『ばけばけ』「アンタ、ガタ、ドコサ。」 ― 2026-02-22
2026年2月22日 當山日出夫
『ばけばけ』「アンタ、ガタ、ドコサ。」
この週から熊本である。
このような展開のドラマを好む人もいるが、しかし、好まない……小泉八雲をモデルにしたドラマで、余計なことはいらない……と、感じる人もいるだろうと思う。
この週のメインの出来事は、司之介の小豆長者の夢(?)の一件と、松野の家での焼き網盗難事件(?)の一件。それに、ヘブンさんが何を書くかということが、からめてあったことになる。
司之介は、松野の家から有り金全部を持ち出す。喫茶店で、荒金九州男とまちあわせる。いかにもうさんくさい、あやしげな人物である。小豆相場で一儲けたくらむ、昔のウサギ長者の夢をもう一度、と見せかけておいて、実は、司之介は、昔のように借金して貧乏になることを望んでいた……まあ、現実には、こんな人はいないだろうと思うが……であった。
司之介は言う……熊本にきて裕福に暮らしているおかげで、昔のようなヒリヒリとした生活の緊張感がなくなってしまった。今風にいえば、生きがい、生きる意味を見失ってしまった、とでもいえるだろうか。もういちど、全財産を失い、借金を背負って生活することにもどりたかった。
コミカルに描いてあったし、実際には、こんなことを思う人間はいないかとも思えるが、しかし、生活が安定して金銭的な苦労がなくなるということが、それで、すぐに生活の充足に繋がるかというと、かならずしもそうではない。こういうことは、現代社会でもあることなので、ある意味では、人間とはこんなものだなあ、と思わせるところがある。
おクマが、トーストを焼く焼き網を無くしてしまう。誰かが泥棒したのかもしれない。その犯人は、松野の家の誰か……である。その中には、ヘブンさんも、おクマもふくまれる。お互いに疑心暗鬼の渦中におとしこまれる。相互不信をすくったのは、正木と丈だった。懐中時計と財布が無くなった、そして、出てきた、という芝居で、一件落着ということになった。
これも荒唐無稽なストーリーといえばそうなのだが、見ていると面白かった。犯人あてミステリ・ドラマ、という作り方になっていて、これはこれで楽しめる。また、お互いに不信感をいだく家族ということを、うまく描いていたとも思う。全体に、シリアスな感情をコミカルに描くということでは、うまく作ってあった。
しかし、これも、たかが焼き網が無くなったぐらいのことで、こんな騒動になることは、普通はありえないだろう、という見方もできる。
ただ、この焼き網のことで、松野の人びと……書生の正木と丈はもちろん、女中のおクマをふくめて……が、一つの家族であることが、あらためて確認されたことになる。
ヘブンさんは、焼き網の一件で、正木と丈の芝居をウソだと見抜くのだが、これが、善意からのものであることを理解する。そして、日本人の心、善意によるウソも肯定される、ということで、新たな執筆のテーマを見つける。
全体としては、私は、この週の内容は良かったと思っている。
細かなことをいえば……焼き網泥棒の、実はあの人が犯人だの再現シーンで、壁にかけてあった焼き網の隣にあったザルの有無が、人物によって違っていたりして、ここは齟齬があるなと思ったところもある。
司之介と荒金九州男が会っていた喫茶店の照明が気になる。この時代(明治25年)では、まだ電気は普及していない。ランプの時代である。松江の白鳥倶楽部の天井の照明もそうだったが、いかにも現在の電気のランプということだった。このあたりは、見ていて気になった。
ヘブンさんは、熊本には、昔の日本の古い良いものが残っていないと言っていたが、まあ、近代化をおしするめる時代の先端を行く街ということであるので、こういう評価になるのは、いたしかたないかと思う。だが、この時代の熊本にも、古くからのものはたくさん残っていたはずであるが。
近代化する日本を忌避する一方で、つとめているのは高等中学校で、まさに日本の近代化を象徴する高等教育機関である。この上には、この時代では、東京の帝国大学しかない。自分の仕事と、日本の近代化は、矛楯することなのなだが、ヘブンさんは、こういうことは気にしていない。
この意味では、モデルの小泉八雲も、同じようなところがある。松江の古いものを賞賛しながらも、同時に、近代的な学校や軍隊や近代天皇制を、そのまますばらしいものと描いている。
冬は寒いから嫌いだといいながら、ストーブを求める。昔からの日本の生活であれば、火鉢か囲炉裏か、あるいは、コタツぐらいである。石炭ストーブなど、近代になってからの最先端の暖房である。(これは、つい近年まで日本では使われていた。私が小学校のころは、教室の暖房は石炭ストーブだった。今から60年ぐらい昔のことである。石炭ストーブは、マッチがあれば火がつくというものではないので、ちょっと気になったところではあるが。)
熊本で、ヘブンさんたちの朝御飯がトーストである。司之介は嫌いだが。これも、近代的な生活様式が可能になる熊本という街ならではのことだろう。
しかし、トーストを焼くのに、大きな火鉢を使って焼き網に並べてというのは、ちょっとおかしい。全面を加熱するためには、大量の炭火が必要だが、そんなにたくさんの炭火を入れて使うようには、火鉢は作られてはいない。このあたりの描写は、実際に日常生活で火鉢を使うという経験があるかどうかで、見方が変わってくるところだろう。
結局、焼き網は、家の中の井戸と壁の隙間に落っこちていた、ということであった。しかし、こういう結末は、やはりおクマの落ち度、ということになるはずだが、みんな焼き網の一件は忘れて、楽しくハッピーになっている。これはこれでいいのだろう。
あんたがたどこさ……の手鞠歌は私も知っている。昔の鞠つきは、掌で上にポンポンすることのようだったが、それが、地面にむけて鞠をつくようになったのは、いつごろからのことなのだろうか。子どもの遊びの歴史として、興味あるところである。しかし、今の、子どもたちは、鞠つきなどしないかもしれない。
おクマは、身寄りのない不遇な境遇にあったらしい。ヘブンさんの家にやとわれて、高給をもらっている(と、本人は思っている)。ヘブンさんたちの家族の一員と認められたことで、その笑顔は、かわいらしいと感じるものであった。
それにしても、あんたがどこさ、の歌をじっくりと聴いたのは、はじめてかもしれない。(だが、この歌の歌詞は、タヌキを食べてしまうので、タヌキにとってはとても残酷な内容ではあるが。)
2026年2月21日記
『ばけばけ』「アンタ、ガタ、ドコサ。」
この週から熊本である。
このような展開のドラマを好む人もいるが、しかし、好まない……小泉八雲をモデルにしたドラマで、余計なことはいらない……と、感じる人もいるだろうと思う。
この週のメインの出来事は、司之介の小豆長者の夢(?)の一件と、松野の家での焼き網盗難事件(?)の一件。それに、ヘブンさんが何を書くかということが、からめてあったことになる。
司之介は、松野の家から有り金全部を持ち出す。喫茶店で、荒金九州男とまちあわせる。いかにもうさんくさい、あやしげな人物である。小豆相場で一儲けたくらむ、昔のウサギ長者の夢をもう一度、と見せかけておいて、実は、司之介は、昔のように借金して貧乏になることを望んでいた……まあ、現実には、こんな人はいないだろうと思うが……であった。
司之介は言う……熊本にきて裕福に暮らしているおかげで、昔のようなヒリヒリとした生活の緊張感がなくなってしまった。今風にいえば、生きがい、生きる意味を見失ってしまった、とでもいえるだろうか。もういちど、全財産を失い、借金を背負って生活することにもどりたかった。
コミカルに描いてあったし、実際には、こんなことを思う人間はいないかとも思えるが、しかし、生活が安定して金銭的な苦労がなくなるということが、それで、すぐに生活の充足に繋がるかというと、かならずしもそうではない。こういうことは、現代社会でもあることなので、ある意味では、人間とはこんなものだなあ、と思わせるところがある。
おクマが、トーストを焼く焼き網を無くしてしまう。誰かが泥棒したのかもしれない。その犯人は、松野の家の誰か……である。その中には、ヘブンさんも、おクマもふくまれる。お互いに疑心暗鬼の渦中におとしこまれる。相互不信をすくったのは、正木と丈だった。懐中時計と財布が無くなった、そして、出てきた、という芝居で、一件落着ということになった。
これも荒唐無稽なストーリーといえばそうなのだが、見ていると面白かった。犯人あてミステリ・ドラマ、という作り方になっていて、これはこれで楽しめる。また、お互いに不信感をいだく家族ということを、うまく描いていたとも思う。全体に、シリアスな感情をコミカルに描くということでは、うまく作ってあった。
しかし、これも、たかが焼き網が無くなったぐらいのことで、こんな騒動になることは、普通はありえないだろう、という見方もできる。
ただ、この焼き網のことで、松野の人びと……書生の正木と丈はもちろん、女中のおクマをふくめて……が、一つの家族であることが、あらためて確認されたことになる。
ヘブンさんは、焼き網の一件で、正木と丈の芝居をウソだと見抜くのだが、これが、善意からのものであることを理解する。そして、日本人の心、善意によるウソも肯定される、ということで、新たな執筆のテーマを見つける。
全体としては、私は、この週の内容は良かったと思っている。
細かなことをいえば……焼き網泥棒の、実はあの人が犯人だの再現シーンで、壁にかけてあった焼き網の隣にあったザルの有無が、人物によって違っていたりして、ここは齟齬があるなと思ったところもある。
司之介と荒金九州男が会っていた喫茶店の照明が気になる。この時代(明治25年)では、まだ電気は普及していない。ランプの時代である。松江の白鳥倶楽部の天井の照明もそうだったが、いかにも現在の電気のランプということだった。このあたりは、見ていて気になった。
ヘブンさんは、熊本には、昔の日本の古い良いものが残っていないと言っていたが、まあ、近代化をおしするめる時代の先端を行く街ということであるので、こういう評価になるのは、いたしかたないかと思う。だが、この時代の熊本にも、古くからのものはたくさん残っていたはずであるが。
近代化する日本を忌避する一方で、つとめているのは高等中学校で、まさに日本の近代化を象徴する高等教育機関である。この上には、この時代では、東京の帝国大学しかない。自分の仕事と、日本の近代化は、矛楯することなのなだが、ヘブンさんは、こういうことは気にしていない。
この意味では、モデルの小泉八雲も、同じようなところがある。松江の古いものを賞賛しながらも、同時に、近代的な学校や軍隊や近代天皇制を、そのまますばらしいものと描いている。
冬は寒いから嫌いだといいながら、ストーブを求める。昔からの日本の生活であれば、火鉢か囲炉裏か、あるいは、コタツぐらいである。石炭ストーブなど、近代になってからの最先端の暖房である。(これは、つい近年まで日本では使われていた。私が小学校のころは、教室の暖房は石炭ストーブだった。今から60年ぐらい昔のことである。石炭ストーブは、マッチがあれば火がつくというものではないので、ちょっと気になったところではあるが。)
熊本で、ヘブンさんたちの朝御飯がトーストである。司之介は嫌いだが。これも、近代的な生活様式が可能になる熊本という街ならではのことだろう。
しかし、トーストを焼くのに、大きな火鉢を使って焼き網に並べてというのは、ちょっとおかしい。全面を加熱するためには、大量の炭火が必要だが、そんなにたくさんの炭火を入れて使うようには、火鉢は作られてはいない。このあたりの描写は、実際に日常生活で火鉢を使うという経験があるかどうかで、見方が変わってくるところだろう。
結局、焼き網は、家の中の井戸と壁の隙間に落っこちていた、ということであった。しかし、こういう結末は、やはりおクマの落ち度、ということになるはずだが、みんな焼き網の一件は忘れて、楽しくハッピーになっている。これはこれでいいのだろう。
あんたがたどこさ……の手鞠歌は私も知っている。昔の鞠つきは、掌で上にポンポンすることのようだったが、それが、地面にむけて鞠をつくようになったのは、いつごろからのことなのだろうか。子どもの遊びの歴史として、興味あるところである。しかし、今の、子どもたちは、鞠つきなどしないかもしれない。
おクマは、身寄りのない不遇な境遇にあったらしい。ヘブンさんの家にやとわれて、高給をもらっている(と、本人は思っている)。ヘブンさんたちの家族の一員と認められたことで、その笑顔は、かわいらしいと感じるものであった。
それにしても、あんたがどこさ、の歌をじっくりと聴いたのは、はじめてかもしれない。(だが、この歌の歌詞は、タヌキを食べてしまうので、タヌキにとってはとても残酷な内容ではあるが。)
2026年2月21日記
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