け、そして、見る人の想像力にうったえかけるような設定を極力排除して作ってあるのである。『ちむどんどん』を見るのに、想像力はいらない。

ドラマを見るのに想像力が必要ということは、正解が決まらないということでもある。見て何を感じるかは、見る人にゆだねられる。だが、このような多様な解釈の成りたつようなドラマを、新しい人たちは敬遠する。手っ取り早く、正解を知りたいと思っている。ここには、見る人による解釈の多様性ということもない。いや、それを排除しているのである。

暢子は、地方から出てきて東京で働く、溌剌とした若い女性。比嘉の家は、まずしいけれど仲良く暮らしていく地方の家族であればいいのである。ここで、沖縄の問題を深く考えたり、高度経済成長期の日本の地方と東京の格差の問題を思ったりはしない。したくない。

見るのに想像力のいらないドラマ、そう思って見ると、『ちむどんどん』のドラマの作り方が分かってくるように思える。

が、ともあれ『ちむどんどん』は見ていこうと思っている。そして、なぜこのようなドラマの作り方になっているのか、考えてみたい。

それにしても、それを見るひとの想像力にうったえるところのないドラマというのは、エンタテインメントとしても、あるいは、芸術としても、どうかなと思わざるをえないところがあることはたしかである。

2022年5月29日記

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