『ひまわり』「第九章 ならぬ堪忍するが堪忍?」(8月10日~8月15日) ― 2026-08-16
2026年8月16日 當山日出夫
『ひまわり』「第九章 ならぬ堪忍するが堪忍?」(8月10日~8月15日)
この週は、福島を離れて東京でのこと。
このドラマのいいところは、法曹の世界でのできごとや、そこで、考えること、悩むこと、これが、主に南田家の人びとの思うところや悩むことと、微妙に繋がっているところだと思っている。そのつながりが根底にあると感じられるからこそ、のぞみが、法律の仕事をしている場面では、実は自分の家族は父と母が~~と言いださないでいること、これが、見ながら想像することになる。南田のような家庭で育ったのぞみなら、先に出てきた、父親と娘の無理心中事件についても、それなりに思うところはあったはずだが、そのことについて、のぞみが心中でどう思っていたかは、あえて科白では表現していない。
このドラマのかなり前のことになるが、赤松が、人間とはしゃべりたくなるものである、ということを言っていた。これは、伏線として、その後の展開に役立つことになる。
殺人罪で裁判になった少年。裁判所は、無罪とした。赤松はこれを弁護したわけであるが、その赤松のもとを被告人だった少年がおとづれて、実は、自分は犯行をおかしたと、うちあける。無罪になるよりも、実は自分が犯した罪を黙ったままで生きていくことになるのがつらい、ということである。
その赤松も、あづさに昔からの思いをうちあける。土曜日の回で、赤松は、弁護士事務所で、あづさに黙っているよりも、話した方がいい、と言う。黙っているのは、欺瞞である、ということを考えるようになったらしい。
人間は、自分の思いを話したくなるものである。これは、これで、一つの人間観である。
その一方で、話しをしている内容が、本当のことなのかどうか、それは、また別のことになる。それが、おそらくは、次の週からの、検察での修習で描かれることになる、と憶えている。
人間は話したくなるものであるが、それが、自分の本当に思っていることなのかどうかは、また別である……こういうところまで、このドラマは、描いていると思う。この観点では、よくできていると感じる。
のぞみが台所でキャベツを切るシーンがあったが、下手であった。わざと下手な演技をしていたのか、それとも、松嶋菜々子が下手なのか、どっちでもいいが、いかにものぞみらしいという雰囲気が出ていた。
2026年8月15日記
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