『失われた時を求めて』岩波文庫(6)2018-11-15

2018-11-15 當山日出夫(とうやまひでお)

失われた時を求めて(6)

プルースト.吉川一義(訳).『失われた時を求めて 6』ゲルマントのほうⅡ(岩波文庫).岩波書店.2013
https://www.iwanami.co.jp/book/b270832.html

続きである。
やまもも書斎記 2018年11月12日
『失われた時を求めて』岩波文庫(5)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/11/12/8996148

岩波文庫版では、「ゲルマントのほう」を三分冊にしてある。この第6巻は、「一」の承前と、「二」の始めのところである。

この巻の見どころとして感じたのは、次の二点。

第一に、ヴィルパリジ侯爵夫人のサロンの描写。

たぶん、このところについて、この作品の書かれた歴史的社会的文化的背景について十分な知識があって読むならば、とても面白い、諧謔にとんだ場面になっているのだろう。だが、私としては、訳本の注にしたがって理解するのがせいぜいである。だが、そのようにして読んでいっても、サロンでの会話は、ある意味で戯画化したような面白みが感じられる。

しかし、「訳者あとがき」を読むと、ただこのサロンの描写は戯画的なだけではないようである。

「『ゲルマントのほう』が提示するものも、『失われた時を求めて』の他の箇所と同じくあくまでも精神のドラマなのである。」(p.403)

第二には、祖母の死。

人の死を美しく描写した作品としては、私などは『白痴』(ドストエフスキー)などを思い浮かべるのだが、この『失われた時を求めて』における祖母の死の描写も、また印象深いものがある。この作品は、意識の流れを描いている。この意味において、祖母が死んでいく「過程」を、「私」の意識の流れのなかに描いていると言っていいのだろう。

以上の二点が、この第6巻を読んで印象に残っているところである。

ふと思って、『失われた時を求めて』を読み始めてしまったのだが、どうやらこの作品のとりこになってしまっているようである。他の小説類に手を出そうという気がしないでいる。(気になる本は、買ったりしてはいるのだが。)

ところで、この作品『失われた時を求めて』は、1913年から刊行がはじまったとある。第一次世界大戦のはじまりが、1914年である。まさに歴史の動乱期に、この作品は、その一つ前の、一九世紀末のフランスを舞台に描いている。このあたりのことが、プルースト研究では、どのように考えられているのか……門外漢である私は知らない。しかし、作者の文学的想像力・創造力は、第一次世界大戦によってこうむった社会の変化を……それは、失ったものへの喪失感であるのかもしれないが……その作品の背景にとらえているような気がしてならない。

次は、第7巻である。楽しみに読むことにしよう。

追記 2018-11-17
この続きは、
やまもも書斎記 2018年11月17日
『失われた時を求めて』岩波文庫(7)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/11/17/8999730

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