雨の滴2022-06-01

2022年6月1日 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので写真の日。今日は雨の滴である。

前回は、
やまもも書斎記 2022年5月25日
キュウリグサ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/05/25/9493755

先週の雨の日に写したものである。雨がふって、止んで、しばらく時間をおいて外に出てみる。家の前のもみじの木である。毎日、家の出入りのときは、目にする木である。それが雨にぬれて、葉の先に滴が見える、それを写したものである。

雨の日には、写真を撮りに外に出ることはできないが、しかし、雨のやんだあとにはいろいろと写真が撮れる。写真を撮る楽しみの一つである。

雨の滴

雨の滴

雨の滴

雨の滴

Nikon D500
TAMRON SP 90mm F/2.8 Di MACRO 1:1 VC USD

2022年5月31日記

追記 2022年6月8日
この続きは、
やまもも書斎記 2022年6月8日
青もみじ
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/06/08/9497957

映像の世紀バタフライエフェクト「我が心のテレサ・テン」2022-06-02

2022年6月2日 當山日出夫(とうやまひでお)

映像の世紀バタフライエフェクト 我が心のテレサ・テン

これも録画しておいて、翌日の朝にゆっくりと見た。

私の持っている、Walkmanには、「テレサ・テン」のフォルダがある。全部で一〇枚ほどのCDをコピーしていれてある(FLAC)。その中には、「月亮代表我的心」もある。

テレサ・テンが亡くなってからかなりになる。その日本での活躍のときは、テレビで見たりしていたと思うのだが、そう強く印象に残っているということはない。無理に日本語の歌を歌っているという感じがどうしてもあった。テレサ・テンは、たまたま日本でも歌手活動をしていたという経緯があるので、日本語圏の歌手の一人として記憶されることが多いかと思う。しかし、テレサ・テンは、二〇世紀の終わりの時代における、アジアの歌姫である。

その事跡について概要は知っているつもりであったが、番組は、主に中国本土、香港、台湾に……中国語文化圏といっていいだろう……における、その活動を追っていた。

なかで、印象的なのは、一九八九年の天安門事件。それから、香港の民主化運動。ここで流れたテレサ・テンの歌声。ここに焦点をあてての番組の構成は見ていて非常に興味深かった。そして、あえて省いていたのが、日本での歌手活動についての部分。ここについては、ほとんど触れることがなかった。

日本語で歌謡曲を歌っていたテレサ・テンは、中国語でプロテストソングを歌ってもいた。

いろいろと思って見ていたのだが、番組の最後まで見て、なるほどとは思った。この回の制作には、テムジンがかかわっている。

さて、今の中国で、テレサ・テン、鄧麗君の歌は、どのようにうけとめられているのだろうか。これが気になるところではある。

2022年5月31日記

『死亡告示』ジェフリー・ディーヴァー/池田真紀子(訳)2022-06-03

2022年6月3日 當山日出夫(とうやまひでお)

死亡告示

ジェフリー・ディーヴァー.池田真紀子(訳).『死亡告示-トラブル・イン・マインドⅡ-』(文春文庫).文藝春秋.2022
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167918842

『フルスロットル』のつづきの短篇集である。どれもジェフリー・ディーヴァーならではの作品という印象がある。上質のエンタテインメントのミステリ(広義の)である。

印象にのこるのは、「永遠」。短篇というよりも中編といった方がいいか。文庫本の半分ほどがこの作品になっている。

登場する警察官がいい。数学が得意で統計でものを考える若い警察官。一方、昔ながらの流儀で直感的に行動する先輩。この二人のコンビは魅力的である。(だが、これも最後まで読むと、さらに裏がある。)

そして、題材とされていることが興味深い。現代の社会の課題の一つである、生命倫理にかかわるテーマをあつかっている。ジェフリー・ディーヴァーという作家は、きわめて現代的な作家である。今、この社会で問題になっている最先端の出来事や事件を、題材に選んでいる。この作品もその一つといってよい。技術的に可能かどうかということもあるが、この作品に出てきたようなことが、まさに今の社会で問題になることである、これは確かなことであろう。

また、タイトルにもなっている「死亡告示」。これは、読めばすぐに結末がわかるつくりなのだが、面白いのは、おそらく、これまでのリンカーン・ライムのシリーズを読んでいるであろう読者を念頭に書いてあることである。犯人の設定もそうであるし、また、中にでてくるリンカーン・ライムの経歴についての記述も、読んでなるほどと思うところがある。

2022年5月17日記

『夢見る帝国図書館』中島京子/文春文庫2022-06-04

2022年6月4日 當山日出夫(とうやまひでお)

夢みる帝国図書館

中島京子.『夢見る帝国図書館』(文春文庫).文藝春秋.2022(文藝春秋.2019)
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167918729

図書館の小説である。主人公は、帝国図書館。そして、喜和子という女性。

この小説は、二重の構造になっている。

第一には、上野の公園で偶然で会うことになり親交をふかめる、喜和子さんと私のものがたり。フリーライターの私は、上野公園で喜和子さんという年配の女性と知り合う。親しくなり、喜和子さんの家をたずねたりするようになる。喜和子さんの人生はなぞである。

どこで生まれて、どこで育って、どんな結婚をして、どんな生活をしてきたのか、その人生が徐々に明らかになっていく。ここの部分で語られるのは、近代のある時代を生きた一人の女性の物語である。そして、その背景としての、戦後日本というある時代の流れ。

第二には、帝国図書館。現在の、国立国会図書館であるが、戦前は、上野にある帝国図書館であった。その図書館を擬人化して、図書館の語りということで、近代の帝国図書館史が描かれる。そこに登場するのは、近代の著名な文学者、学者などである。本を読みに図書館に通っていた人びと。

そして、近代という歴史の流れのなかで存在してきた帝国図書館の歴史。その設立から、戦後しばらくころまでのことが、図書館史というような観点で記述されている。(このあたりは、史実をふまえてのものだろうと思う。)

以上、二つの物語、喜和子さんという女性の人生の物語と、帝国図書館の歴史が、交互に叙述され、それが最後に交わることになる。まあ、このあたりは、小説の書き方として常道であるが。

一般的に書くならば、この小説は、上記の二つの物語として理解することになる。だが、一方で、この小説に特有の要素を考えてみると、さらに二つのことがある。

一つには、上野の物語であること。現在の上野公園とその周辺は、江戸時代からどうであったか、近代になってどのような歴史があって、今日の上野公園になったのか。そして、重要なことは、そこに暮らしていた人間がいたことである。たぶん、これは、上野公園の一般的な歴史からは消されていることかもしれないが、そこに光をあてた記述が興味深い。

もう一つのこととしては、図書館の物語であるのだが、同時に近代になってからの読者の物語になっていることである。上野の帝国図書館に通っていた文学者などは、本を読むためにそこに通った。ともすれば、図書館は、その蔵書を軸に語られることが多いかと思うが、この小説では、図書館は本を読むためのものという視点で描かれている。その読者のための蔵書である。

このようなことを思うことになる。

さて、今の国立国会図書館はどうだろうか。今や、デジタルとインターネットの時代になって、国立国会図書館も大きく変わった。その是非は議論のあるところかもしれない。ただ、図書館というものが、そこで本を読むためのものである、少なくともかつてはそうであった、この認識は重要なことだろうと思う。読者があってこその蔵書であり、各種のサービスなのである。

図書館とは何であるのか、何であったのか、これからはどうであるべきなのか、いろいろ考えるところにある本である。

2022年5月16日記

『ちむどんどん』あれこれ「再会のマルゲリータ」2022-06-05

2022年6月5日 當山日出夫

『ちむどんどん』第8週「再会のマルゲリータ」
https://www.nhk.or.jp/chimudondon/story/week_08.html

前回は、
やまもも書斎記 2022年5月29日
『ちむどんどん』あれこれ「ソーミンチャンプルーvsペペロンチーノ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/05/29/9494996

この週で描いていたのは、暢子の新聞社での働き。

フォンターナのオーナーから、暢子は新聞社に行くことを命じられる。そこで、ボーヤとして一人前に認められたなら、もとに戻ることを許してもらえる。

その新聞社での仕事であるが、あいわからずの失敗つづきである。が、まあ、ここはお決まりの設定ということになる。新聞社で会ったのが、小さい時に沖縄で知り合った和彦。新聞記者になっていた。その彼は、沖縄のことを取材するということもあって、暢子と同じ鶴見のあまゆに下宿することになる。

和彦の手がけた記事……マルゲリータについての思い出、これを取材するために、暢子は力をかす。

ところで、マルゲリータとはいったいどんなピザなのか、まったく説明がなかった。まあ、説明はなくてもドラマとしては成立するのだが、ここは、ちょっとでもどんな種類のピザなのか、解説があってもよかったのではなかろうか。

この週まで見たところでは、このドラマは、暢子が一週ごとになにかステップを上がっていく展開のようだ。次週は、おでんの屋台で物語が展開するようだ。楽しみに見ることにしよう。

そして、どうでもいいことだが、土曜日の総集編のとき、ニーニーが無視されてしまっていた。ニーニーも、週ごとに仕事が変わるようだ。来週はどんな仕事になるだろうか。

2022年6月4日記

追記 2022年6月12日
この続きは、
やまもも書斎記 2022年6月12日
『ちむどんどん』あれこれ「てびち!てびち!てびち!!」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/06/12/9499151

『中央線小説傑作選』南陀楼綾繁(編)/中公文庫2022-06-06

2022年6月6日 當山日出夫(とうやまひでお)

中央線小説傑作選

南陀楼綾繁(編).『中央線小説傑作選』(中公文庫).中央公論新社.2022
https://www.chuko.co.jp/bunko/2022/03/207193.html

短篇集である。収録するのは次の作品。

土手三番町 内田百閒
こがね虫たちの夜 五木寛之
揺り椅子 小沼丹
阿佐ヶ谷会 井伏鱒二
寒鮒 上林暁
心願の国 原民喜
犯人 太宰治
眼 吉村昭
風の吹く部屋 尾辻克彦
たまらん坂 黒井千次
新開地の事件 松本清張

共通することとしては、中央線の沿線にまつわる小説、ただこれだけである。そして、配列順は、駅順になっていく。ちょっと変わったアンソロジーである。このような趣向の本もあっていいと思う。

実に様々な作品がある。やや長いものもあれば、ごく短いものもある。なんとなく時間のあるときに、手にする本として読んで、ようやく読み終わった。

なかで印象に残るのは、五木寛之の作品だろうか。私は、これまで、あまり五木寛之の作品を読んではこなかった。なんとなく遠ざけてきたところがある。考えてみれば、五木寛之も、二〇世紀から二一世紀にかけて、昭和戦後の時代から平成の時代を経て、活躍してきていることになる。五木寛之も、読んでおきたい作家として、再認識することになった。

ところで、中央線沿線が舞台の作品というと、私が思い浮かぶのは、向田邦子のライオンの話しである。たしか、中野あたりのことではなかったろうか(記憶で書いているのであいまいであるが。)これなど、是非、収録したいと思う。が、これは、小説ではなくエッセイだから無理なのかもしれない。

ともあれ、このアンソロジーに入っていなければ読まなかったような作品が多くあることもたしかである。

2022年6月1日記

『鎌倉殿の13人』あれこれ「義時の生きる道」2022-06-07

2022年6月7日 當山日出夫

『鎌倉殿の13人』第22回「義時の生きる道」
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/story/22.html

前回は、
やまもも書斎記 2022年5月31日
『鎌倉殿の13人』あれこれ「仏の眼差し」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/05/31/9495656

頼朝は、征夷大将軍になった。

昔習った歴史の授業では、一一九二年に頼朝が征夷大将軍になった時を、鎌倉幕府の成立ということであったが、近年はそうではないようだ。このドラマでも、征夷大将軍になったことはあつかっていたが、それで鎌倉殿の統治・政治が特に変わったということでもない。まあ、近年の歴史学の研究としては、後白河院が亡くなったので、ようやく頼朝にも、それにふさわしい地位が回ってきたということのようだが。

その後白河院であるが、亡くなった。ただ、ドラマを見ていて気になったのは、ナレーションで、そのことを「死」と言っていたことである。ここで、特に皇室敬語を使うべきとは思わないのだが、とはいえ、ちょっとここには違和感がある。

そして、蘇我の五郎と十郎。『曽我物語』は、若い時に、古い古典大系で手にしたことはあるのだが、そう詳しく読むということもなく、そのままになってしまっている。『曽我物語』は、確かに中世の軍記の一つということになる。が、文学史の上では、その近世における受容の方が大きな問題かもしれない。

楽しみで本を読む生活である。『曽我物語』も探せば残っている。これも再度読んでみようかとも思う。

2022年6月6日記

追記 2022年6月14日
この続きは、
やまもも書斎記 2022年6月14日
『鎌倉殿の13人』あれこれ「狩りと獲物」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/06/14/9499732

青もみじ2022-06-08

2022年6月8日 當山日出夫

水曜日は写真の日。今日はもみじである。

前回は、
やまもも書斎記 2022年6月1日
雨の滴
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/06/01/9495926

雨がふったので、朝、外にカメラを持って出る。雨が降っている間は家にいるが、止んだらその後しばらく外に出てまわりを見て歩く。ちょうど今は、もみじが新緑のシーズンである。そこに雨が降ってぬれると、独特の色合いになる。雨にぬれたもみじは、雨の季節を感じさせる。

先週は、もみじの葉の先端についた水滴にしぼって写してみた。今回は、もみじの葉の形が分かるように写したものである。

見ていると雨の降っているときのもみじもいいものなのだが、さすがにこれはカメラを持って外に出る気になれない。雨がやんでからの写真である。

もみじ

もみじ

もみじ

もみじ

もみじ

もみじ

Nikon D500
TAMRON SP 90mm F/2.8 Di MACRO 1:1 VC USD

2022年6月7日記

追記 2022年6月15日
この続きは、
やまもも書斎記 2022年6月15日
ガマズミ
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/06/15/9500046

映像の世紀バタフライエフェク「ヒトラーVSチャップリン 終わりなき闘い」2022-06-09

2022年6月9日 當山日出夫

映像の世紀バタフライエフェクト ヒトラーVSチャップリン 終わりなき闘い

たぶん「映像の世紀」のシリーズのなかで、最も多くの回数登場している人物といったら、おそらくヒトラーかもしれない。(「映像の世紀」シリーズは、昨年の再放送をすべて見たはずである。)

これまで、歴史的映像として、ヒトラーの演説シーンを何度となく目にしてきているのだが、しかし、何故人びとがあの演説に熱狂していたのか、今一つわからないできたというの実際のところである。今では、あのような絶叫とでもいうべき演説に、人びとのこころが動かされるということはないだろうと思ってしまう。

だが、それも、その当時にあっては、冷徹に計算しつくされた演出であり、発声法、話法であったことが、理解される。説明されると、そんなものだったのかと思うところがある。

チャップリンの映画は、いくつか見ている。映画館で見たものもあるし、テレビで見たものもある。そういえば、私が学生のころ、京橋のフィルムセンターはほとんど人が入らなくて、いつもガラガラだった(そのような時代もあったのである)。何度か足をはこんだ。チャップリンの初期の無声映画の短篇をいくつか見たのを思い出す。

番組で興味深かったのは、チャップリンの映画に対する評価の変遷である。時代を諷するものであったが故に、また、時代の流れに翻弄されるところもあった。しかし、最終的にチャップリンの目指したもの、それは笑いによる批判精神とでも言っていいと思うが、これが今にいたるまで残るものとなった。そして、これは、今まさにこの時代だからこそ必要とされるものでもある。

2022年6月7日記

『気狂いピエロ』ライオネル・ホワイト/矢口誠(訳)/新潮文庫2022-06-10

2022年6月10日 當山日出夫(とうやまひでお

気狂いピエロ

ライオネル・ホワイト.矢口誠(訳).『気狂いピエロ』(新潮文庫).新潮社.2022
https://www.shinchosha.co.jp/book/240191/

これは、映画の方が有名だろう。ゴダールの映画である。ただ、私は見たことはない。しかし、名前は知っている。まあ、それほど有名な映画ということになる。

その原作の小説の翻訳ということで読んでみたのだが、これが面白い。文庫本の紹介文には、ノワールとある。確かに犯罪小説ではある。だが、そんなに暗い印象はない。むしろ、あっけらかんと明るい。

どうしようもない男と、なぞの若い女性。犯罪と逃避行。次々と起こる事件と犯罪。あれよあれよというまに話しは展開していく。ほとんど一気に読んでしまった。私としては、この小説を読んで、ある種の滑稽みのようなものを感じたのだが、どうだろうか。読みようによっては、破天荒なスラップスティックとしても読めるような気がする。

ところで、この『気狂いピエロ』という名前をいつ覚えたのだろうか。学生のころから知っていたようには思う。だが、何で名前を見たのかというようなことはさっぱり忘れてしまっている。映画史上に名高い傑作ということで、どこかで憶えたのだろう。

映画の方はともかくとして、これは、小説として読んで面白い。犯罪小説の系譜、あるいは、『ロリータ』などの作品の系譜につらなるものとして、文学史的にはいろいろと考えるところがあるのだろうと思う。が、ここは、楽しみの読書と割りきって、読んで面白ければいいとしておきたい。

2022年6月1日記