「公表したものは共有財産」について ― 2009-10-11
2009-10-11 當山日出夫
先日の、長尾真さんの講演「公表したものは共有財産」、をインターネットで視聴していた。
「科学における情報の上手な権利化と共有化」
http://symposium.lifesciencedb.jp/IPDS/
これについては、すでにコメントなど出ていることと思うので、特に、私が言うほどのこともないと思う。しかし、自分の考え方を整理する意味で、感想をしたためておきたい。
科学(あるいは、科学技術)において、公表したものは共有化すべきである、なにがしか権利が認められるとしても、それは、学問的プライオリティに限定すべきである、極論すれば、長尾さんの発言のなかには、このような趣旨がふくまれている。
あえて、異論を考えてみよう。
学術情報の流通をになってきているのは、大学図書館、公共図書館などの図書館、あるいは、出版社、ということはたしか。このとき、人文学系の学術情報はどうであるかといえば、現実には、零細企業としかいいようのない、小規模の出版社が大多数をしめる。営利をさほど要求されない(のかもしれない)大学出版会などは、例外とすべきではないか。
長尾さんは、データベースの著作権の例として、電話帳の事例を出していた。五十音順電話帳には、著作物性はないが、タウンページ(職業別)になると、データベースの著作物になる・・・こういうことだったかと記憶する。分類という操作が加わる。
ここで、人文学系の学術情報といっても、種々にわかれるが、「論文集」というかたちでの編集は、いったいどう考えるべきであろうか。単に、モノグラフ(個々の論文)を集めたものではない。人文学系専門書の場合、研究者と、専門の学術書専門の出版社(多くは零細企業)の編集者との、緊密なコミュニケーションのもとに生まれる。
個々の「論文」ではなく、「論文集」として編纂されたときの価値が生じる。いいかえるならば、あたりまえのことかもしれないが、編集のセンスと意図がそこにはある。そして、それが、強いメッセージでもある。著者が、なぜ、自分の論文から、ある論文を選び、逆に、ある論文は、あえて収録しないのか、ということも、人文学では、問題になる。(これは、「研究史」という視点からふりかえったとき、大きな問題になる。そして、人文学では、この「研究史」が重要である。)
学術論文といいっても、また、論文集といっても、一様ではない。特に、人文学系では、「編集」のもつメッセージが非常に強い。たしかに、論文が、公開されるメリットは非常に大きいのであるが、ここで、たちどまって、「学術書の編集」ということも考えてみたい。
そのうえで、共有の資源として、公開・共有の道筋を考えたい。
つづく
當山日出夫(とうやまひでお)
先日の、長尾真さんの講演「公表したものは共有財産」、をインターネットで視聴していた。
「科学における情報の上手な権利化と共有化」
http://symposium.lifesciencedb.jp/IPDS/
これについては、すでにコメントなど出ていることと思うので、特に、私が言うほどのこともないと思う。しかし、自分の考え方を整理する意味で、感想をしたためておきたい。
科学(あるいは、科学技術)において、公表したものは共有化すべきである、なにがしか権利が認められるとしても、それは、学問的プライオリティに限定すべきである、極論すれば、長尾さんの発言のなかには、このような趣旨がふくまれている。
あえて、異論を考えてみよう。
学術情報の流通をになってきているのは、大学図書館、公共図書館などの図書館、あるいは、出版社、ということはたしか。このとき、人文学系の学術情報はどうであるかといえば、現実には、零細企業としかいいようのない、小規模の出版社が大多数をしめる。営利をさほど要求されない(のかもしれない)大学出版会などは、例外とすべきではないか。
長尾さんは、データベースの著作権の例として、電話帳の事例を出していた。五十音順電話帳には、著作物性はないが、タウンページ(職業別)になると、データベースの著作物になる・・・こういうことだったかと記憶する。分類という操作が加わる。
ここで、人文学系の学術情報といっても、種々にわかれるが、「論文集」というかたちでの編集は、いったいどう考えるべきであろうか。単に、モノグラフ(個々の論文)を集めたものではない。人文学系専門書の場合、研究者と、専門の学術書専門の出版社(多くは零細企業)の編集者との、緊密なコミュニケーションのもとに生まれる。
個々の「論文」ではなく、「論文集」として編纂されたときの価値が生じる。いいかえるならば、あたりまえのことかもしれないが、編集のセンスと意図がそこにはある。そして、それが、強いメッセージでもある。著者が、なぜ、自分の論文から、ある論文を選び、逆に、ある論文は、あえて収録しないのか、ということも、人文学では、問題になる。(これは、「研究史」という視点からふりかえったとき、大きな問題になる。そして、人文学では、この「研究史」が重要である。)
学術論文といいっても、また、論文集といっても、一様ではない。特に、人文学系では、「編集」のもつメッセージが非常に強い。たしかに、論文が、公開されるメリットは非常に大きいのであるが、ここで、たちどまって、「学術書の編集」ということも考えてみたい。
そのうえで、共有の資源として、公開・共有の道筋を考えたい。
つづく
當山日出夫(とうやまひでお)
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